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おまけ
(抱きしめたいとキスをしようよ)
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お墓参りをした日の夜、夕食を終えた智也は未世の部屋にいた。
未世はベッドに座っている。智也はイスに座っていた。
二人は今日の思い出話に花を咲かしていた。
二人の間には折りたたみ式の簡易テーブルがあり、温かい紅茶の入ったマグカップが二つ置いてある。未世の好きなディンブラという紅茶だった。
二人で回る水族館はとても楽しかった。一緒に見たイワシの大群に圧倒され、エイの顔に驚き、ペンギンのかわいさに癒やされ、イルカショーに興奮し、アザラシの前で写真を撮った。
あげたらきりがないくらい、たくさんの思い出ができた。
そんな思い出話が一段落した頃、智也はふと愛しさから未世を抱きしめたいと思った。しかし、互いに座っているためこのままだと抱きしめにくい。そこでなんとなく立ち上がった。
「どうしたの? 智也くん」
突然、立ち上がった智也を未世は不思議そうに見る。
「あっ、うん」
智也は頷くが戸惑う。抱きしめたいので立ってくださいとはさすがに言えなかった。仕方なく智也はすっとイスに座る。
そんな智也を見て、未世は首をかしげた。
「どうしたの?」
「あっ、いや」
「トイレ?」
「いやっ、そうじゃなくて」
智也は慌てながら首を振る。
ちなみに、未世が暮らすようになってから、一階のトイレは男性用、二階のトイレは女性用と分けていた。未世は最初、部屋をもらえるだけでもありがたいのに、そこまで気を遣ってもらわなくていいといいと断っていたが、こっちが気にするからと智也が強く言って、結局そうなった。
余談だが、家主である十和は昔、ここに女の人が住んでいた時は特に気にしていなかったのでどちらでもいいよと言っていた。
「じゃあ、どうしたの?」
「えっと……なんとなく……」
そこで智也は勇気を振り絞ってぽつりと言う。
「抱きしめたいと思って」
未世は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、頬を真っ赤に染めて俯いた。
「えっ、そのっ、それって……私を?」
智也は他に誰がいるんだろうと思ったが、多分、動揺してるんだろうと思って深くはつっこまなかった。その代わりにはっきりと答える。
「うん。未世さんを」
その言葉に未世は何も言わなかった。ただ、黙って俯いていた。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
なんとなく変な空気だった。
「…………………………………………」
大変気まずかった。
「ごめん、忘れて」
沈黙に堪えきれなくなって智也は叫んだ。その声が大きかったので、つい未世はびくっと身体を震わせる。
「あっ、ごめん」
「うんん、大丈夫。ちょっとビックリしただけだから」
未世はあははと笑う。その顔はまだこわばっていた。
「じゃあ、部屋に戻るね。変なこと言ってごめん」
智也は気まずくなって立ち上がり、未世の部屋を出ようとする。心の中では自分はなんてへたれなんだろうという後悔があった。
「待って」
すると、未世が呼び止めた。智也は足を止めて、振り向く。
「わっ、私もそう思ってた」
智也は一瞬固まる。
え? 羽素さんも僕をへたれって思っていたってこと?
