司書の迷走恋愛

月咲やまな

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番外編

司書達の悩み

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 今朝は遅刻する事もなく、平穏に一日を終える事が出来るだろうと思っていた楠木の甘い考えは、天神の一言で一変してしまった。

「楠木さん…… どうやら私達、皆に『付き合ってる』と思われているみたいですよ?」

 昼休みの混雑も終わり、楠木の淹れたコーヒーで一息ついていた時、隣の席に座る天神が気まずそうな顔でボソッと言った。
 ブハッと口の中のコーヒーが吹き出そうになったのを必死に堪え飲み込むと、ゲホゲホッと咳き込んだ後、掠れる声で楠木が天神に訊いた。
「な、なんっ…… なんでまたそんな噂が?」
「 …… 」
 居心地の悪そうな顔のまま天神がプイッと顔を横に反らしたかと思うと、「それはですねぇ…… 」と小さな声で言いながら、頬を赤く染める。
 そんな表情をされてしまうような事柄が思い浮かばず、楠木は動揺しながら、手に持つコーヒーカップを目の前の机の上に置いた。
「な、何て顔してるんだ。僕、君に何かした?」
「いえ、何も。私も何もしていないですし。楠木さんとは、仕事中は確かによく話す方ではあると思いますがプライベートでの付き合いは全くないですし…… 私も何故そんな噂が今日になっていきなりたったのか不思議でした」
「今日聞いたのか」
「そうです。昼休みの…… 少し後くらいですね。美濃さんに急に呼び止められて『いつの間に付き合ってたのよ』って言われて、初めて」
「付き合ってないのになぁ」
 楠木は天神に対し失礼かもとも思いつつも、どうしても顔が渋くなる。
 正直、そんな類の勘違いは迷惑でしか無い。
「ええ、即『そんな事はない』と否定はしましたが…… どこまで信じてもらえたか」
 そう言いながら天神は俯き、深いため息をもらした。
「理由は訊いたのかい?何故そんな噂がたったのか」
 その言葉にまた、天神は顔を楠木から反らし、頬を赤くした。
「訊きましたけど…… 」
「…… い、言いにくそうだね」
 天神の表情に、楠木までもが気まずそうな雰囲気になる。
 一体何を聞いたんだ?と不思議に思うし気にはなるが、怖くもなった。『普段の行動が』など言われたら、もうどうしていいのかわからない。誰に対しても普通に接しているつもりなのだから。
「だって、言い難くもなりますよ!勘違いされた理由が理由なんですものっ」
 恥ずかしさに顔を染めたまま首をブンブンッと横に振り、言いたくないとでも言いたげな顔で楠木を見詰めたが…… 彼は「言わないとわからないぞー」の一言と共に、天神の頭を乱暴に撫でた。
「言いたくないぃぃっ」
 頭を撫でられながらも、顔を横に振る天神。
 そんな二人のやり取りを本棚の整理をしようと奥から出てきた別の職員が目撃してしまい、「ほら、やっぱり…… 」と、隣を一緒に歩く別の職員に耳打ちした。
 その言葉が耳に入った楠木と天神は咄嗟に離れ、二人とも顔を背けた。

「 …… 」

 職員達が立ち去り、誰も周囲に居ないのを見計らってから楠木が天神に改めて訊く。
「…… で?勘違いを生んだ理由は?」
 観念でもしたのか、彼女はは深いため息を吐き出し、「実はですね——」と言いながら着ている水色のブラウスの襟のボタンを二つ外して、周囲を気にしながら首がよく見える様にする。
 そして「これ、らしいですよ」と、首筋に残る花弁の様な跡を楠木に向かい見せた。

「キスマーク…… ?上手くいったんだな、おめでとう!」

 天神の日々の悩みの様子を、仕事の合間ではあったが、楠木は最初からずっと見続けていた。自分の恋が成就した時の様に喜び、天神に向かい、優しい笑顔で微笑んだ。
「ありがとうございます!——って、そうじゃなくって、楠木さんもココ!」と、天神が自分の首を指差しながら何度も叩いた。

