恋も知らぬ番に愛を注ぐ

月咲やまな

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【第三章】いやしは隣のキミ一人

【第十一話】古書店でのみ現れる本性

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 “星”と“宵川”の両名が暮らすマンションの立地の良さはかなりのものだ。都心部への交通網はきっちりと整い、評判の良い学校が小中高と各種近傍にあって、幼稚園や保育園・託児所といった育児施設も充実している。周辺の治安はとても良く、散歩道や遊具施設が数多く整備された少し大きめの公園にはボートにも乗れる池や体育館、歴史資料館や温水プールまである。
 少し歩いた先に大きなショッピングモールが一昨年オープンしたが、昔懐かし商店街も徒歩圏に生き残っている。売れ筋を中心に扱うモールでは売っていない様な品を敢えて扱う特化型の店ばかりに転向したおかげか、昔と同じ——とまではいかなくとも、それなりに人通りは多いままだ。昭和っぽい、どこか昔懐かしいレトロな雰囲気を楽しむ為に来ている人も多いらしい。

 そんな商店街の中を一人の少年が軽い足取りで歩いている。背中にはランドセルを背負っていて、黒い髪色よりも更に濃い、漆黒色の瞳はどこを見ているかもわからない恐怖を携えている。だが、それらを全て打ち消しても尚お釣りがくる程の美貌の持ち主であるからか、商店街で店を営む人達は嬉しそうに彼に声を掛けた。

「あら!久しぶりね、元気にしてた?」
「おお!坊主、コロッケでも食って行かないか?崩れちまって売り物になんねぇのがあるんだ」
「相変わらず可愛いわねぇ。あ、ちょっと待って!試作のブーケでも持って帰らない?部屋にでも飾ってよ」

 次々に掛けられる人の良さそうな声の全てに愛想よく対応し、少年は「ありがとう!でも今はちょっと急いでるから、帰りには寄るね」と返して手を振った。ただ商店街の割と近所に住む小学生というだけにすぎないのに、彼を一目見れないかと遠方からわざわざ此処まで訪れる人も居るらしいのだから、『ちょっと見目がいいってだけで、子供相手に。ホント…… 馬鹿馬鹿しいな』と、本人はとても呆れ返っている。

 そんな本心を完璧に隠しながら目的地まで足を進め、彼は商店街の一角にある古書店の真ん前で立ち止まった。昭和どころか明治や大正時代にまで遡りそうな風貌の店構えだが、古書店というよりはちょっと小洒落た喫茶店といった雰囲気である。横長な窓は全て磨りガラスになっていて店内は見えない。木製の扉には鈴蘭をあしらったステンドグラスがはめ込んであり、そこには残念ながら黒字で大きく『Closed』と書かれた白い札がぶら下がっていた。どうやら今は営業していないみたいだ。
 なのに彼は構わず扉を開けて、少年はさも当然といった雰囲気で勝手に中へと進む。一歩、また一歩と少年が店内に足を進める度に深淵とも言える程に真っ黒な瞳に色が変化していく。ゆっくり、ゆっくりと変化していったそれは、いつしか血のような赤色に変化していた。

「…… 閉店中ですが?」

 と呆れ声で言い、古書店の店主は少し長めの白銀色をした髪を掻き上げながらふうと小さく息を吐き、右目側のみを飾るモノクルの奥で輝く灰色の瞳を迷惑そうに細めている。襟の高い白シャツの上に黒いベスト、そして同色のスラックスを穿いた彼の格好は作業中、もしくは休憩中の執事を思わせる風貌だ。
「好いた女の尻ばかりを追って年中店を休みにしている奴相手に、こっちが都合を合わせてやる必要は無いだろう?」
 少年は横柄な態度でそう言うと、背負っていたランドセルをドンッと無造作に店の床へ投げ捨てた。まるで『舞台の小道具など今は必要無い』といった雰囲気である。