へたれなのには間違いないが、ショックだった。当然の結果だろうがショックだった。
「そうだよね……ごめん」
智也はうなだれながら、部屋を出ようとする。
「ええ、待って。なんでそうなるの?」
未世は再度、呼び止める。
「へっ?」
智也は呆けた顔で振り向く。
「私も抱きしめられたいって思ってたって言ってるの」
顔を真っ赤にして、未世ははっきりと言い放った。
「え?」
智也は気を取り戻す。そこで未世の言った言葉の意味をようやく理解した。ほっととするのと同時に、恥ずかしくなる。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
なんとなく変な空気だった。
「…………………………………………」
ただ、気まずくはなかった。
智也は未世の方へ向き直った。お互いに顔が見える。二人とも頬が赤かった。その表情には緊張が浮かんでいる。
二人はお互いに見つめ合いながらこくりと頷くと、じりじりと距離を詰めはじめる。そして、お互いの身体を抱きしめ合える距離まで来ると、智也は未世を抱きしめた。未世も智也の胸に顔を埋め、背中に腕を回す。そうやってお互いに強く抱きしめ合った。
心臓の音が聞こえそうな距離感の中、お互いの体温が触れ合った身体を通して伝わる。
温かかった。
幸せだった。
しばらくの間、二人はじっと抱き合っていた。
このままずっとこうしていたいと智也は思った。しかし、そうもいかない。しばらく経つとどちらともなく名残惜しそうにそっと身体を離した。
智也は未世の顔を見た。頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑っている。智也は自分の頬も赤く染まっているだろうなと思いながら、笑った。互いに見つめ合いながら、笑い合う。
二人はそのままお互いの顔を見つめる。未世が目を閉じた。それが何を意味しているのか智也は理解していた。
智也は息を止めて、そっと未世に顔を寄せる。
そのまま二人の唇と唇がそっと触れあう。
いつかしたように智也は未世にキスをした。
未世の柔らかさと体温が唇を通して伝わってくる。あの時は冷たかった唇は今は温かい。たったそれだけのことがすごく嬉しかった。
唇を重ねているうちに、頭の中がじんじんとしびれてくる。脳が蕩けるように心地よい。ずっとこうしていたい。けど、このままこうしていたらおかしくなってしまいそうになる。そんな不思議な感覚だった。
智也はそこで息が苦しくなって、そっと触れ合った唇を同じようにそっと離した。
「ぷはっ」
智也と未世は唇が離れるのと同時に大きく息を吐いた。そのままお互いに顔を伏せる。智也は恥ずかしくて未世の顔が直視できなかった。未世も同じように俯いてた。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
間違いなく変な空気だった。
「…………………………………………」
ただ、とても幸せだった。
どれくらいたっただろうか。気持ちが落ち着いてくると、智也は顔を上げた。しかし、未世はまだ顔を伏せていた。身体の震えを押さえるように両手で身体を押さえている。
ふと心配になって智也は尋ねる。
「どうしたの?大丈夫?」
「うんん、違うの。そのっ。えっと。はっ、初めてだったからかな。すごくドキドキしてて」
未世の声は震えていた。そして、恥ずかしさをごまかすためか、未世は俯いたまますとんとベッドに座ると、両手でマグカップを持ち、紅茶を飲む。その仕草はとてもいじらしかった。しかし、智也にとって問題はそこではなかった。
「えっ?」
「えっ?」
智也の声に呼応するように未世も声を上げた。
「えっ?てどういうこと?」
未世はマグカップを机に置きながら智也を見る。そこには戸惑うような表情が浮かんでいた。
「もしかして、他の人とキスしたことあるの?いや、別に智也くんの人生だからいいんだけど。でも、そっか、初めてなのは私だけなんだ。浮かれてたのは私だけだったんだね。通りで手慣れていたと思った。なんだかドキドキしたのがバカみたい」