「…… ここ?」

 ワイシャツの襟を少し引っ張りながら下を見たが、自分の首が自分で見えるはずがなく、楠木が『何の事だろう?』と首を傾げる。
「ああそうか」
 天神はそう呟くと、自分の座る受付の引き出しを開け、中に入れてある化粧ポーチから小さな手鏡を取り出した。
「これで見えますかね?」
 取り出した手鏡を天神が楠木へと渡す。
 ノリのよくきいた襟を下へ引っ張りながら、楠木は手鏡で首を見た。
「…… な、何だこれ!?」
 自分の首に、全く記憶にない赤い跡があった事を今初めて気が付いた楠木は、大きな声で叫んでしまった。
「キスマークじゃないんですか?」
「違う違う!」
 『…… たぶん』という言葉が続きそうになったが、その言葉を楠木はグッと飲み込んだ。
 髭を剃る時以外あまり鏡を見る習慣がない楠木は、天神に言われるまで首にそんな跡が残っている事に全く気が付いていなかった。
 楠木にも特定の相手がいるにはいるが、今まで一度も相手にこういった跡を残した事がなければ、残された事もなかったので完全に油断していた。

 首の跡を確認し、楠木が「うーん…… 」と唸りの様な声をこぼす。
 手鏡を天神に返し、青い顔をした楠木は項垂れながらワイシャツを襟を正し、何度も上に引っ張る様な仕草をした。
 酷く気にしている様子に天神は楠木の心中を察し、化粧ポーチに入れたまま放置していた絆創膏を慌てて取り出すと、そっとそれを楠木の前へと差し出す。
「ああ、いいよ。悪いな」
 そう言いながら楠木は軽く手を上げて見せた。
「いえ…… 」
「でもまぁ、理由はわかった」
「同じ位置に、同じ日に赤い跡があったもんだから『付き合ってる』なんて噂が生まれたっぽいですよ」
「物的証拠があるんだから、いくら本人達が否定しても無駄って事か…… 」
「はい」
 楠木と天神は互いの顔を見て困った顔をすると、困り顔のままクスッと笑った。

       ◇

「飛鳥さん!」
 放課後になり、授業の終わった竜一が、受付に座る天神の姿を見た嬉しさを隠す事なく入り口の方から歩いてきた。
 そしてそのすぐ横には、優しい笑みを浮かべる竜也の姿も。
「二人が揃ってここに来るなんて珍しいな」
 受付の奥で書類の整理をしていた楠木が、天神よりも先に竜一達へ返事をした。
「そういえばそうですね、初めて見たかも」
 天神は二人を見上げ、ちょっとだけ気不味い気持ちになった。
「…… そりゃぁ、まぁね」と言いながら、互いの顔を苦笑いで見合う竜一と竜也。
 その笑いの意味に気が付き、天神はあえてそれに対しては何も言わず、「今日は生徒会の仕事はないの?」と竜一に向かい訊いた。
「ええ。明日からはまた忙しくなるので、今日は休みにしました」
「そう、大変ね」
 またしばらく忙しくなってしまう事に少し寂しさ感じながらもそれを隠し、天神が微笑んだ。
「そんな無理した笑顔を見せられても嬉しくないですよ、飛鳥さん」
 受付カウンターの中に座る天神へと手を伸ばし、竜一が彼女の頭を優しく撫でる。
 そんな二人の様子を、にこやかに見守る楠木と竜也。まるで大事にしていた妹や弟に交際相手が出来た時の様な気持ちになりながらも、幸せそうな二人を見ているのは嬉しくてしょうがないようだ。
「そうだ、英語で書かれた詩集を探しているんですが、選んでもらってもいいですか?」
 竜一が天神に対し、不自然なくらいの素敵な笑顔で問い掛けた。
「え、でも私今日は受付だし、館内案内は楠木さんが担当で…… 」
 竜一の頼みに、天神が戸惑う。
「いいよ、行って来ても。ここは俺がやるから。昼休みじゃないから忙しくもないし、一人でも出来るさ」
「それに——」と言いながら、楠木は竜也に視線をやり「コイツが俺の手伝いをしたいって顔してるから、こき使ってやるよ」と言った。
「そうですか?ありがとうございます」
 ペコッと軽く楠木達に向かい頭を下げると、天神は竜一と一緒に、二階の奥の方にある英文の書籍を置いてあるコーナーへと歩いて行った。