「貴方にだけは、言われたくありませんねぇ。——ハデス」

「まぁ、そうだよね。お互い様だもんなぁ」
『確かに』と納得し、店主である男に“ハデス”と呼ばれた少年は一番近くにあった椅子を引き、そこに座った。

 放課後の隙間時間を利用してハデスが訪れた店の店内は古書店と言うにはやや本棚が少ない。店の半分くらいはちゃんと本棚で埋まっているが、もう半分は雑貨を綺麗に並べて飾っている背の低い硝子製の棚ばかりで、まるで宝石店か雑貨屋みたいな印象だ。飾り棚の中には古めかしいデザインの小物が丁寧に飾ってあってどれも値札が無い。此処はもう“古書を売る店”と言うより、“思い出を閉じ込めた小さな美術館”と例えた方がいいのかもしれないなと、周囲に軽く視線を投げたハデスは思った。

「で?要件は何ですか?」

 迷惑そうな顔をしながらも店主はお茶の用意を始め、まるで用意でもしてあったみたいに茶菓子を皿に並べてバックヤードから運んで来る。
「相変わらず用意がいいね」
 感心顔で木製の丸テーブルに頬杖をつき、床につかない足をぶらぶらとさせながらハデスが言った。
「貴方の為にじゃない事くらい、当然知っていますよね?」
 不機嫌丸出しでそう答えた店主に対し、ハデスはニヤリ顔で「まあね」と笑いかける。
「大丈夫だ。お前の愛し子が遊びに来る前には解放してあげるから、心配しなくていいよ」
「当然です」と断言しつつ店主も椅子に座り、慣れた手付きでハデスに対し紅茶を淹れてやった。店内にふわりと薔薇の香りが広がり、嬉しそうに二人が顔を綻ばせる。

「あぁ、柊華とうかさんの香りだ」
「十六夜みたいだな」

 同時に別々の女性の名を口にし、そのせいで不快顔を向けあったが喧嘩にまでは至らなかった。『どちらの想い人がより一層薔薇と例えるにふさわしいか』などという絶対に一生答えの出ない不毛な議論をする暇は無いと二人とも思っているからだろう。

「…… それで、用件は何なんですか?こんな世界でまで私を呼び出すなんて、余程の用なのでしょう?」
 紅茶を飲みながらそう訊く店主に対し、ハデスがきょとんとした顔を向けた。

「友人に会うのに、理由がいるのか?」

 子供そのものの容姿と声でそう言われ、店主はブフッ!と勢いよくお茶を吹きこぼしてしまった。あまりにも予想外の返答で、頭も心も対応しきれなかったみたいだ。
「珍しいな、お前がそこまで動揺するなんて」
「ゆ、友人なんて、馬鹿な冗談を貴方が言うからですよ!」
 ポケットからハンカチを取り出し、口元を拭いながら店主が手を軽く上げると、吹きこぼした紅茶で汚れた箇所は跡形もなく消え去った。まるで何事も無かったみたいに全てが元通りになっている。

「…… 手早いな。本の中だと、本当に全てがお前の思い通りだ。流石は“本の精霊”といった所か。いや、今は“本の付喪神”と言うべきなのか?お前が現在居る場所は日本なんだもんな」

 “本の精霊”・“本の付喪神”など——様々な呼称を持つ、本の中の世界では神にも等しい権能を保持する古書店の店主を前にし、ハデスがふっと柔らかく笑った。
 この店の店主はその呼び名に相応しく、本が関わる事ならば何だって自在に出来る。今ハデスが入り込んでいるこの世界も、店主の蔵書の一冊の中にすぎない。この店のすぐ外では人々が普通に生活し、様々な人生を喜怒哀楽を持って生きていても、所詮は“小説”というジャンルに属した物語の世界の中でしかないのだ。
「どちらでもお好きにどうぞ。その様な呼称は、所詮人間が我らの分類分けの為に作った言葉にすぎないのですから」
 ツンとした店主の冷たい対応にハデスは安堵すら感じられる。どうしたって神々同属に嫌われがちなハデスは、店主の無遠慮なこの態度をとても好いていた。

