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本編
【第六話】血脈の真相
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「おい!もう起きろ朝だぞ」
ゲシッと、普段の仕返しかと思うほど、力いっぱい一切の加減無くレンの頭を蹴る狼。普通の人間なら首の骨が折れていてもおかしくないのだが、彼はまったく平気そうだった。
「……もうちょっとぉ……昨日は頑張り過ぎたかな、眠いんだよねぇ……」
昔あった出来事を思い出す様な夢を見ていたレンが、強制的に眠りから呼び戻された。だが、眠気の方がまだ強い。重い瞼は開けられず、小さな声しか出なかった。
彼の寝る布団の横には、脱ぎ散らかした服といつもかぶっている赤いずきんが落ちている。
裸のまま布団で寝るレンを見下ろしながら、狼が“何か”を思い出してしまい、恥ずかしさに頬を染めながら深いため息をついた。
「じ、自業自得ってやつだ。朝そうなるのは目に見えているんだから、もういい加減諦めて帰ったらどうだ?お前だって学校があるだろうに」
「残念でしたー、学校は今夏休みだよ。母さんへのアリバイはバッチリだし、僕がここに居る事を咎める者は誰も居ない」
瞼を開けぬまま、レンは口元をニヤッとさせながら言った。
それを聞き、慌てる狼。ここに滞在する許可を彼にした覚えはないのに、許可されているが如く言われては当然だ。
「待てよ、おい!私が居るだろうが!何度も何度も、毎日毎日出て行け、帰れと口を酸っぱくして言っている私の存在は無視か⁈」
「……お前を無視?そんな事しないよ、こんなに好きなのに」
さらっと言われ、却って胡散臭く聞こえる。
「いや、無視してる。もっとほ……本気で好きなら、私の意見を聞いてくれてもいいはずだ!」
狼は声を荒げた。
「無理だね、目的を果たすまでは帰らないって言っただろう?」
「いい加減諦めろよ、もう一週間になるじゃないか。私は……お前には、お前にだけは、絶対に名前は教えないからな!」
その言葉を聞き、ムスッと不機嫌顔になるレン。
祖母からの課題をこなさなければ、森に住む許可を貰えないので彼も必死だ。その様には見えないが、本当に必死なのだ。
上半身を布団から起こし、気だるそうに前髪をかきあげた。
「今の言葉で眼が覚めたよ、ありがとう」
ニコッと不自然な笑顔で狼に微笑むと、側に仁王立ちしていた狼の腕をグイッと引っ張り、自分の方へと抱き寄せた。
それにより前に倒れ「うあぁ!」と叫ぶ狼。
「どうしてお前はわからないの?この体はもう僕のモノだって何度も教えているのに。狼ってもっと賢い生き物だと思ってたけれど、違うんだね」
グイッと狼の顎を持ち上げ、噛み付くようなキスをする。
「んんっ…」と無意識に出てしまう甘い声に、狼が屈辱的なものを感じて瞼を強く瞑った。下唇を甘噛みし、歯を舌で舐めると、狼の身体がビクッと震えた。明け方近くまで続いた行為を体が思い出してしまい、両脚が勝手にもじもじと動いてしまう。その様子を満足気に薄く開けた眼で見詰め、レンがゆっくりと唇を離した。
「もっとする?」と言う声は、悪戯っ子の様だ。
二人の唇を繋げる妖艶に光る糸を、ぼぉっとした眼差しで見ていた狼。
ハッと我に返り、眼をくわっと大きく開けて「す、するわけがないだろ!」と叫びながらレンの身体をグイッと押した。
「あ、朝ご飯が出来ているんだ、とっとと食べてくれ。片付けられない」
力の抜けている身体を無理に動かし、狼はレンから離れようとした。だがレンの方が先に狼から離れ、落ちたままになっていた服に手を伸ばした。
「待って、それは洗濯するからそっちの棚の上にあるのを着てくれないか?」
「昨日出してもらったやつだよ?これ」
「……だってその服」
頬を染めて、狼が視線を反らす。
「ああ、そうか。昨日ので色々汚れたかもしれないよね、最初着たままだったし」
しれっと言うレンに対して、狼の方は顔が真っ赤になった。
「わ、わかっているならさっさと他のを着てくれ。目のやり場に困る格好のままでいるな!」
「狼でも裸を見るのは恥ずかしいんだね、人間だって食べちゃうくせに」
狼の用意した新しい服に手を伸ばしながら、レンが言った。
「だから、それは誤解だと。……そ、そもそも、部屋の中で自分達の一族と似ている存在が……そんな、格好なら、気にするなと言う方に……無理があるよ」
しどろもどろになりながらも、狼は何とか理由を言いきった。
「そうだね。僕も狼の裸なんか見れたら、目のやり場に困って自分自身の手で全てを隠してしまいたくなるもんな」