「若いなぁ…… 」
 受付カウンターに寄りかかりながら、竜也がボソッと呟く。
「あんな見え透いた誘いに、疑いもせずに引っかかるだなんて」
「…… 若いってなぁ、お前も昔、何度もやってただろうが」
 楠木は呆れ顔でつっこんだ。
「ええ、でも僕はもう同じ真似はしません。する必要もないし」
 竜也はニッと笑い、楠木の頰を、愛撫の様な手付きで撫でた。
「それは……僕が観念して、お前に家の鍵をやったからだろうが」
「だって、そうでもしないと楠木さんは僕と話もしてくれなかったでしょう?」
 天神に代わり、受付カウンターの席に座った楠木が、眉間にシワをよせて竜也を睨み付けた。
「そんな目で見ないで下さいよ、本当に貴方は可愛い人だ」

「可愛い!?ふざけるなぁっ」

 バンッとカウンターテーブルを叩きながら、楠木が小声で言った。
「場所を考えて、声の大きさを控えれる様になったんですね。でも、机を叩いちゃ声を抑える意味が無いですよ?」
 竜也がクスッと楽しそうに笑った。
「しかし…… 僕達は顔以外、全然性格も考えも似ていないと思っていたのに、行動や好みのタイプが似ているとは意外でした」
「お前達は二人が思っているよりもずっと似てるぞ。今更気がついたのか?」
 勘の鋭い所のある竜也よりも先に、自分がその事に気が付いていた事が嬉しかったのか、楠木は誇らしげだ。
 楠木の言葉に、竜也が珍しくムッとした表情になった。
「その顔、可愛いな」
 ニヤッと笑いながら楠木が言うと、照れくさかったのか、竜也が頬を染めて視線をそらした。
「だけど、天神と俺は似ていないと思ってるんだが、竜也から見るとそんなに似てるのか?」
「ええ、似てますね。雰囲気とか考え方とかではなく、何かこう…… 根本的なものが」
「イマイチわからん…… 」
「僕も上手くは言えませんけど、竜一も僕と同意権でしたから、絶対似てるんですよ」
 竜也が言い切る。
「そうか…… 」
「珍しいですね、僕の考えを否定しないなんて」
「なんだよ、いつも僕が否定しかしないみたいな言い方するな」
「実際否定しかされていませんからねぇ」
「仕方ないだろう?いつもお前が変な…… ってそうだ!竜也、お前ココ、何て事してくれたんだ!」
 ワイシャツの襟を軽く下に引っ張り、赤い跡が残る位置を楠木が指差す。
「ああ、勢いですよ」
 何の悪びれもなく、竜也が答えた。
「こういった事はしないって——」
「約束はしていないでしょう?」
 竜也は楠木の言葉を途中で遮った。
「…… していなかったか?」
「してません」とキッパリ否定。
「そうか…… 」
 しているつもりでいたが、していないのなら約束違反だと攻める事が出来ない。
「どうしたんです?今日はいやに素直ですけど」
 その言葉に楠木は黙り、前髪の生え際を軽くかいた。
「話してもいいが、…… 竜也に言うと怒りそうだからなぁ」
「余計に気になるんですが」
 寄りかかっていた受付カウンターの方に振り返り、両手をカウンターテーブルにつくと、カウンター内に座る楠木の顔を竜也が覗き込んで訊いた。
「何です?何があったんですか?」
「…… いや、たいした事じゃないぞ?ちょっと周囲に勘違いされたってだけで」
「勘違い?何を勘違いされたんですか?」
「 …… 」
 楠木が黙り、視線をそらす。
「言わないと、どうなるのか体感したいんですか?」
 そう言う竜也の目が、酷く冷たい。
「いや、ホントにたいした事じゃ…… 」
「 …… 」
「天神と…… 飛鳥くんと僕が、付き合ってるんじゃないかと周囲に言われているみたいなんだ」
「天神さんと貴方が、ですか?」
「ああ。同じ日に、同じ箇所に跡があったせいらしい」
 トントンと赤い跡のある場所を指差し、楠木が言った。
「竜一も同じ事をしてたなんて…… 。考えてもいなかった」
 口惜しそうに竜也が呟いた。
「やっぱり…… 怒ったか?」