未世は自分で言って、自分で勝手に納得している。その表情は戸惑いから、怒りに変わっていた。
いつの間にかいらぬ誤解が生じていた。もう手遅れかもしれないが、智也は弁解することにする。
「違うよ。他の人とキスなんてしてない。したことないよ。手慣れてもいないし。僕がキスしたことあるのは未世さんだけだ。絶対にだ。神に誓うよ」
智也は事実を語る。しかし、なぜか何を言っても言い訳にしか聞こえなかった。悪いことをしたわけではないのになぜだろう。わけがわからない。
「いるかもわからない神様に誓っても意味はないとして、本当に?」
未世は容赦なかった。じとっとした半目で智也を見る。全く信じていなかった。
「本当だって」
智也は必死に伝える。しかし、未世はまだ疑いの目を向けていた。なんなんだこの状況と思いながら、智也は身の潔白を証明するために必死に説明する。
「ただ、実はキスしたのは二回目なんだ。そのっ、一回目は羽素さんが気絶していたときに解毒剤を飲ませるためにキスしたというか、口移しをしたというか、なんていうか……」
言いながらどう説明していいかわからなくなる。未世はむすっとした表情で智也を見ていた。
「智也くん。二人きりの時は未世って呼ぶ約束だよね」
そこで智也は動揺して羽素さんと言ったことに気づく。今、そこ重要なのと思うが、ここでそんなつっこみをしたら火に油を注ぐのは明白なので、素直に謝ることにする。
「はい、すいません。未世さん」
「よろしい。つまり、智也くんは私を助けるためにキスをしたということでいいの?」
未世の説明を聞いて智也は、合っているんだけど、何かが違うような気がすると思った。そんな白雪姫みたいなロマンティックなシチュエーションではなかったはずだが、日本語は難しい。しかし、ここでそんなことを言ったら余計にややこしくなるのは目に見えているので素直に頷くことにした。
「はい。そうです」
「しかも、私のファーストキスを奪ったことを今日まで黙っていたということなの?」
言い方に棘があった。
「はい。そうです。ごめんなさい」
そこで未世はようやく表情を緩めた。
「素直でよろしい。それならいいよ。私を助けるためだったんだし。ありがとう」
智也はほっとする。
「でも、言わなかったのはどうして」
「ごめん。なかなか言う機会がなくて」
「そっか。まあ、いいよ。私もそういうことあるし」
「えっ?」
「えっ?」
智也の声に呼応するように未世はまた声を上げる。しかし、今度は先に口を開いたのは智也だった。
「そういうことって何なの?未世さん」
今度は未世が尋問される番だった。
「えっと、そのっ」
未世はしどろもどろになっている。
「えっと、そのっじゃなわからないよ。ちゃんとわかるように説明して」
智也は仕返しとばかりに容赦なく責める。こういう時は意外と強気だった。
「……そのっ、引かないでね」
未世は恥ずかしそうに言うと、ぽつりと呟く。
「実はここで目覚めた時、寝ている智也くんのほっぺたにキスしたの」
「うわぁ」
智也はどん引きした。
「引かないでっていったのに」
未世は恥ずかしさで涙目になりながら喚く。
「いや、でも、なんで僕が寝ている間にしたの?」
「つい……お礼のつもりで……」
「お礼?僕は寝ているのに?」
「…………はい」
「うわぁ」
智也はもう一度どん引きした。
「そんなに引かないでっ。わかってる。変なことしたってわかってるから。だってあの時は二人で助かったことが嬉しくて私もおかしくなってたから。冷静になってみると変なことしたってわかってるから。これ以上引かないで」
未世は涙目の顔を両手で覆いながら、くるりと身をひるがえしてベッドに顔を埋める。そのまま足をばたばたさせていた。彼女は穴があったら入って一生出てこなさそうな勢いで、恥ずかしがっていた。
そんな未世を可愛いと思いながら智也はここぞとばかりに責める。たまにはこういうのもいいのかなと思いながら、内心面白がっていた。
