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最終章
【第三話】囚われの身の上③(十六夜・談)
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『絶体絶命』
安直だが、そんな言葉が頭をよぎる。手足は世界樹の根っこに拘束された状態で、頭はデウスの両手に挟まれているのだから、今の状況で脳裏に浮かぶには最も適切な単語だろう。そりゃもうこれ以上の言葉は無いってくらいに。
顔色はきっと、鏡で見なくともわかるくらいに真っ青になっていると思う。背中には冷や汗が伝い落ち、末端には血が巡っていないのか酷く冷たい。喉の奥では声が詰まった感じがして悲鳴も出ないし、瞬きをすることすら出来ずにいるせいで目が乾いてしょうがないのに、彼の一挙手一投足を見逃すまいとさっきからずっと見開いたままだ。
(…… 怖い)
だけど、私の記憶や経験を奪い、書き換えたくらいで本当に“私”が私ではなくなるなんて有り得るんだろうか?もしかしたら彼の思い込みかもと、淡い期待がふと胸の奥に浮かんでは、『全知全能の権能を持つ』と言っていたデウスの言葉を思い出すせいで小さな希望が簡単に打ち砕かれていく。
「フンッ。無反応、ときたか」
舌打ちをし、嫌悪感の滲む瞳で彼が私を一瞥するとデウスは右手で私の頭部を叩いた。そのせいで地面にドサッと倒れ込んでしまう。
どうやら彼の目には私が無反応に等しく映ったみたいで怒りを買ったらしい。無表情のままだったというだけで、体の反応や内心では充分過ぎる程に焦りに恐怖も感じているのに、デウスにはそれが読み取れていないみたいだ。
(となると、彼の権能である『全知』の適応範囲は一体どの辺までなのだろうか?)
知ろうとする意思が無ければ使えない能力なのか、それとも半端に物語から関わりを失い始めている私には使えない能力なのか…… 。勢いよく倒れんだせいで強打した肩を庇いながら上半身を起こし、必死に考える。
「この状況が怖くはないのか?…… あぁそうか。二千年近く生きてきたんだ、今更執着も無いのか」
そんな訳あるか!と叫びたくなった。ハデス様と再会も出来ないまま自分が自分では無くなるだなんて嫌に決まっている。
「あの…… 。私は、死ぬんですか?」と今抱えている疑問を正直に投げ掛けた。
「…… 正確には、違うな。お前という存在を構成している“記憶”と“経験”は世界樹であるユグドラシルの養分となるんだ。それによりお前はこの樹と一心一体となり、未来永劫この星を見守ってゆく事になるのだからな」
そう言ってデウスはしゃがみ、ユグドラシルの根っこを優しく撫でた。“神”としては相応しくない行動のせいで黒く染まった瞳に少しだけ青みが戻る。
「そして真っ新になった核を我が取り込む。そうする事で我は物語に数行だけ登場する程度の瑣末な存在ではなくなり、真なる生命体として、現実世界で生きてゆくのだ!」
あはははは!と大声で笑い、両手を広げて天を仰ぎ見るデウスの姿は猟奇的にしか感じられない。
「核が我と馴染むまでの間は不安定だろうからお前の姿を借りてハデスの側に潜む事になろうが、まぁ問題は無いだろう」
鼻で笑い、私を見下ろす。
「お前と我がすり替わっていようが、どうせ奴は気が付くまい。こんなに無表情で、中身も無い存在と、本気で番う気なんぞ無いだろうからな。所詮は惰性の付き合いだろ」
(そんなはずは無い)
そうは思っても、ギリッと奥歯を噛み締めるくらいしか出来ない自分がもどかしい。だが、やっと表情に変化が出たからか、デウスはとても満足げに微笑み、体を軽く震わせている。能面の様に固定されていた私の表情を歪ませた事が余程嬉しいみたいだ。
「では、そろそろ始めようか」とデウスは言い、パチンッと指を鳴らした。途端に枷みたいに根っこの巻きつく手足がズンッ重くなる。そしてじわじわと私の中から新しい順に記憶が薄れ始めた。