「お前のそれは何か違う」
眉間にシワを寄せ、狼が否定した。
「あ、ちゃんと下着もある。ありがとう、気を使ってくれて」
「……ないと困るんだろ」
「心もとないってだけだけどね」
「ふんっ」と言いながらスクッと立ち上がり、小さくて高さのあまりないテーブルの前に狼が座る。
着替えの終わったレンが後に続いて、テーブルの前に座った。そこに置かれている朝食にレンの喉が鳴る。
「相変わらず朝から凄いね。大変じゃないのか?こんなに」
シチューと焼いた魚、サラダに果物と朝から食べるには少し多い量が小さなテーブルいっぱいに置かれていた。
「お前の好みなんか知らないから、片っ端からどうにかする他ないだろ?」
「お前はもう済んだの?」
「私は狩りの最中で済んでるから、全部お前が食べてくれ」
「……そう、残念。んじゃ遠慮なく頂きます」
冷めたら美味しくなくなると考え、レンは真っ先にシチューに手をつけた。中には、にんじんにジャガイモ、玉ねぎと、いったい狼はこの材料をどこで手に入れてきたんだと問いただしたくなるような野菜がいっぱい入っていた。
「この肉はウサギ?」
「そうだ。文句があるなら食べなくていいよ」
「文句じゃなく、お前は自分で獲ったのかなーって思っただけだよ」
「当然だろう?肉を売っている店なんか森にはないんだ」
「……ずっと思ってたんだけどさ、野菜はどうしたの?ここって台所もないよね、生が基本なお前じゃ使わないから」
その言葉に狼は頭を抱え、深いため息をついた。
「生じゃ食べられないお前の為に、わざわざお前の祖母に台所を貸してもらってるんだよ。疑う前に感謝くらいして欲しいくらいだ!」
「……わざわざ」
「そうだよ、わざわざ人間に頭下げて貸してもらってるんだ」
「——ねぇ、僕らさ結婚しない?」
突然の申し出に、石化の呪文でも聞かされたかのように狼が硬直する。言葉もなく、大きな目を更に大きくさせ、レンの方をただ見詰めている。
「すぐにとは流石に無理だけど、僕はまだ学生で学校もあるし。でもいつかはこの森に僕も住むつもりだからずっと一緒にいようよ、今みたいに」
「ふ、ふざけるな!私はお前に心許した覚えはないぞ!」
「身体は昔から許してくれているよね」
「そ、それは話が別だっ。そ……それに、それはいつもお前が無理やり——」
狼は言葉に詰まり、口元を隠した。
「そんなに、触れられるの嫌?」
持っていたシチューの入った深皿をテーブルに置く。レンは猫のように床をはいながら、狼の側に近寄った。
「プライドの高いお前が、わざわざ人間に物を借りに行ったり、苦手な朝に早起きしてまで狩りに出たりするのは、僕の為なんだろう?」
「くっ…」
狼が喉を詰まらせる。
「本気で帰って欲しいなら、食べ物なんか与えなければいいじゃないか。飢えれば帰るかもしれないのに、お前はそうしない。本当は側に居て欲しいんじゃないの?」
「う、五月蝿い!」
「身体の疼きをどうにかしたいからって理由では、そこまでしないよね。面倒でしょうがないだろ?慣れない調理や裁縫をするのは」
「裁縫は私の趣味だから苦じゃない」
「そう、裁縫が好きだったんだ。それでいつも違う服を見せてくれていたんだね」
ニコッと微笑みながら、狼の頬に優しくレンが触れた。少し触れられただけで、ビクッと震える狼の身体。震えてしまったのは怖いとかいう感情ではなく、優しく触れる手が気持ちよくてしょうがなかったからだ。
「好きだよ、お前が。僕はお前しか見ていないし、お前だって僕以外を欲していないのに、どうしてその事から目を逸らすの?」
「どうして……お前は私じゃないのに、そんなわかった風な事を勝手に——」
「わかるよ。全身で僕を好きだって訴えているもの」
「ねぇ」と囁く声は声変わりし、初めて会ったあの日とは随分違う。男性らしくゴツゴツし始めた手で、狼の柔らかい頬を優しく撫でながら、そっと優しくおでこにキスをした。
「昔からお前は、僕の事が好きで好きでしょうがないくせに、いつもこの事からは目を背けるよね」
「ふざけるな!友情と愛情を間違えたりなんか、私は一度も」
そう言う声を那緒は人差し指を彼女の唇に当てて遮り、黙らせた。
「女の子だと思ってたよね、僕の事」
「ぅぐっ」と言葉に詰まる狼。
「僕の恋愛感情を、年頃の男特有の欲情でしかないと、今でも認めていないよね」
「それは間違ってないよ」
「……愛情と欲情の違いが微妙でどっちかお前にわかってもらえない事は理解できるけれど、そんな理由ではここまで執拗にお前ばかり求めたりはしない」
「お、お前は会う度に私の身体を弄ぶばかりで……何が愛情だ!」