「つまり、未世さんは僕が寝ている間にファーストホッペを奪ったことを今日まで黙っていたってこと?」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、未世はベッドから顔を上げて智也の方へ振り向く。
「え?ファーストホッペって何?」
未世は何を言っているんだろうという表情を浮かべていた。
「え?いやっ、それは」
予想外の未世のつっこみに智也はしどろもどろになる。
こうして智也の責める番は終わった。短い春だった。
「うわぁ」
今度は未世がどん引きする。
「ファーストホッペって初めて聞いたんだけど、何なの?」
未世は水を得た魚のように容赦なく智也を責め立てる。
「それはほっぺたにキスをすることというか、なんというか」
「へー、そんな風に言うの?」
「言いません」
「じゃあ、なんでそんなこと言ったの?」
「つい調子に乗りました」
「勝手に人のファーストキスを奪っておいてどういう了見なの」
「滅相もございません」
「悪いと思ってる?」
「はい。思っています」
「本当に?」
「はい。本当です」
「じゃあ、責任とって」
「はい。どうすればよいでしょうか?」
「そうだね。じゃあ……」
未世は唇に人差し指を当てながら、考えるように宙を見る。そして、
「死ぬまでずっと一緒にいて」
と、ぽつりと言った。
「え?」
智也はつい聞き返す。頬が熱くなってきた。
「あっ、えっと、やっぱり今のはなし」
未世は顔を真っ赤にして、慌てて首を振った。
「え?でも今?」
「なしったら、なしなの」
未世は首をぶんぶんと振っている。
「どうして?」
智也が尋ねると、未世は顔を伏せてぽつりと言った。
「だって、プロポーズみたいじゃない。まだ付き合って二ヶ月ぐらいだよ。私たち」
言い訳のように語る未世を見て、智也はつい「ぷっ」と吹き出した。
「あっ、ひどい。人が真剣に言ってるのに」
「ごめん。ごめん。でも、同じことを思ったから」
「え?同じ」
「うん。今日のお墓参りの帰りに羽素さんを絶対に幸せにしますって言ったよね」
智也は自分で言って頬が熱くなっていくのを感じた。未世はそんな智也を頬を赤らめながらきょとんと見ている。
「その時、プロポーズみたいだって思ったんだ。だから、一緒だなって思って」
未世は目を丸くする。そして、口元を緩めると次の瞬間、ベッドから智也に飛び付いた。驚きながらも智也は彼女の衝撃をしっかりと受け止める。
「うん、一緒だね」
未世はそのまま智也の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
一方、智也もそっと未世の背中に手を回した。そして、彼女の存在を、体温を、全身で確認するかのように、優しく、愛しくぎゅっと抱きしめた。
「えへへへ」
未世の口から幸せそうな声が漏れる。
「じゃあ、さっきのなしはなし」
そして、未世ははっきりとその願いを口にする。
「死ぬまでずっと一緒にいて。そして、私を幸せにして」
「うん。必ずする」
智也もはっきりと頷く。
「えへへへ。私も智也くんを幸せにする。絶対にするから」
「うん。楽しみにしてる」
「えへへへ」
未世は幸せそうに笑うと、ぽつりとつぶやく。
「ねぇ。もう一度、キスしよ」
「え?」
智也は驚きの声を上げると、抱きしめていた腕を解いた。未世も腕をほどき、密着していた二人の身体はかすかに離れる。
「智也くんはしたくない?」
「したい」
智也はこくりと頷く。
「えへへ。じゃあ、キスしよ。初めてとか二回目とか気にしなくていいくらい、これからいっぱいキスをしようよ」
言ってから未世は頬を真っ赤に染め、俯いた。その身体は恥ずかしさからかぷるぷると震えている。そんな未世を智也は心の底から愛おしく思った。
「うん」
頷くと、智也は未世の肩に手を乗せた。
未世はかすかに身体を震わせ、顔を上げる。そして、そっと目を閉じた。
智也は未世の顔を見ながら、すっと息を吸うと、そっと唇を寄せる。
ゆっくりと二人の唇が重なる。
さっきと同じように未世の柔らかさと体温が智也に伝わってきた。
しかし、さっきと違うことが一つだけあった。
そのキスは未世の好きな紅茶の味がした。