ほんの少し前に鳥獣人として“ハデスさん”の許嫁達の脱出計画に加担したはずなのに、段々と現実味を失っていく。彼に対する執着にも似た感情や、誘拐じみた行為をしてまで番を独占したいと願った気持ちすら他人事の様に思えてきた。
土や根っこが水分を吸うみたいに少しづつ、でも確実に、“私”を構築しているらしい“記憶”を世界樹が奪っていく。なのに私は子供みたいにペタンと地面に座り、瞳の焦点が合わなくなっていく中、虚な眼差しで灰色に変化し切った空を見上げる事しか出来なかった。
視界の隅に映り込むデウスのしたり顔に苛立ちを覚える事すら出来ずにいると、空間にピシッと亀裂が入った気がした。だけど、乾きに乾き、瞳を守ろうと溢れ出してきた涙で滲む視野の片隅のせいで確信が持てない。
(気のせい…… かな)
そんな考えすらも彼方の方へ溶け落ちていきそうな感覚に侵食されていく。この星の物語において、絶対的な善を体現するはずの存在であったはずのデウスが、“私”という存在を本当に世界樹の養分とする気である事に、“鳥獣人”であった時の自分が失望し、消え去って逝きそうになったその時——
錯覚かもしれないと思うレベルの亀裂でしかなかった空間が、バリンッ!と激しい音を立てて硝子の様に砕けていった。
広大な空間が割れたガラスみたいに粉々になって崩れていく。空すらも支えていそうなくらいに大きな世界樹は急激に枯れ落ちていき、私の手足に絡みついていた根っこまでもが途端に解け、ぼたりと落ちて砕けて消えた。代わりに視界に広がったのは、大鷲姿の時に見た記憶が辛うじて残っていた森と山々、そして青く澄んで綺麗な大空だ。どうやらデウスの創り出した空間は人間達の保護区の上空に該当する位置にあったみたいだ。
世界樹の根っこも、灰色に沈んだ空も、花々が綺麗だったはずの草原も。全てが砕けて消え去ったせいで私の体は拠り所を失い、地上に向かって落下し始めた。
(——落ちる!)
鳥獣人だった時みたいに銀色の大鷲の姿に変化出来ないかと試みたが、“アイデース”であった時のデウスがこの身にかけた神力の影響が残っているのか、鳥にもなれない。どうする事も出来ずにぎゅっと瞼を強く閉じた、その時——
私の体は逞しい腕の中にぽすんと包まれた。
同時に香る懐かしい匂い。痛いくらいに強く私の体を抱き締め、「十六夜…… 」と狂おしい色を帯びて呟く声も聞こえる。目を開けずともわかる。ハデス様が助けに来てくれたのだと。
安直だが、そんな言葉が頭をよぎる。手足は世界樹の根っこに拘束された状態で、頭はデウスの両手に挟まれているのだから、今の状況で脳裏に浮かぶには最も適切な単語だろう。そりゃもうこれ以上の言葉は無いってくらいに。
顔色はきっと、鏡で見なくともわかるくらいに真っ青になっていると思う。背中には冷や汗が伝い落ち、末端には血が巡っていないのか酷く冷たい。喉の奥では声が詰まった感じがして悲鳴も出ないし、瞬きをすることすら出来ずにいるせいで目が乾いてしょうがないのに、彼の一挙手一投足を見逃すまいとさっきからずっと見開いたままだ。
(…… 怖い)
だけど、私の記憶や経験を奪い、書き換えたくらいで本当に“私”が私ではなくなるなんて有り得るんだろうか?もしかしたら彼の思い込みかもと、淡い期待がふと胸の奥に浮かんでは、『全知全能の権能を持つ』と言っていたデウスの言葉を思い出すせいで小さな希望が簡単に打ち砕かれていく。
「フンッ。無反応、ときたか」
舌打ちをし、嫌悪感の滲む瞳で彼が私を一瞥するとデウスは右手で私の頭部を叩いた。そのせいで地面にドサッと倒れ込んでしまう。
どうやら彼の目には私が無反応に等しく映ったみたいで怒りを買ったらしい。無表情のままだったというだけで、体の反応や内心では充分過ぎる程に焦りに恐怖も感じているのに、デウスにはそれが読み取れていないみたいだ。
(となると、彼の権能である『全知』の適応範囲は一体どの辺までなのだろうか?)