「口で言ってもわかってもらえないんだから、身体で伝えるしかないだろう?」
「その考えがオカシイ!私はお前の玩具じゃないんだ、もっと大事に……優しく扱って、欲しいんだ……」
最後の方は消え入りそうな声で、レンにきちんと声が聞こえたのか微妙なくらいだった。今にも泣き出しそうな目で、狼が口元をキツク結ぶ。
「やっと本音が聞けたね。ここまでくるのに何年かかった事やら」
ため息をつきながらそう言うも、レンの表情は何だかとても嬉しそうに見える。
「ついでに、実は昔から僕を好きでしたって告白はしてくれないの?」
優しい声でそう言いながらレンは狼の身体に触れ、そっと包むこむ様に抱き締めた。
「僕は初めてお前に会った日から、ずっと好きだよ。一目惚れってやつだったんじゃないかな、今思えばわかる事ってやつだけれど」
その言葉を聞き、狼が耳まで赤く染まる。本音では嬉しいのにそれを表に出せず、レンの胸にしがみ付いた。
「僕を女の子だって勘違いしていようが、友達としか思ってもらえなくても、お前の側に居られるならそれでよかったんだ」
レンが優しく狼の頭を撫でる。伏せた状態になっている耳も一緒に、いとおしむ様に。
「その方がお前は無防備になってくれて都合がよかったってのもあるけれどもね」
「そっちが本心だろ……」
「そうかもね、あはは」
レンの胸から顔を離し、ジッと真剣な眼差しで彼の顔を見上げる狼。相変わらずのへの字口で、何かを言いたそうにしているが、黙ったまま口を開かない。
「どうしたの?」
安心させる為、出来るだけ優しい声でレンが問うと、狼は再び彼の胸に顔を埋めてきた。
「……私は、お前なんか大ッ嫌いだ。力でも持久力でも……何にも勝てないし、人間なんかに負けるはずのない私達が、お前なんかと対等にすらなれないのに……好きになんかなれるはずがないじゃないか」
服のせいで声がくぐもって聞こえる。なんか、なんかと卑下する言葉を何度も繰り返す。
「いつか見返して……私達の種族の凄さを見せ付けてやるんだから。対等になって……それで、それから——」
「……ねえ、ずっとオカシイなとは思わなかった?人間の僕が、お前よりも勝っているのは何でか。有り得ない事だよね、それって」
レンがギュッと、狼の身体を強く抱き締める。絶対にお前を放す事など有り得ないとでも言いたげに強く、絞め殺してしまうんじゃないかと思うほど強く、彼女を抱き締めた。
息が詰まり、狼がレンの腕から逃げようともがく。
「僕の中にはね、少しだけお前達と同じ血が入っているんだって、昔聞いた事があるんだ」
「んんん⁈」
彼の腕の中でもがきながら、狼が何を言いたいのかさっぱりわからない声をあげた。
「森に住むお婆ちゃんと、狼の間に生まれた子供の子供。らしいよ、僕は」
レンの背中をバンバンと強く叩く狼。爪を剥き出しにし、引っ掻こうとまでしようとしたのを気配で察し、彼はパッと腕の力を緩めて狼の身体を少しだけ離してやった。
ぷはっと言いながら大きく呼吸する狼。レンはそんな彼女の胸に耳を寄せて抱きつき、狼の背中に腕を回した。
「母さんも、妹もこんな風な身体じゃないんだけどね。この髪色も、僕だけなんだって。僕だけにお婆ちゃんが教えてくれたよ。これって、お前の為にそう生まれたんだとは思えない?」
「……まさか、いや、そんな」
酷く驚いた声で狼が言った。
「狼の血の入った人間になら、負けてもいいかなとか思わない?」
「そんな……レンが?嘘だろ?」
「でもそうじゃないと説明がつかないよね。人間らしからぬ髪の色も、丈夫な身体も」
「そうかもしれないけど、でも——」
「この身体は全てお前の為にあるんだ、でないと僕は僕でいられない。他人と違う事を受け入れるには、お前が必要なんだよ」
「お前の祖母の家に、ボスが入り浸っている事は私達の間では有名な話だが……子供まで出来ていたなんか聞いた事もないぞ⁈」
「ボス?誰それ。……そんな事はどうでもいいよ。僕自身とは関係ない。お爺ちゃん探しなんかする気もないし」
「か、関係なくなんかない!お前がボスの孫となると……話が」
硬直し、狼が視線を彷徨わせる。
「いつも被っている赤いずきんもね、人間達とは違う髪色を隠す為なんだけど……もうそんな事聞こえてないね」
真っ青な顔をする狼の顔を窺いながら、レンがため息をついた。少しはきちんと話を訊いて欲しいと思いながら、そっと彼女を背中を撫でる。
「だって、ボスの孫じゃどうやっても私の上で——」
「ん?ひょっとしてお前達って縦社会なの?命令は絶対だったりする?」
「そ、そん、そんな事、教えられるか!どうせ悪用するに決まってるんだからなお前は」