 少しの間瞑目し、店主はまた「用件は?」とハデスに問い掛ける。
「あ、もう『友人に会いに来たなんて』返答はもうやめて下さいね、私がこんな気安い態度なのは、あくまでも『貴方がそう望んでいるから』なだけなのですから」
「…… お前は相変わらず冷たいなぁ」と言って、ハデスが大袈裟に息を吐く。まるで本当に落ち込んでいるみたいにも見えるが、内心では微塵も傷付いてなどいない。彼にとって真に心許せる相手は番である十六夜ただ一人であり、この店主もまた同じ様なものであると互いに理解しているからだ。
「そもそも、私をも秒で消せる存在なのに『気安く接しろ』という無茶な要求を私にする貴方の方が、余程冷たい存在に思えますが?どこまで許されるのか、毎度ヒヤヒヤしながら話すこちらの身にもなって欲しいものです」
 渋い顔でそう告げる店主に対し、ハデスが笑顔を向けた。
「大丈夫だ、俺が一度でも神々 誰かにそんな真似をしたか?」
 表情は笑顔のままだが、寂しそうに赤い瞳を揺らすハデスを見て、古書店の店主である男が眉を一瞬顰めた。彼の本心を一瞬垣間見た様な居心地の悪さを感じる。

「…… “死”を司るが故に、神々をも無条件で消去出来るというだけで、貴方は全ての神々の畏怖の対象だと、何度も…… 。いや、話が逸れましたね。——で?子供としての生活は如何ですか?まだこの物語にバカンスで訪れてからまだ一週間程度だったはずですが。まさか何か問題があって私を此処に呼んだんですか?まぁ…… 貴方は“死”以外の件では案外ポンコツですからね。もう何かから助け欲しいとか?」

「いやいや、セフィルのおかげでそこそこは楽しめているよ。童話の“ヘンゼルとグレーテル”も、よくわからんゲームのシナリオ本の中でも、最高の休暇を味わえたしね。やっと十六夜と交合出来た喜びはもう、本当に昇天するかと思った程だったよ」
 ハデスに“セフィル”と呼ばれた店主はほっとした表情をし、「それは何よりで」と無難に返事をした。
「僕の蔵書は全て君の本のコピーだからね。あれらが無ければ、今頃はまだ愛し子の奥に触れる事も叶わないままだったろうな。体格差や想いの深さの相違なんて、君の領分である本の世界に引っ張り込めば無いも同然だなんて考えもしなかったから、二千年近くを無駄にしていた事を今更すごく悔やんでいる所だよ」
「楽しんでいるのは喜ばしい事ですが、今回は何故、ご自分の記憶を消去したんですか?この物語の主人公である“宵川”少年のままで、“星“である”十六夜”に接っする事のメリットが私には全くわからないのですが」
「簡単な理由だよ」と言い、ハデスは大仰に両手を広げる。

「十六夜から僕を求めて欲しいから、さ」

「いつも僕から彼女を愛してばかりだからね、だから今回は押しの一辺倒じゃなく、ちょっと引いてみようかと思ったんだ」
「…… 私が知っている分には、全く引けていませんが?むしろいつも通り積極的なのでは?」
「もしかして、前回や前々回での僕らの交合も全て見てたの?恥ずかしいなぁ」
「私の性質上、本の中の出来事は全て、どんなに嫌でも完璧に把握出来てしまうんです。それが嫌ならさっさと本の中から出て行ってくれて結構ですよ。私は『十六夜を成長させたいのならこんな手法もあるぞ』と提案してみただけであり、『是非とも本の世界を利用して欲しい』と頼んだ訳じゃないんですから」
 苦虫でも噛み潰したみたいな顔でセフィルが告げる。覗き魔みたいな扱いをされた事が心外だった。
「いやいや。今回の僕はお前の陣地で遊ばせてもらっている身だ、その辺は割り切っておこう。それにどうせお前は十六夜の痴態を知ろうが、微塵も何にも感じないだろうしね」
「そうして頂かないと、こちらも迷惑なのでお願いします。私の想い人は後にも先にも“柊華”ただ一人ですから」
「あぁ、わかっているとも」と口にし、ハデスがニコッと笑った。子供らしい素敵な笑顔なのだが、セフィルは居心地悪そうに身じろいでいる。
「…… いつも無表情で冷たく、横柄な貴方がそんな態度だと…… 正直気持ちが悪いですね」
「十六夜の前ではいつもこんな感じなんだよ。緊急時にお前と会う為にと用意しておいたこの店は現世と幻想世界の境目近くにあるが、どうしたって“宵川”としての“設定”が強いんだろうな」
「その様ですね。入店しても姿形は“宵川”少年のままなのでそうではないかと察してはいましたが…… 気持ち悪いものは、どうしたって気持ち悪いです」
「あはは!自分でもそう思うよ。他人に笑顔を向けれるなんて、本の世界に入るまで想像もしていなかったからな」
「…… どうですか?初の経験は」