『抱きしめたいとキスをしようよ』(了)
未世はベッドに座っている。智也はイスに座っていた。
二人は今日の思い出話に花を咲かしていた。
二人の間には折りたたみ式の簡易テーブルがあり、温かい紅茶の入ったマグカップが二つ置いてある。未世の好きなディンブラという紅茶だった。
二人で回る水族館はとても楽しかった。一緒に見たイワシの大群に圧倒され、エイの顔に驚き、ペンギンのかわいさに癒やされ、イルカショーに興奮し、アザラシの前で写真を撮った。
あげたらきりがないくらい、たくさんの思い出ができた。
そんな思い出話が一段落した頃、智也はふと愛しさから未世を抱きしめたいと思った。しかし、互いに座っているためこのままだと抱きしめにくい。そこでなんとなく立ち上がった。
「どうしたの? 智也くん」
突然、立ち上がった智也を未世は不思議そうに見る。
「あっ、うん」
智也は頷くが戸惑う。抱きしめたいので立ってくださいとはさすがに言えなかった。仕方なく智也はすっとイスに座る。
そんな智也を見て、未世は首をかしげた。
「どうしたの?」
「あっ、いや」
「トイレ?」
「いやっ、そうじゃなくて」
智也は慌てながら首を振る。
ちなみに、未世が暮らすようになってから、一階のトイレは男性用、二階のトイレは女性用と分けていた。未世は最初、部屋をもらえるだけでもありがたいのに、そこまで気を遣ってもらわなくていいといいと断っていたが、こっちが気にするからと智也が強く言って、結局そうなった。
余談だが、家主である十和は昔、ここに女の人が住んでいた時は特に気にしていなかったのでどちらでもいいよと言っていた。
「じゃあ、どうしたの?」
「えっと……なんとなく……」
そこで智也は勇気を振り絞ってぽつりと言う。
「抱きしめたいと思って」
未世は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、頬を真っ赤に染めて俯いた。
「えっ、そのっ、それって……私を?」
智也は他に誰がいるんだろうと思ったが、多分、動揺してるんだろうと思って深くはつっこまなかった。その代わりにはっきりと答える。
「うん。未世さんを」
その言葉に未世は何も言わなかった。ただ、黙って俯いていた。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
なんとなく変な空気だった。
「…………………………………………」
大変気まずかった。
「ごめん、忘れて」
沈黙に堪えきれなくなって智也は叫んだ。その声が大きかったので、つい未世はびくっと身体を震わせる。
「あっ、ごめん」
「うんん、大丈夫。ちょっとビックリしただけだから」
未世はあははと笑う。その顔はまだこわばっていた。
「じゃあ、部屋に戻るね。変なこと言ってごめん」
智也は気まずくなって立ち上がり、未世の部屋を出ようとする。心の中では自分はなんてへたれなんだろうという後悔があった。
「待って」
すると、未世が呼び止めた。智也は足を止めて、振り向く。
「わっ、私もそう思ってた」
智也は一瞬固まる。
え? 羽素さんも僕をへたれって思っていたってこと?
へたれなのには間違いないが、ショックだった。当然の結果だろうがショックだった。
「そうだよね……ごめん」
智也はうなだれながら、部屋を出ようとする。
「ええ、待って。なんでそうなるの?」
未世は再度、呼び止める。
「へっ?」
智也は呆けた顔で振り向く。
「私も抱きしめられたいって思ってたって言ってるの」
顔を真っ赤にして、未世ははっきりと言い放った。
「え?」
智也は気を取り戻す。そこで未世の言った言葉の意味をようやく理解した。ほっととするのと同時に、恥ずかしくなる。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
なんとなく変な空気だった。
「…………………………………………」
ただ、気まずくはなかった。
智也は未世の方へ向き直った。お互いに顔が見える。二人とも頬が赤かった。その表情には緊張が浮かんでいる。