「その反応って、『はいそうですよ』って言ってるのと同じなのに、何でわからないかなぁ」
ニヤッとレンが意地の悪い笑みを浮かべる。
「か、確定じゃないんだ。お前の命令なんか、私は絶対に聞かないからな!」
「じゃあ、確認して来るよ。お婆ちゃんが全てを知っている。僕には訊く権利があるはずだ」
「待って!そんな事今更知ってお前はどうする気だ?」
胸に埋めていた顔を離すと、レンが狼の腕を力強く掴む。
「お前の名前を知るためなら、僕は何だってするよ。お前達の社会に命令服従な組織システムがあるのなら、それだって利用してやる」
スクッと立ち上がり、床に放っていた赤いずきんを頭に被ると、レンは狼の小屋の出口に向おうとする。
「ご飯は戻ったら食べるからそのままにしておいて。待っててね、すぐに戻るから。絶対にここから出ないで!」
狼を指差しながらそう言うと、レンは出口から外に出て、木の上から下へと勢いよく飛び降りた。着地すると即座に走り出し、自分の祖母の家に向かい、狼さながらの速さで森を駆け抜けていった。
◇
「お婆ちゃん、話があるんだ!」
バンッと勢いよくレンが扉を開ける。その衝撃で家は少し揺れ、天井から掃除しきれぬ埃がパラパラと落ちてきた。
「おや、どうしたの?レンったら怖い顔して。彼女から名前は訊けたのかい?」
そう答えたのは、椅子に座り、孫達のためと思われる小さめの手袋を編む祖母だった。
「僕のお爺ちゃんは、狼の“ボス”なの?」
「……はい?」
編み物をしていた手が止まり、祖母からはキョトンとした声が返ってきた。
「早く答えてよ、時間がないんだ!」
「待って、まずはきちんと話しましょう。それはとても大事な話じゃないかい?」
答え難い質問をされ、祖母が困り顔になった。
「時間がないんだってば。“はい”か“いいえ”で、即座に答えが知りたいんだよ!」
「……急ぐ気持ちはわかるけどねぇ、お婆ちゃんにも伝えるには勇気のいる話だし——」
「相手が何だろうと、どんな経緯で僕らが生まれたんだろうと、そんな事は僕にはどうでもいい事だ。僕はお婆ちゃんが好きだし、僕は自分のこの身体が気に入っている。今はそれ以上に大事な事を待たせているんだよ!」
切羽詰った感じを隠す事無く、レンが捲くし立てるように話す。
普段は見せる事のない表情に祖母は驚きを感じたが、あの狼に関する事ならば当然かと納得した。『困った子ね』とでも言いたげな表情で軽いため息をつき、穏やかな笑顔で言った。
「……じゃあ、次にここに来る時にはきちんと私の話を聞いてくれるかい?レン」
「何時間でも、何日でも付き合いうよ」
レンは真剣な表情でそう答え、頷いた。
「そう。ならその日までに、改めて覚悟を決めておこうかね」
「うん、そうして」
——呼吸おき、覚悟を決める。
「……答えは“はい”だよ。お前の血縁上の祖父は、狼達に“ボス”と呼ばれる存在さ」
いつになく真剣な表情で、祖母はそう言った。
「これでいいかい?」
「ああ!ありがとうお婆ちゃん。良かった!本当に良かった‼︎あ、母さん達にはまだしばらくここに居る事にしておいてね!」
まだ幼さの残る可愛い笑顔で叫びながら、祖母の家を飛び出しレンは森の方へと全速力で戻っていった。嵐のように現れ、そして消えていった孫に困った表情を祖母が浮かべる。
「なんでまぁ、あんなに私に似たんだかねぇ」
そうぼやくも、どこかその表情は過去の自分を見た懐かしさに浸るような顔をしていた。
◇
「戻ったよ!」
木の下で大声をあげて叫び、木をスルスルと登って行く。登りきると、その上に作られた小屋の中へ、レンが入っていった。
「お前の予想通りだったよ、お前の言うボスって奴が僕の——」
言葉が止まった。
狼のいる筈の部屋の中は閑散とし、誰も居ない。一部屋しかない部屋の中、探す場所と言えばせいぜい布団の中くらいなのだが、誰かが寝ているような膨らみもない。
狼の姿を探して、レンが無駄にキョロキョロと周囲を見渡す。
心臓の鼓動がどんどん早くなり、彼女を呼ぼうとしたが——レンは狼の名前を知らない。
探すために叫びたい名前を、知らない。
「……」
口を開け、どう彼女を呼んでいいのか困り、口をパクパクさせる。
半年前に一度味わい、もう二度と経験したくないと思った感情が再び心を支配する。肌を重ね、心をも縛るように彼女を無理やり自分の手元に置いても、居なくなってしまった時に叫ぶ為の名を知らない自分が情けなくて、小さな存在に思えてくる。どんなに彼女を求めても、名前を知らないというだけで、自分の気持ちまでも不安定に感じる。