「悪くない。むしろ、楽しいかもしれない。十六夜やお前以外との交流も案外悪くないものだなと今なら思えるよ」

「どうやら十六夜の自由意志を育てると同時に、ハデスも色々と学ぶ機会になりそうな感じですね」
 ハデスの変化を垣間見て、セフィルは珍しく彼に対し相好を崩した。お互いにただ都合のいい相手だというだけの関係だと思っていたが、永い付き合いの中で多少はハデスに対して情を抱いていたのだなと今更気が付き、セフィルが気まずげに頬を掻く。
「あぁ、そうかもね。十六夜以外は本当の僕を知らない相手しかいないから、お前みたいに臆せず接してくれるしな」
「だから…… 私は無理をしているだけだと、何度も——」と言い、セフィルは額に手を当てて溜息をこぼした。だがちょっと彼の言葉が嬉しくもあり、複雑な心境だ。

「まぁいいでしょう、そう思いたいのなら、もうそれで。——それで?今回はもうこれで現世に帰る感じですか?」

「んー…… 。いや、もうちょっとこの世界で過ごしてみるつもりだ。折角十六夜側から僕を求めてもらえるはずの環境を借りたと思っていたのに、全然さっぱりちっともそうして貰えている気がしないからね。是非とも、今回も交合目的を果たしてから現世に戻りたい」
「あぁ…… ちゃんと自覚はしているのですね。先程は話を逸らされたので、認めたくなくて実情を見ないフリでもしているのかと思っていたんですが、私の杞憂で良かったです」

「あーあぁ。此処じゃなく、恋愛ものの小説にしておけば、もうちょっとは違ったんだろうか?」

 腕を組み、頭を傾げてハデスが唸る。
「ジャンルの問題では無く、歳の差がネックなのでは?高校生が小学生に惚れるというのは、相当ハードルの高い所業ではないかと。どうしたって恋愛の対象外で、保護すべき存在にしか見えないのではないでしょうか。ましてや今回は、貴方が十六夜の番である“ハデス”だと確信が持てず、“宵川ハデス”からの好意を素直に受け止めて良いものなのかとも悩んでいますし」
「うーん…… 。“ハデス君 ボク”が“ハデス様 僕”であるかどうかがわからないと、浮気したくない十六夜としては、どうしたって動き難いのか。だが僕が此処でまた素を晒せば、また前回や前々回と同じで、僕からの猛攻で終わってしまうからなぁ。この本を手に取った時点ではこの年齢差なら誤差の範囲かと思ったんだが、人間だと違うんだな」
「高校生が小学生相手に恋情なんか、なかなか抱けないと思います。手を出せば完全に犯罪ですよ?」
「…… 柊華相手なら、赤子の姿だろうが欲情するお前には言われたくないぞ?」
 セフィルが恋心を抱いている柊華という少女の名を持ち出し、ハデスは汚物でも見るみたいな目を彼に向けた。
「それは認めますが、手出しはしません。そもそも物理的に入れられませんからね」
「…… 『ナニがだ?』とは、訊かないでおくべきだろうな」
 ハデスの言葉に対し、セフィルは笑顔だけを返しておいた。