「当然でしょう?僕だって、大声で楠木さんが誰と付き合っているのか言いふらしたいくらいなのに——くそっ」

 下唇を咬み、竜也が言葉を吐き捨てる。
 そんな彼の頭に優しく手を乗せ、楠木が無言で傍に寄り添った。
「すまん…… 俺のせいだよな」
「…… いえ、もとはといえば僕が無茶な事を願ったせいですから…… 」
 ため息をつく竜也に向かい、楠木がすまなそうな表情になる。
 なかなか彼の感情を受け入れられず、拒否し続けてきた日々が心に重くのし掛かった。
「そうだ、今日はうちに泊まってけ」
「…… え?」
 いつもどんな時間になったとしても『竜也はまだ学生だから』という理由で家まで送り届けていた楠木が、急にそう言いだした事に竜也は驚きを隠せない。
「…… それで、少しは機嫌を直してくれないか?」
「まぁ…… 確かに直りますけど、そういった理由は隠しておくものですよ?」
 竜也は苦笑しながらも、声は普段の落ち着いたものに戻っている。
「考えを隠せない性分なのは、お前がよく知っているだろう?」
「そうですね、僕が一番…… 楠木さんを知っている。それで今は満足しておきますか」
 軽く息をつくと、「さてと。楠木さん達が定時であがれる様に、二人分の仕事を終わらしてしまいましょうか」と竜也が言った。
 制服の肘部分を軽く上にあげ、腕まくりをするような仕草をする。
「安心しろ。お前が来るだろうと午前でほとんど終えておいたから、実はあんまり仕事は残ってない」
「流石は楠木さんですね、惚れ直しちゃいましたよ」
 ニコッと竜也が優しく微笑む。
「バカッ!そう言った事を易々と言うな!」
 楠木がカウンター越しにいる竜也の口を、慌てて塞いだ。
「楠木さん、お茶を淹れましたけど…… いります?」
 不意に聞こえる、気まずそうな色でそう問う別の職員の声。
「いや、いらない」
 誰もいない事を前提に話していたやり取りを、人に見られていた事に驚き過ぎて、楠木は無表情になりながら返事をした。
「わかりました。飲みたくなったら声かけて下さいね」
 そそくさと立ち去る職員の背を、見詰める楠木の顔が青ざめていく。
「聞かれちゃいましたよね、あの距離じゃ」
 首の後ろを軽くさすりながら、竜也がボソッと呟いた。
「こりゃ新しい噂がたちそうだ」
 苦笑しながらもどこか嬉しそうな竜也と、真っ青でこの世の終わりといった様子の楠木。
 この日はもう、楠木が落ち込んだ状態から立ち直る事はなかったらしい。


 数日後。楠木と天神の二人が付き合っているらしいという噂はまだ消える事がなかったが、楠木と竜也の関係が噂される事は無かった。
 だが、楠木・天神の二人と普段親しくしている様子のない職員が二人に混じり三人で、高級料理店で食事をしている姿を見たとかどうとかいう話が、追加で数人の女性職員の間で噂されていたそうだ。
 口止め料としてのご馳走だとは、知る由もなく。


【終わり】
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