まるで、実は彼女という存在すらもこの世になかったんじゃという錯覚すら襲われ、レンは膝を床に付き、天を仰ぐような姿で「ああああああああ!!」と断末魔に近い悲鳴をあげた。
その声は周囲に響き渡り、その声を耳にした命ある者達は、悲しみに心を支配されぬよう強く耳を塞いだ。
ゲシッと、普段の仕返しかと思うほど、力いっぱい一切の加減無くレンの頭を蹴る狼。普通の人間なら首の骨が折れていてもおかしくないのだが、彼はまったく平気そうだった。
「……もうちょっとぉ……昨日は頑張り過ぎたかな、眠いんだよねぇ……」
昔あった出来事を思い出す様な夢を見ていたレンが、強制的に眠りから呼び戻された。だが、眠気の方がまだ強い。重い瞼は開けられず、小さな声しか出なかった。
彼の寝る布団の横には、脱ぎ散らかした服といつもかぶっている赤いずきんが落ちている。
裸のまま布団で寝るレンを見下ろしながら、狼が“何か”を思い出してしまい、恥ずかしさに頬を染めながら深いため息をついた。
「じ、自業自得ってやつだ。朝そうなるのは目に見えているんだから、もういい加減諦めて帰ったらどうだ?お前だって学校があるだろうに」
「残念でしたー、学校は今夏休みだよ。母さんへのアリバイはバッチリだし、僕がここに居る事を咎める者は誰も居ない」
瞼を開けぬまま、レンは口元をニヤッとさせながら言った。
それを聞き、慌てる狼。ここに滞在する許可を彼にした覚えはないのに、許可されているが如く言われては当然だ。
「待てよ、おい!私が居るだろうが!何度も何度も、毎日毎日出て行け、帰れと口を酸っぱくして言っている私の存在は無視か⁈」
「……お前を無視?そんな事しないよ、こんなに好きなのに」
さらっと言われ、却って胡散臭く聞こえる。
「いや、無視してる。もっとほ……本気で好きなら、私の意見を聞いてくれてもいいはずだ!」
狼は声を荒げた。
「無理だね、目的を果たすまでは帰らないって言っただろう?」
「いい加減諦めろよ、もう一週間になるじゃないか。私は……お前には、お前にだけは、絶対に名前は教えないからな!」
その言葉を聞き、ムスッと不機嫌顔になるレン。
祖母からの課題をこなさなければ、森に住む許可を貰えないので彼も必死だ。その様には見えないが、本当に必死なのだ。
上半身を布団から起こし、気だるそうに前髪をかきあげた。
「今の言葉で眼が覚めたよ、ありがとう」
ニコッと不自然な笑顔で狼に微笑むと、側に仁王立ちしていた狼の腕をグイッと引っ張り、自分の方へと抱き寄せた。
それにより前に倒れ「うあぁ!」と叫ぶ狼。
「どうしてお前はわからないの?この体はもう僕のモノだって何度も教えているのに。狼ってもっと賢い生き物だと思ってたけれど、違うんだね」
グイッと狼の顎を持ち上げ、噛み付くようなキスをする。
「んんっ…」と無意識に出てしまう甘い声に、狼が屈辱的なものを感じて瞼を強く瞑った。下唇を甘噛みし、歯を舌で舐めると、狼の身体がビクッと震えた。明け方近くまで続いた行為を体が思い出してしまい、両脚が勝手にもじもじと動いてしまう。その様子を満足気に薄く開けた眼で見詰め、レンがゆっくりと唇を離した。
「もっとする?」と言う声は、悪戯っ子の様だ。
二人の唇を繋げる妖艶に光る糸を、ぼぉっとした眼差しで見ていた狼。
ハッと我に返り、眼をくわっと大きく開けて「す、するわけがないだろ!」と叫びながらレンの身体をグイッと押した。
「あ、朝ご飯が出来ているんだ、とっとと食べてくれ。片付けられない」
力の抜けている身体を無理に動かし、狼はレンから離れようとした。だがレンの方が先に狼から離れ、落ちたままになっていた服に手を伸ばした。
「待って、それは洗濯するからそっちの棚の上にあるのを着てくれないか?」
「昨日出してもらったやつだよ?これ」
「……だってその服」
頬を染めて、狼が視線を反らす。
「ああ、そうか。昨日ので色々汚れたかもしれないよね、最初着たままだったし」
しれっと言うレンに対して、狼の方は顔が真っ赤になった。
「わ、わかっているならさっさと他のを着てくれ。目のやり場に困る格好のままでいるな!」
「狼でも裸を見るのは恥ずかしいんだね、人間だって食べちゃうくせに」
狼の用意した新しい服に手を伸ばしながら、レンが言った。
「だから、それは誤解だと。……そ、そもそも、部屋の中で自分達の一族と似ている存在が……そんな、格好なら、気にするなと言う方に……無理があるよ」
しどろもどろになりながらも、狼は何とか理由を言いきった。
「そうだね。僕も狼の裸なんか見れたら、目のやり場に困って自分自身の手で全てを隠してしまいたくなるもんな」
「お前のそれは何か違う」
眉間にシワを寄せ、狼が否定した。
