恋も知らぬ番に愛を注ぐ

月咲やまな

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【第一章】初めての経験

【第三話】ヘンゼルとグレーテル②(十六夜・談)

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 トボトボとした足取りで森の中を当てもなく進む。
 夕日は相変わらずの位置で、なんだか時間が止まったみたいだ。という事は、思った程時間は経過していないのかもしれない。決して楽しい状況ではないから時間の流れを遅く感じているんだろう。

 その時の心境次第で体感時間の流れが変わるという話は本当だったのか。

 自分はただ無駄に歳だけ重ねていたのだなと、ちょっと気持ちが凹んだ。そうなると余計に空腹状態が辛くなってくる。ヘンゼルから貰ったパンは食べたけどあまり足しにはならなかった。この小さな体は相変わらずの空腹で、日陰と風のせいで寒くって、ヘンゼルが一緒にいなかったらもう泣き出していたかもしれない。そう思った時、ふっと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。食べた事はなくとも私にはハデス様から頂いた知識だけはある。そのおかげでこの香りが、クッキーやケーキ、チョコーレート、ビスケットなどといったお菓子の匂いであるとすぐにわかった。

「——っ!お兄ちゃん」
「行こう!グレーテル!」

 ヘンゼルもこの甘い匂いに気が付いていた。手を繋いだまま同時に駆け出し、誘われるまま匂いのする方向へ向かう。
 やっとこの空腹を満たせるかもしれないという期待感が胸で膨らむ。“飢える”という感覚を言葉では知っていたが、ここまで苦しくって精神をも削られるものだとは正直思っていなかった。だが実際に経験すると、何をしてでもこの苦痛から抜け出したいと必死になる気持ちが強く理解出来る。体験・経験に勝るもの無しなのだなと改めて思った。


       ◇


 数分程度走り続け、森の木々の隙間を駆けて行くと、少し開けた空間に行き着いた。
 中央には一軒の建物があり、匂いの発生源はどうみてもその家だ。ビスケットで作られた屋根や壁。スポンジケーキがレンガみたいに積み重なり、間には生クリームが挟まっている箇所もある。色とりどりの飴や綿菓子なんかを可愛く飾り、とても派手だが、可愛らしくっていかにも子供が喜びそうなデザインの家だ。

 これがあの、有名な“お菓子の家”か。

 よし、物語の通り目的地に辿り着けた。やっぱり私が何かしらの行動を起こさずとも、ストーリー通りに物事が進むっぽい。ここが単純な内容の童話世界だからかもしれないが、好きに行動するというおこない自体に慣れていない身には有り難い事だった。

「見て!グレーテル、お菓子で作った家だよ!」

 兄は嬉しそうに声をあげ、私に向かって満面の笑みを浮かべた。自分達は兄妹だというのに『カッコイイ』という感想が頭に浮かぶ。『美形の顔面はもはや凶器だ』と語る魂に出会った事が昔あったが、なるほどこういう事か。

「本当だ!ねえお兄ちゃん。私、お菓子を食べてみたい!」

 “グレーテル”としての自分は逸る気持ちを抑えきれず、お菓子の家に近づいて行く。此処が魔女の家で、更には子供を捕まえる為の罠であるとわかってはいるが、どうせ食べようが食べまいが魔女に捕まるのだ。それなら沢山食べてしまってこの飢えをどうにかしておきたい。だが、賢い兄は妹を止めるかもしれない。

『誰かのお家だろうから、駄目だよ』って。

 そう思ったのだが、意外にも「そうだね。頂こうか」と笑顔で返された。
「でも、ちょっとだけにしような」と言い、ヘンゼルが自分の口に指を立てる。住んでいる人には内緒だよと言外に匂わせた兄に対し、私は無言でこくりと頷いた。
 なんだかふわっと胸の中が温かくなってくる。きっと、自分にも兄の意図が読めたからだろう。ヘンデルとグレーテルが兄妹だから兄の気持ちが読めたんだ。それでも、この感覚が心地いい。こんな些細なやり取りで、私は二人の仲の良さを実感した気がした。


 こそっと二人で家に近づき周囲の様子を伺う。きっと魔女は家の中だろうが、物音一つ聞こえない。獲物子供が罠にかかるまで大人しくしているつもりなのか。だがそうかもしれない事はヘンゼルには黙ったまま、私は家のお菓子に手を伸ばした。

 野外で放置されている食べ物、か。

 普通に考えたら絶対に食べるべきじゃないのだが、空腹のせいで気にならない。二人が腹を壊す描写も無かったはずだしきっと大丈夫だ。
 大きめのボールくらいのサイズのカステラを前にして、心が躍る。大きな口を開け、あーんと無意識にこぼしながら頬張ると、カラメルみたいな甘さと卵の風味が口の中で一気に広がり、私は瞳を輝かせた。
「美味しいかい?グレーテル」
 コクコクッと力強く頷くと、ヘンゼルは私の食べているカステラに顔を近づけ、パクッとかぶりついた。

 他にも沢山あるのに、どうして私の食べかけを?

 不思議には思ったが、仲の良い兄妹なら当然かと納得する。記憶を振り返ってもこの二人は仲良く寄り添って生きてきた。どこに行くにも、家のお手伝いをする時も、寝る時ですらも一緒。

 まるでこの世界には二人以外存在しないみたいに。

「お兄ちゃんも、美味しい?」
「もちろんだよ」
 顔が汚れていようが、ヘンゼルの微笑む顔はやはり最高だ。私の中の“グレーテル”がブラコン気味なのは仕方ないのかもしれない。
「グレーテル、こっちに白くってとろっとした物があるよ」
 きっと生クリームの事を言いたいのだろう。でも兄には名前がわからないみたいだ。
 ならばここは兄に合わせた方がいいシーンだろう。
「本当だ。なんだろう?でも、美味しそうだね」
「食べてみない?」
「食べる!」と元気に答えると、ヘンゼルは生クリームを指先で掬い取って私の口元に差し出してきた。
「はい、どうぞ」
「…… っ」
 一瞬迷ったが、ここで引いても不自然だ。きっと本物の“グレーテル”なら迷わず口に含むに違いない。兄が手を汚してまで取ってくれたんだから。
 迷いを誤魔化すみたいに「ありがとう」と言って、微笑みを浮かべてみる。そして私は大きなカステラを持ったまま差し出された生クリームを食べようとすると、ヘンゼルはクリームを指ごと私の口の中に入れてきた。
 突然の事に驚き、肩が跳ねる。兄がその指先で私の舌や歯を撫で始め、私はカステラを足元に落としてしまった。

「勿体ないなぁ…… 駄目じゃないか。食べ物は大事にしような?」

 ゾクゾクッと体を震わせ、ヘンゼルの赤い瞳と口元が弧を描いた。夕日を背にしているせいか、彼の顔に大袈裟な影が差す。兄の指を咥えたまま硬直していると、今度は近くにあった蜂蜜をヘンゼルが掬い取って、私の頬に撫でつけ始めた。

「きっとこれも美味しいんだろうなぁ。金色に光っていて、甘い匂いが心地いいや」

「ほ、ほにいぃちゃん?」
 口内にある兄の指のせいで上手く喋れない。心が落ち着かず、嫌な予感がゆっくりと迫ってくる。

「ねぇ、そろそろボクも食べてもいい?グレーテル」

 何を?とは、きっと兄の指が口内から消えても訊けない気がする。
 コレは…… 逃げた方がいいのでは?

 私が警戒すべき対象はもしかして、義母や魔女なのではなく…… 兄なのでは?

 ——と思った瞬間、ビリッ!と布が引き裂かれる音が耳奥に響いた。
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