二人はお互いに見つめ合いながらこくりと頷くと、じりじりと距離を詰めはじめる。そして、お互いの身体を抱きしめ合える距離まで来ると、智也は未世を抱きしめた。未世も智也の胸に顔を埋め、背中に腕を回す。そうやってお互いに強く抱きしめ合った。
心臓の音が聞こえそうな距離感の中、お互いの体温が触れ合った身体を通して伝わる。
温かかった。
幸せだった。
しばらくの間、二人はじっと抱き合っていた。
このままずっとこうしていたいと智也は思った。しかし、そうもいかない。しばらく経つとどちらともなく名残惜しそうにそっと身体を離した。
智也は未世の顔を見た。頬を赤く染めながら、嬉しそうに笑っている。智也は自分の頬も赤く染まっているだろうなと思いながら、笑った。互いに見つめ合いながら、笑い合う。
二人はそのままお互いの顔を見つめる。未世が目を閉じた。それが何を意味しているのか智也は理解していた。
智也は息を止めて、そっと未世に顔を寄せる。
そのまま二人の唇と唇がそっと触れあう。
いつかしたように智也は未世にキスをした。
未世の柔らかさと体温が唇を通して伝わってくる。あの時は冷たかった唇は今は温かい。たったそれだけのことがすごく嬉しかった。
唇を重ねているうちに、頭の中がじんじんとしびれてくる。脳が蕩けるように心地よい。ずっとこうしていたい。けど、このままこうしていたらおかしくなってしまいそうになる。そんな不思議な感覚だった。
智也はそこで息が苦しくなって、そっと触れ合った唇を同じようにそっと離した。
「ぷはっ」
智也と未世は唇が離れるのと同時に大きく息を吐いた。そのままお互いに顔を伏せる。智也は恥ずかしくて未世の顔が直視できなかった。未世も同じように俯いてた。
「…………………………………………」
二人の間に沈黙が流れる。
「…………………………………………」
間違いなく変な空気だった。
「…………………………………………」
ただ、とても幸せだった。
どれくらいたっただろうか。気持ちが落ち着いてくると、智也は顔を上げた。しかし、未世はまだ顔を伏せていた。身体の震えを押さえるように両手で身体を押さえている。
ふと心配になって智也は尋ねる。
「どうしたの?大丈夫?」
「うんん、違うの。そのっ。えっと。はっ、初めてだったからかな。すごくドキドキしてて」
未世の声は震えていた。そして、恥ずかしさをごまかすためか、未世は俯いたまますとんとベッドに座ると、両手でマグカップを持ち、紅茶を飲む。その仕草はとてもいじらしかった。しかし、智也にとって問題はそこではなかった。
「えっ?」
「えっ?」
智也の声に呼応するように未世も声を上げた。
「えっ?てどういうこと?」
未世はマグカップを机に置きながら智也を見る。そこには戸惑うような表情が浮かんでいた。
「もしかして、他の人とキスしたことあるの?いや、別に智也くんの人生だからいいんだけど。でも、そっか、初めてなのは私だけなんだ。浮かれてたのは私だけだったんだね。通りで手慣れていたと思った。なんだかドキドキしたのがバカみたい」
未世は自分で言って、自分で勝手に納得している。その表情は戸惑いから、怒りに変わっていた。
いつの間にかいらぬ誤解が生じていた。もう手遅れかもしれないが、智也は弁解することにする。
「違うよ。他の人とキスなんてしてない。したことないよ。手慣れてもいないし。僕がキスしたことあるのは未世さんだけだ。絶対にだ。神に誓うよ」
智也は事実を語る。しかし、なぜか何を言っても言い訳にしか聞こえなかった。悪いことをしたわけではないのになぜだろう。わけがわからない。
「いるかもわからない神様に誓っても意味はないとして、本当に?」
未世は容赦なかった。じとっとした半目で智也を見る。全く信じていなかった。
「本当だって」
智也は必死に伝える。しかし、未世はまだ疑いの目を向けていた。なんなんだこの状況と思いながら、智也は身の潔白を証明するために必死に説明する。
「ただ、実はキスしたのは二回目なんだ。そのっ、一回目は羽素さんが気絶していたときに解毒剤を飲ませるためにキスしたというか、口移しをしたというか、なんていうか……」