「あ、ちゃんと下着もある。ありがとう、気を使ってくれて」
「……ないと困るんだろ」
「心もとないってだけだけどね」
「ふんっ」と言いながらスクッと立ち上がり、小さくて高さのあまりないテーブルの前に狼が座る。
着替えの終わったレンが後に続いて、テーブルの前に座った。そこに置かれている朝食にレンの喉が鳴る。
「相変わらず朝から凄いね。大変じゃないのか?こんなに」
シチューと焼いた魚、サラダに果物と朝から食べるには少し多い量が小さなテーブルいっぱいに置かれていた。
「お前の好みなんか知らないから、片っ端からどうにかする他ないだろ?」
「お前はもう済んだの?」
「私は狩りの最中で済んでるから、全部お前が食べてくれ」
「……そう、残念。んじゃ遠慮なく頂きます」
冷めたら美味しくなくなると考え、レンは真っ先にシチューに手をつけた。中には、にんじんにジャガイモ、玉ねぎと、いったい狼はこの材料をどこで手に入れてきたんだと問いただしたくなるような野菜がいっぱい入っていた。
「この肉はウサギ?」
「そうだ。文句があるなら食べなくていいよ」
「文句じゃなく、お前は自分で獲ったのかなーって思っただけだよ」
「当然だろう?肉を売っている店なんか森にはないんだ」
「……ずっと思ってたんだけどさ、野菜はどうしたの?ここって台所もないよね、生が基本なお前じゃ使わないから」
その言葉に狼は頭を抱え、深いため息をついた。
「生じゃ食べられないお前の為に、わざわざお前の祖母に台所を貸してもらってるんだよ。疑う前に感謝くらいして欲しいくらいだ!」
「……わざわざ」
「そうだよ、わざわざ人間に頭下げて貸してもらってるんだ」
「——ねぇ、僕らさ結婚しない?」
突然の申し出に、石化の呪文でも聞かされたかのように狼が硬直する。言葉もなく、大きな目を更に大きくさせ、レンの方をただ見詰めている。
「すぐにとは流石に無理だけど、僕はまだ学生で学校もあるし。でもいつかはこの森に僕も住むつもりだからずっと一緒にいようよ、今みたいに」
「ふ、ふざけるな!私はお前に心許した覚えはないぞ!」
「身体は昔から許してくれているよね」
「そ、それは話が別だっ。そ……それに、それはいつもお前が無理やり——」
狼は言葉に詰まり、口元を隠した。
「そんなに、触れられるの嫌?」
持っていたシチューの入った深皿をテーブルに置く。レンは猫のように床をはいながら、狼の側に近寄った。
「プライドの高いお前が、わざわざ人間に物を借りに行ったり、苦手な朝に早起きしてまで狩りに出たりするのは、僕の為なんだろう?」
「くっ…」
狼が喉を詰まらせる。
「本気で帰って欲しいなら、食べ物なんか与えなければいいじゃないか。飢えれば帰るかもしれないのに、お前はそうしない。本当は側に居て欲しいんじゃないの?」
「う、五月蝿い!」
「身体の疼きをどうにかしたいからって理由では、そこまでしないよね。面倒でしょうがないだろ?慣れない調理や裁縫をするのは」
「裁縫は私の趣味だから苦じゃない」
「そう、裁縫が好きだったんだ。それでいつも違う服を見せてくれていたんだね」
ニコッと微笑みながら、狼の頬に優しくレンが触れた。少し触れられただけで、ビクッと震える狼の身体。震えてしまったのは怖いとかいう感情ではなく、優しく触れる手が気持ちよくてしょうがなかったからだ。
「好きだよ、お前が。僕はお前しか見ていないし、お前だって僕以外を欲していないのに、どうしてその事から目を逸らすの?」
「どうして……お前は私じゃないのに、そんなわかった風な事を勝手に——」
「わかるよ。全身で僕を好きだって訴えているもの」
「ねぇ」と囁く声は声変わりし、初めて会ったあの日とは随分違う。男性らしくゴツゴツし始めた手で、狼の柔らかい頬を優しく撫でながら、そっと優しくおでこにキスをした。
「昔からお前は、僕の事が好きで好きでしょうがないくせに、いつもこの事からは目を背けるよね」
「ふざけるな!友情と愛情を間違えたりなんか、私は一度も」
そう言う声を那緒は人差し指を彼女の唇に当てて遮り、黙らせた。
「女の子だと思ってたよね、僕の事」
「ぅぐっ」と言葉に詰まる狼。
「僕の恋愛感情を、年頃の男特有の欲情でしかないと、今でも認めていないよね」
「それは間違ってないよ」
「……愛情と欲情の違いが微妙でどっちかお前にわかってもらえない事は理解できるけれど、そんな理由ではここまで執拗にお前ばかり求めたりはしない」
「お、お前は会う度に私の身体を弄ぶばかりで……何が愛情だ!」
「口で言ってもわかってもらえないんだから、身体で伝えるしかないだろう?」