知ろうとする意思が無ければ使えない能力なのか、それとも半端に物語から関わりを失い始めている私には使えない能力なのか…… 。勢いよく倒れんだせいで強打した肩を庇いながら上半身を起こし、必死に考える。
「この状況が怖くはないのか?…… あぁそうか。二千年近く生きてきたんだ、今更執着も無いのか」
そんな訳あるか!と叫びたくなった。ハデス様と再会も出来ないまま自分が自分では無くなるだなんて嫌に決まっている。
「あの…… 。私は、死ぬんですか?」と今抱えている疑問を正直に投げ掛けた。
「…… 正確には、違うな。お前という存在を構成している“記憶”と“経験”は世界樹であるユグドラシルの養分となるんだ。それによりお前はこの樹と一心一体となり、未来永劫この星を見守ってゆく事になるのだからな」
そう言ってデウスはしゃがみ、ユグドラシルの根っこを優しく撫でた。“神”としては相応しくない行動のせいで黒く染まった瞳に少しだけ青みが戻る。
「そして真っ新になった核を我が取り込む。そうする事で我は物語に数行だけ登場する程度の瑣末な存在ではなくなり、真なる生命体として、現実世界で生きてゆくのだ!」
あはははは!と大声で笑い、両手を広げて天を仰ぎ見るデウスの姿は猟奇的にしか感じられない。
「核が我と馴染むまでの間は不安定だろうからお前の姿を借りてハデスの側に潜む事になろうが、まぁ問題は無いだろう」
鼻で笑い、私を見下ろす。
「お前と我がすり替わっていようが、どうせ奴は気が付くまい。こんなに無表情で、中身も無い存在と、本気で番う気なんぞ無いだろうからな。所詮は惰性の付き合いだろ」
(そんなはずは無い)
そうは思っても、ギリッと奥歯を噛み締めるくらいしか出来ない自分がもどかしい。だが、やっと表情に変化が出たからか、デウスはとても満足げに微笑み、体を軽く震わせている。能面の様に固定されていた私の表情を歪ませた事が余程嬉しいみたいだ。
「では、そろそろ始めようか」とデウスは言い、パチンッと指を鳴らした。途端に枷みたいに根っこの巻きつく手足がズンッ重くなる。そしてじわじわと私の中から新しい順に記憶が薄れ始めた。
ほんの少し前に鳥獣人として“ハデスさん”の許嫁達の脱出計画に加担したはずなのに、段々と現実味を失っていく。彼に対する執着にも似た感情や、誘拐じみた行為をしてまで番を独占したいと願った気持ちすら他人事の様に思えてきた。
土や根っこが水分を吸うみたいに少しづつ、でも確実に、“私”を構築しているらしい“記憶”を世界樹が奪っていく。なのに私は子供みたいにペタンと地面に座り、瞳の焦点が合わなくなっていく中、虚な眼差しで灰色に変化し切った空を見上げる事しか出来なかった。
視界の隅に映り込むデウスのしたり顔に苛立ちを覚える事すら出来ずにいると、空間にピシッと亀裂が入った気がした。だけど、乾きに乾き、瞳を守ろうと溢れ出してきた涙で滲む視野の片隅のせいで確信が持てない。
(気のせい…… かな)
そんな考えすらも彼方の方へ溶け落ちていきそうな感覚に侵食されていく。この星の物語において、絶対的な善を体現するはずの存在であったはずのデウスが、“私”という存在を本当に世界樹の養分とする気である事に、“鳥獣人”であった時の自分が失望し、消え去って逝きそうになったその時——
錯覚かもしれないと思うレベルの亀裂でしかなかった空間が、バリンッ!と激しい音を立てて硝子の様に砕けていった。
広大な空間が割れたガラスみたいに粉々になって崩れていく。空すらも支えていそうなくらいに大きな世界樹は急激に枯れ落ちていき、私の手足に絡みついていた根っこまでもが途端に解け、ぼたりと落ちて砕けて消えた。代わりに視界に広がったのは、大鷲姿の時に見た記憶が辛うじて残っていた森と山々、そして青く澄んで綺麗な大空だ。どうやらデウスの創り出した空間は人間達の保護区の上空に該当する位置にあったみたいだ。
世界樹の根っこも、灰色に沈んだ空も、花々が綺麗だったはずの草原も。全てが砕けて消え去ったせいで私の体は拠り所を失い、地上に向かって落下し始めた。
(——落ちる!)
鳥獣人だった時みたいに銀色の大鷲の姿に変化出来ないかと試みたが、“アイデース”であった時のデウスがこの身にかけた神力の影響が残っているのか、鳥にもなれない。どうする事も出来ずにぎゅっと瞼を強く閉じた、その時——
私の体は逞しい腕の中にぽすんと包まれた。
同時に香る懐かしい匂い。痛いくらいに強く私の体を抱き締め、「十六夜…… 」と狂おしい色を帯びて呟く声も聞こえる。目を開けずともわかる。ハデス様が助けに来てくれたのだと。
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