「そうなると…… 少なくとも、もう少し年齢を重ねてみてからの話になりそうだな」
「もういっそ、様々な経験を十六夜に積ませる良い機会だと割り切って、お互いに“人としての人生”を一度きっちり歩まれてみてはどうですか?」
「いいや。十六夜を抱けたらまたすぐに戻るつもりだ。僕が本当に抱きたいのは、やっぱり本体の方の十六夜だしな」
「でも今回は、『いやしは隣のキミ一人 この物語』の“設定”と“記憶”、あとは“世界という名の舞台”を借りているだけで、十六夜は十六夜のままじゃないですか。ならばもう、御本人を抱くのと差は無いのでは?」

「確かに彼女の方はそうだが、僕の体は“コレ”だぞ?満足させてやれる自信が無い!」

 ハデスが自分で選んだ結果なのに、不満そうに自分の胸をドンッと叩く。
「子供のままならばそうでしょうが、大人になるまで待つのでは?」
 そう言ったセフィルはこれでもかというくらいの真顔だ。内心呆れてものも言えないくらいなのに、頑張って指摘しているのだろう。
「あ。…… そ、そうだったな。昨晩の十六夜の胸の感触を思い出して…… つい」
 両手で顔面を覆い、ハデスは俯いた。本心としては今すぐにでも抱きたいくらいなのに、この店を出ればまた本来の自分の記憶が消える為、それも叶わない事がもどかしくってしょうがない。

「くそっ!『この店に来たら本来の自分を思い出せる』とだけ記憶しておいた事を後悔する羽目になるとは。十六夜が眠っている間も記憶が戻る“設定”にしておけば、この欲求不満は睡眠姦で解決出来たのに!」

「…… 気持ちはわかりますが、随分と強引ですね。じゃあ今からでも“設定”を書き換えますか?——でも、もし貴方が睡眠姦をやらかして、彼女が目を覚ました時にまだ性交の最中であった時には、『自分が無意識に“ハデス君”を襲ってしまったのかも』と悩む結果が待っているかと。誕生時から数えて二千年近くもほぼ監禁生活だったせいで純粋培養された十六夜は、今の貴方の事を“純粋無垢な小学生”だと思い込んでいますからね。どんな状況の時に目を覚そうが、『小学生の“ハデス君”が淫猥な事をするはずがない』と安易に結論付けるでしょう。彼女の今の体はまだ処女でも実際には既に性交の経験者であり、貴方には彼女を襲った記憶が全く無いのですから、そうなるのは当然の流れですよ」

「くっ!やっぱり睡眠姦は、ダメだな…… 。やってみたいシチュエーションだったんだが」

 しゅんっと子犬みたいに項垂れる姿は悔しい事に可愛いが、『小学生が口にしていい台詞ではないぞ』とセフィルは心の中でつっこんだ。
「まぁ…… このまま彼女の側に張り付いていれば、そのうち自然と恋人同士になれるのでは?そうなれば向こうからのアプローチも有り得るかと思うので、焦らずにいけば良いのではないかと」
「長期戦かぁ」
「人の数年など、秒に等しいでしょうに」
「それは過ぎてしまった後での話しだろう?過去を振り返った時にはそう思えても、渦中に居る時の体感時間は人も神もそう差は無いさ」
「まぁ確かに…… そうですね。愛しい人を待っている時間はひたすら永く、共に過ごす時間は一瞬で過ぎて行く。“時間”程残酷な存在は無いかもと思うくらいに」
 そう口にして瞼を伏せたセフィルに対し、ハデスが切なげな瞳を向けたが敢えて言葉は掛けなかった。彼自身も碌な感情を持っていない為、執着以外の感情がまともに育っていないセフィルに送るべき言葉が全く思い付かず、『こういう時、似たもの同士は厄介だな』とハデスは思った。