「その考えがオカシイ!私はお前の玩具じゃないんだ、もっと大事に……優しく扱って、欲しいんだ……」
最後の方は消え入りそうな声で、レンにきちんと声が聞こえたのか微妙なくらいだった。今にも泣き出しそうな目で、狼が口元をキツク結ぶ。
「やっと本音が聞けたね。ここまでくるのに何年かかった事やら」
ため息をつきながらそう言うも、レンの表情は何だかとても嬉しそうに見える。
「ついでに、実は昔から僕を好きでしたって告白はしてくれないの?」
優しい声でそう言いながらレンは狼の身体に触れ、そっと包むこむ様に抱き締めた。
「僕は初めてお前に会った日から、ずっと好きだよ。一目惚れってやつだったんじゃないかな、今思えばわかる事ってやつだけれど」
その言葉を聞き、狼が耳まで赤く染まる。本音では嬉しいのにそれを表に出せず、レンの胸にしがみ付いた。
「僕を女の子だって勘違いしていようが、友達としか思ってもらえなくても、お前の側に居られるならそれでよかったんだ」
レンが優しく狼の頭を撫でる。伏せた状態になっている耳も一緒に、いとおしむ様に。
「その方がお前は無防備になってくれて都合がよかったってのもあるけれどもね」
「そっちが本心だろ……」
「そうかもね、あはは」
レンの胸から顔を離し、ジッと真剣な眼差しで彼の顔を見上げる狼。相変わらずのへの字口で、何かを言いたそうにしているが、黙ったまま口を開かない。
「どうしたの?」
安心させる為、出来るだけ優しい声でレンが問うと、狼は再び彼の胸に顔を埋めてきた。
「……私は、お前なんか大ッ嫌いだ。力でも持久力でも……何にも勝てないし、人間なんかに負けるはずのない私達が、お前なんかと対等にすらなれないのに……好きになんかなれるはずがないじゃないか」
服のせいで声がくぐもって聞こえる。なんか、なんかと卑下する言葉を何度も繰り返す。
「いつか見返して……私達の種族の凄さを見せ付けてやるんだから。対等になって……それで、それから——」
「……ねえ、ずっとオカシイなとは思わなかった?人間の僕が、お前よりも勝っているのは何でか。有り得ない事だよね、それって」
レンがギュッと、狼の身体を強く抱き締める。絶対にお前を放す事など有り得ないとでも言いたげに強く、絞め殺してしまうんじゃないかと思うほど強く、彼女を抱き締めた。
息が詰まり、狼がレンの腕から逃げようともがく。
「僕の中にはね、少しだけお前達と同じ血が入っているんだって、昔聞いた事があるんだ」
「んんん⁈」
彼の腕の中でもがきながら、狼が何を言いたいのかさっぱりわからない声をあげた。
「森に住むお婆ちゃんと、狼の間に生まれた子供の子供。らしいよ、僕は」
レンの背中をバンバンと強く叩く狼。爪を剥き出しにし、引っ掻こうとまでしようとしたのを気配で察し、彼はパッと腕の力を緩めて狼の身体を少しだけ離してやった。
ぷはっと言いながら大きく呼吸する狼。レンはそんな彼女の胸に耳を寄せて抱きつき、狼の背中に腕を回した。
「母さんも、妹もこんな風な身体じゃないんだけどね。この髪色も、僕だけなんだって。僕だけにお婆ちゃんが教えてくれたよ。これって、お前の為にそう生まれたんだとは思えない?」
「……まさか、いや、そんな」
酷く驚いた声で狼が言った。
「狼の血の入った人間になら、負けてもいいかなとか思わない?」
「そんな……レンが?嘘だろ?」
「でもそうじゃないと説明がつかないよね。人間らしからぬ髪の色も、丈夫な身体も」
「そうかもしれないけど、でも——」
「この身体は全てお前の為にあるんだ、でないと僕は僕でいられない。他人と違う事を受け入れるには、お前が必要なんだよ」
「お前の祖母の家に、ボスが入り浸っている事は私達の間では有名な話だが……子供まで出来ていたなんか聞いた事もないぞ⁈」
「ボス?誰それ。……そんな事はどうでもいいよ。僕自身とは関係ない。お爺ちゃん探しなんかする気もないし」
「か、関係なくなんかない!お前がボスの孫となると……話が」
硬直し、狼が視線を彷徨わせる。
「いつも被っている赤いずきんもね、人間達とは違う髪色を隠す為なんだけど……もうそんな事聞こえてないね」
真っ青な顔をする狼の顔を窺いながら、レンがため息をついた。少しはきちんと話を訊いて欲しいと思いながら、そっと彼女を背中を撫でる。
「だって、ボスの孫じゃどうやっても私の上で——」
「ん?ひょっとしてお前達って縦社会なの?命令は絶対だったりする?」
「そ、そん、そんな事、教えられるか!どうせ悪用するに決まってるんだからなお前は」
「その反応って、『はいそうですよ』って言ってるのと同じなのに、何でわからないかなぁ」