言いながらどう説明していいかわからなくなる。未世はむすっとした表情で智也を見ていた。
「智也くん。二人きりの時は未世って呼ぶ約束だよね」
そこで智也は動揺して羽素さんと言ったことに気づく。今、そこ重要なのと思うが、ここでそんなつっこみをしたら火に油を注ぐのは明白なので、素直に謝ることにする。
「はい、すいません。未世さん」
「よろしい。つまり、智也くんは私を助けるためにキスをしたということでいいの?」
未世の説明を聞いて智也は、合っているんだけど、何かが違うような気がすると思った。そんな白雪姫みたいなロマンティックなシチュエーションではなかったはずだが、日本語は難しい。しかし、ここでそんなことを言ったら余計にややこしくなるのは目に見えているので素直に頷くことにした。
「はい。そうです」
「しかも、私のファーストキスを奪ったことを今日まで黙っていたということなの?」
言い方に棘があった。
「はい。そうです。ごめんなさい」
そこで未世はようやく表情を緩めた。
「素直でよろしい。それならいいよ。私を助けるためだったんだし。ありがとう」
智也はほっとする。
「でも、言わなかったのはどうして」
「ごめん。なかなか言う機会がなくて」
「そっか。まあ、いいよ。私もそういうことあるし」
「えっ?」
「えっ?」
智也の声に呼応するように未世はまた声を上げる。しかし、今度は先に口を開いたのは智也だった。
「そういうことって何なの?未世さん」
今度は未世が尋問される番だった。
「えっと、そのっ」
未世はしどろもどろになっている。
「えっと、そのっじゃなわからないよ。ちゃんとわかるように説明して」
智也は仕返しとばかりに容赦なく責める。こういう時は意外と強気だった。
「……そのっ、引かないでね」
未世は恥ずかしそうに言うと、ぽつりと呟く。
「実はここで目覚めた時、寝ている智也くんのほっぺたにキスしたの」
「うわぁ」
智也はどん引きした。
「引かないでっていったのに」
未世は恥ずかしさで涙目になりながら喚く。
「いや、でも、なんで僕が寝ている間にしたの?」
「つい……お礼のつもりで……」
「お礼?僕は寝ているのに?」
「…………はい」
「うわぁ」
智也はもう一度どん引きした。
「そんなに引かないでっ。わかってる。変なことしたってわかってるから。だってあの時は二人で助かったことが嬉しくて私もおかしくなってたから。冷静になってみると変なことしたってわかってるから。これ以上引かないで」
未世は涙目の顔を両手で覆いながら、くるりと身をひるがえしてベッドに顔を埋める。そのまま足をばたばたさせていた。彼女は穴があったら入って一生出てこなさそうな勢いで、恥ずかしがっていた。
そんな未世を可愛いと思いながら智也はここぞとばかりに責める。たまにはこういうのもいいのかなと思いながら、内心面白がっていた。
「つまり、未世さんは僕が寝ている間にファーストホッペを奪ったことを今日まで黙っていたってこと?」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、未世はベッドから顔を上げて智也の方へ振り向く。
「え?ファーストホッペって何?」
未世は何を言っているんだろうという表情を浮かべていた。
「え?いやっ、それは」
予想外の未世のつっこみに智也はしどろもどろになる。
こうして智也の責める番は終わった。短い春だった。
「うわぁ」
今度は未世がどん引きする。
「ファーストホッペって初めて聞いたんだけど、何なの?」
未世は水を得た魚のように容赦なく智也を責め立てる。
「それはほっぺたにキスをすることというか、なんというか」
「へー、そんな風に言うの?」
「言いません」
「じゃあ、なんでそんなこと言ったの?」
「つい調子に乗りました」
「勝手に人のファーストキスを奪っておいてどういう了見なの」
「滅相もございません」
「悪いと思ってる?」
「はい。思っています」
「本当に?」
「はい。本当です」
「じゃあ、責任とって」