 少しの間を置いて、ハデスは体をぐぐっと伸ばしながら「あーあぁ。いくら考えても、この先僕が『待て』に耐えられる気がしないなぁ」とぼやいた。
「ハデスの“記憶”を消していても隠し切れぬ欲求不満がダダ漏れになって、既に常時十六夜の胸やら尻やらを追っているくらいですからね。『大人になるまで待ってみては?』と提案したのは私ですが、私も貴方が我慢し続けられるとは正直思えません」とセフィルもすぐさま同意する。
「約二千年分の性欲だからね、隠せという方に無理があるでしょ」
「…… 確かに。そんなによく耐えましたね」
「そりゃ物理的に入らないんだから、耐えるしか無いだろ。お前と同じ理由だよ」
「まぁそうなんですが、もっと早く動き出さなかった事が不思議でならないなと。私は待てても、せいぜい数百年程度なので」
「いつか花開いてくれるんだろうと思えば案外耐えられるもんさ。…… 流石に僕も、ただ閉じ込めて愛でるだけでは此処まで何も起きないとは思っていなかったから、とうとう限界を迎えたけどね」
 言葉の締めに『ははっ』と笑いながら言ったハデスの瞳は遠い目をしていた。


「——さて、そろそろ戻るかな」と言ってハデスは椅子から降り、放ってあったランドセルを拾い上げた。
「え?ほ、本当に…… ただ愚痴を言いたかっただけなんですね」
 純粋に驚き、セフィルが目を瞠る。紅茶を口に含んでいるタイミングだったら、だばっとこぼしていたかもしれない。
「ただ話を聞いて欲しいだけって気分の時もあるだろう?」
「ま、まぁ、そうなんですが…… 。私を利用したい時くらいしか、貴方は会いに来ないイメージだったので」
「確かに、今まではそうだったな。これからもそうであった方がお前的も有難いんだろうが——」まで言って、言葉の続きが消える。『僕はもっとお前とも関わっていきたい』とは今までの関係上言い難く、ハデスは無言のままランドセルを背負って軽く息を吐いた。
「それじゃ帰るよ。お茶、ご馳走様」

「い、いえ…… 。その…… また、いつでもどうぞ。今度は軽食でも用意しますんで」

 ふいっと視線を逸らしてそう言ったセフィルの頬が少し赤い。今までとは違うハデスの態度に、彼は少し戸惑っているみたいだ。
 そんな彼の様子を見て、ハデスが嬉しそうにふっと笑った。そして店の出入り口の寸前まで足を進めた所で、ぴたりと止まる。そしてセフィルに背を向けたまま、彼に「——ねぇ」と声を掛けた。
「はい」

「…… 好きな人に忘れられるって、どんな気分なんだ?やっぱり怖いのか?」

 本の“精霊”や“付喪神”的な属性にあるセフィルはよっぽどの状況で無い限りは死なぬ身だ。だが彼が愛している唯一の存在は人間の魂を持つ者である為、その魂の輪廻転生をずっと追いかけている。何度も何度も何度も気が遠くなる程の回数の出逢いと別れを繰り返し、その度に恋しい人が自分を覚えていないという状況を、セフィルは永い間ずっと繰り返しているのだ。

「まぁ…… 改めて思い返せば決して気分のいいものではありませんが、悪い事ばかりでも無いですよ。だって、何度も私をゼロから愛してくれる喜びを味わえるんですから」

 振り返ろうとはしないハデスの背に対し、セフィルは柔らかな笑みを向けて答えた。
「お前は強いな。魂の伴侶を、輪廻して生まれ変わる度に毎度毎度掻っ攫いに行くだけあるよ」
「せめて、『迎えに行く』と言って下さい」
 そう口にしたセフィルの拗ねた声がちょっと可愛い。
「お前の『お迎え』は、どう見たって誘拐じゃないか」と言って、ハデスが大声で笑う。

「…… 僕は怖くて駄目だ。

…… ?」と小さな声で呟き、セフィルは一呼吸置いた後に「——わかりました」と答えて頷いた。その姿勢は執事然とした様子で、丁寧に一礼する。
「じゃ、またな」
 自分が言いたい事だけ言って、ハデスが古書店を後にした。店の敷地を出た瞬間、彼の赤い瞳の色はまたゆるりと変化していき、漆黒色へ戻っていった。それと共に“ハデス”の記憶が彼の中で霧散していく。
「十六夜さんが帰る前に、戻らないとなー」
 無垢な笑顔でそう呟くと、少年はランドセルの背負いベルトをぎゅっと掴み、商店街の中を駆けながら帰って行った。
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