ニヤッとレンが意地の悪い笑みを浮かべる。
「か、確定じゃないんだ。お前の命令なんか、私は絶対に聞かないからな!」
「じゃあ、確認して来るよ。お婆ちゃんが全てを知っている。僕には訊く権利があるはずだ」
「待って!そんな事今更知ってお前はどうする気だ?」
胸に埋めていた顔を離すと、レンが狼の腕を力強く掴む。
「お前の名前を知るためなら、僕は何だってするよ。お前達の社会に命令服従な組織システムがあるのなら、それだって利用してやる」
スクッと立ち上がり、床に放っていた赤いずきんを頭に被ると、レンは狼の小屋の出口に向おうとする。
「ご飯は戻ったら食べるからそのままにしておいて。待っててね、すぐに戻るから。絶対にここから出ないで!」
狼を指差しながらそう言うと、レンは出口から外に出て、木の上から下へと勢いよく飛び降りた。着地すると即座に走り出し、自分の祖母の家に向かい、狼さながらの速さで森を駆け抜けていった。
◇
「お婆ちゃん、話があるんだ!」
バンッと勢いよくレンが扉を開ける。その衝撃で家は少し揺れ、天井から掃除しきれぬ埃がパラパラと落ちてきた。
「おや、どうしたの?レンったら怖い顔して。彼女から名前は訊けたのかい?」
そう答えたのは、椅子に座り、孫達のためと思われる小さめの手袋を編む祖母だった。
「僕のお爺ちゃんは、狼の“ボス”なの?」
「……はい?」
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「時間がないんだってば。“はい”か“いいえ”で、即座に答えが知りたいんだよ!」
「……急ぐ気持ちはわかるけどねぇ、お婆ちゃんにも伝えるには勇気のいる話だし——」
「相手が何だろうと、どんな経緯で僕らが生まれたんだろうと、そんな事は僕にはどうでもいい事だ。僕はお婆ちゃんが好きだし、僕は自分のこの身体が気に入っている。今はそれ以上に大事な事を待たせているんだよ!」
切羽詰った感じを隠す事無く、レンが捲くし立てるように話す。
普段は見せる事のない表情に祖母は驚きを感じたが、あの狼に関する事ならば当然かと納得した。『困った子ね』とでも言いたげな表情で軽いため息をつき、穏やかな笑顔で言った。
「……じゃあ、次にここに来る時にはきちんと私の話を聞いてくれるかい?レン」
「何時間でも、何日でも付き合いうよ」
レンは真剣な表情でそう答え、頷いた。
「そう。ならその日までに、改めて覚悟を決めておこうかね」
「うん、そうして」
——呼吸おき、覚悟を決める。
「……答えは“はい”だよ。お前の血縁上の祖父は、狼達に“ボス”と呼ばれる存在さ」
いつになく真剣な表情で、祖母はそう言った。
「これでいいかい?」
「ああ!ありがとうお婆ちゃん。良かった!本当に良かった‼︎あ、母さん達にはまだしばらくここに居る事にしておいてね!」
まだ幼さの残る可愛い笑顔で叫びながら、祖母の家を飛び出しレンは森の方へと全速力で戻っていった。嵐のように現れ、そして消えていった孫に困った表情を祖母が浮かべる。
「なんでまぁ、あんなに私に似たんだかねぇ」
そうぼやくも、どこかその表情は過去の自分を見た懐かしさに浸るような顔をしていた。
◇
「戻ったよ!」
木の下で大声をあげて叫び、木をスルスルと登って行く。登りきると、その上に作られた小屋の中へ、レンが入っていった。
「お前の予想通りだったよ、お前の言うボスって奴が僕の——」
言葉が止まった。
狼のいる筈の部屋の中は閑散とし、誰も居ない。一部屋しかない部屋の中、探す場所と言えばせいぜい布団の中くらいなのだが、誰かが寝ているような膨らみもない。
狼の姿を探して、レンが無駄にキョロキョロと周囲を見渡す。
心臓の鼓動がどんどん早くなり、彼女を呼ぼうとしたが——レンは狼の名前を知らない。
探すために叫びたい名前を、知らない。
「……」
口を開け、どう彼女を呼んでいいのか困り、口をパクパクさせる。
半年前に一度味わい、もう二度と経験したくないと思った感情が再び心を支配する。肌を重ね、心をも縛るように彼女を無理やり自分の手元に置いても、居なくなってしまった時に叫ぶ為の名を知らない自分が情けなくて、小さな存在に思えてくる。どんなに彼女を求めても、名前を知らないというだけで、自分の気持ちまでも不安定に感じる。
まるで、実は彼女という存在すらもこの世になかったんじゃという錯覚すら襲われ、レンは膝を床に付き、天を仰ぐような姿で「ああああああああ!!」と断末魔に近い悲鳴をあげた。
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