「はい。どうすればよいでしょうか?」
「そうだね。じゃあ……」
未世は唇に人差し指を当てながら、考えるように宙を見る。そして、
「死ぬまでずっと一緒にいて」
と、ぽつりと言った。
「え?」
智也はつい聞き返す。頬が熱くなってきた。
「あっ、えっと、やっぱり今のはなし」
未世は顔を真っ赤にして、慌てて首を振った。
「え?でも今?」
「なしったら、なしなの」
未世は首をぶんぶんと振っている。
「どうして?」
智也が尋ねると、未世は顔を伏せてぽつりと言った。
「だって、プロポーズみたいじゃない。まだ付き合って二ヶ月ぐらいだよ。私たち」
言い訳のように語る未世を見て、智也はつい「ぷっ」と吹き出した。
「あっ、ひどい。人が真剣に言ってるのに」
「ごめん。ごめん。でも、同じことを思ったから」
「え?同じ」
「うん。今日のお墓参りの帰りに羽素さんを絶対に幸せにしますって言ったよね」
智也は自分で言って頬が熱くなっていくのを感じた。未世はそんな智也を頬を赤らめながらきょとんと見ている。
「その時、プロポーズみたいだって思ったんだ。だから、一緒だなって思って」
未世は目を丸くする。そして、口元を緩めると次の瞬間、ベッドから智也に飛び付いた。驚きながらも智也は彼女の衝撃をしっかりと受け止める。
「うん、一緒だね」
未世はそのまま智也の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
一方、智也もそっと未世の背中に手を回した。そして、彼女の存在を、体温を、全身で確認するかのように、優しく、愛しくぎゅっと抱きしめた。
「えへへへ」
未世の口から幸せそうな声が漏れる。
「じゃあ、さっきのなしはなし」
そして、未世ははっきりとその願いを口にする。
「死ぬまでずっと一緒にいて。そして、私を幸せにして」
「うん。必ずする」
智也もはっきりと頷く。
「えへへへ。私も智也くんを幸せにする。絶対にするから」
「うん。楽しみにしてる」
「えへへへ」
未世は幸せそうに笑うと、ぽつりとつぶやく。
「ねぇ。もう一度、キスしよ」
「え?」
智也は驚きの声を上げると、抱きしめていた腕を解いた。未世も腕をほどき、密着していた二人の身体はかすかに離れる。
「智也くんはしたくない?」
「したい」
智也はこくりと頷く。
「えへへ。じゃあ、キスしよ。初めてとか二回目とか気にしなくていいくらい、これからいっぱいキスをしようよ」
言ってから未世は頬を真っ赤に染め、俯いた。その身体は恥ずかしさからかぷるぷると震えている。そんな未世を智也は心の底から愛おしく思った。
「うん」
頷くと、智也は未世の肩に手を乗せた。
未世はかすかに身体を震わせ、顔を上げる。そして、そっと目を閉じた。
智也は未世の顔を見ながら、すっと息を吸うと、そっと唇を寄せる。
ゆっくりと二人の唇が重なる。
さっきと同じように未世の柔らかさと体温が智也に伝わってきた。
しかし、さっきと違うことが一つだけあった。
そのキスは未世の好きな紅茶の味がした。
『抱きしめたいとキスをしようよ』(了)
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冒頭から三話程度読ませて頂きました。
読書話数が少なくて申し訳ないのですが、感想を失礼します。
主人公・未世ちゃんの絶望具合がとてもいいと思いました!
なかなかここまで葛藤や苦難を描写している作品が少ないので勉強になります
未世ちゃんとポニアードさん、いろいろなキャラが
これからどうなるのか気になるところですね!
彼氏もいて恋愛もあるとのことで、ますます先が気になります!
ただ若干冒頭がもたっとしている感じがするので
(もちろんその後の展開に繋がっているのでこれは完全なる趣味なのですが)
最初に未世ちゃんとポニアードさんのやりとりを
少し挟んでから日常に戻ると「この日常からどうやってこんな惨劇に辿り着いたの!?」
と個人的には興味が湧きそうだなと思いました。
作品読ませて頂きました!
今後の展開が楽しみです…!
執筆活動頑張ってください!