ナイフと銃のラブソング

料簡

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第1話

羽素未世の日常生活 その2

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 どれくらいそうしていただろうか。眠れないまま私はベッドに横になっていた。
 不意に胃から何かがせり上がってくる。
 慌ててトイレにかけこみはき出そうとするが何もでなかった。昨日から何度も吐き続けているのだから当然だった。
「かはっ、えはっ」
 空えづきを何度も繰り返す。しかし、何もでなかった。いっそ内蔵をすべて出してしまえば楽になるのにと思いながら、そんなこともできるはずもなく私は吐き気が収まるまでえづき続けた。
 どれくらい時間が経ったのかわからないが、いつのまにか吐き気は収まっていた。洗面台に行き、顔を洗う。顔を上げると、目の前に自分の顔が映っている。痩せこけた頬、青白く不健康な肌、ぼさぼさの髪、隈の出来た真っ赤な目、お世辞にも綺麗とは言えない醜い顔だった。
 まるで死人みたいだと自虐的な感想を思い浮かべる。
 それから、私はベッドルームに戻って時計を確認する。時刻は四時半前だった。
 カーテンの閉まっていない窓の外はまだ暗い。そろそろ処理が終わった頃だろう。ポニアードに確認するように言われていたので公園に行かなくてはならない。
 もしまだ終わってなかったらまた見るんだと思うと身体が震えた。もう少しだけ待とうかという気持ちも湧くが、朝の方が人目に付きにくいというのも事実だった。これからやることを考えたら、なるべく人目にはつきたくない。それに、何よりやらなければ私は死ぬ。ポニアードの命令は絶対だ。
 外に出るのにこの顔だと目立つかなと思い私は、備え付けのテーブルに置いてあるベージュの鞄から天使のマスコットが描かれたピンクのポーチをもって洗面台に行く。このポーチは中学に入った頃から使っているお気に入りだった。年期が入っているせいで、かなりボロボロである。中には化粧道具が入っていた。
 せめて外に出られるように死人のような顔を整える。こんな事ばかりをしているので、化粧の腕前は上達していった。
 鏡にはさっきまでの表情とはうってかわって生気に満ちた顔の女が映ってる。
 化粧の出来に満足感を得ながら、私は化粧道具をポーチにしまった。ポーチの中にはあと財布とナイフ、携帯電話が入っている。私はそれをベージュの鞄にしまった。
 時計を見ると、時刻は五時になろうとしていた。コートを着て、鍵と鞄を持つと私は急ぎ足でホテルを出た。
 夜中よりも早朝の方が肌寒かった。朝の繁華街は夜に比べて閑散としている。その様子はまるで祭りの後のように寂しい。ぽつりぽつりと歩く人はみな一様に疲れ切った顔をしていた。中には酔っているのか足下のおぼつかない人や、昨日の私みたいに道端で吐いている人もいる。そんな中を私は公園へ向かって歩いていく。
 しばらく歩いているとパトカーのサイレンの音がどこかから響いてきた。途端に、私の身体がビクリと強張り、震え始める。
 ポニアードは私が命令を聞いている以上、捕まることは絶対にないと言っていた。組織がもみ消すので、その心配はないというのだ。しかし、それでも、この音を聞くと万が一の可能性に不安になる。それは私が悪いことをしていると自覚しているからだろう。
「はっ……はっ……はふっ……」
 同時に呼吸が乱れ心臓が激しく波打った。胸から聞こえる音はまるで他人のものように身勝手に鳴り響いている。とっさに両手で身体を押さえこんで、私はぎゅっと自分自身を抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫」
 小声でつぶやきながら、私は心を落ち着かせる。サイレンの音が遠ざかるにつれて、暴れていた心臓は徐々に大人しくなっていった。同時に、身体の震えも止まる。
「はぁっ」
 身体が落ち着くと私は大きく息を吐いた。
 そして、公園への道のりを急いだ。
 公園に着くと、そこには何もなかった。人影も一切ないので目撃者もないのだろう。昨日のことが夢であるかのように、肉の塊も血の痕跡も何もなかった。
 公園の土をさわりながら、どうやったんだろうと思う。これなら昨日ここに死体があったなんて誰も気づくわけがない。あの人には申し訳ないけれど、世間では永遠に行方不明者として扱われるのだろう。
「ごめんなさい」
 誰もいない地面に向かって手を合わせる。そして、携帯電話を取り出すとポニアードに連絡した。電話を耳に当てると心臓の鼓動が聞こえてくる。彼女に電話する時はいつも緊張する。早朝だというのにポニアードはすぐに出た。
「未世です。処理は完了していました」
「はいはーい。もう終わってたんだ。ここの担当官は手際がいいわね。狩野くんか土筆ちゃんあたりがやったのかしら」
 何のことかわからない私は上機嫌なポニアードの言葉を黙って聞いている。
「じゃあ、殺るときは連絡してね」
「わかりました」
 そこでポニアードとの電話は切れた。暴れていた心臓は徐々に静まっていく。空を見上げると、薄く白んでいる。
「もう朝なんだ」
 朝日が身体に当たると、少しだけ温かった。死んでしまったあの人は決して感じられない温かさ。それを感じていることに、罪悪感が生まれる。
 そんな罪悪感を和らげるために、私があの人にできることはなんだろうと考える。
 しばらく考えて、ふと公園の花壇が目に入った。
「そうだ。花を供えよう」
 我ながら妙案だと思う。もういなくなってしまった人に心の中で手を合わせる。自分勝手な罪滅ぼしにしか過ぎないのに、心のどこかがすっと軽くなった。でも、すぐにそんな身勝手な自分に嫌悪感を抱く。こう言う時、人間は矛盾していて、めんどくさい生き物だということを強く感じる。
 それから、私は人が来る前に公園を出た。明るくなってくるとランニングや散歩をする人が出てくるのがやっかいだった。捕まることはないらしいが、あまり人目に尽きたくないので、足早にホテルに戻った。
 ホテルに戻ると、時刻は六時半になっていた。
 極度の疲労からくるものなのか、緊張のしすぎからくるものか、頭がふらふらする。空っぽの胃袋はまだむかむかしていて、吐きたいけど吐けずにいた。呼吸をして心臓が動いているから生きていることはわかるけれど、本当に生きているのか自分でも怪しかった。
 ベッドに腰掛けて宙を見る。その途端、
「はは……ははは……」
 と、壊れたように自虐的な笑い声が漏れる。
 生きたいと願って、いろいろなものを犠牲にして、私は一体何をやっているんだろう。
「誰か……助けてよ」
 ぽつりとつぶやくが、無意味な言葉は空気となって宙に消えていくだけだった。
 今から準備したら学校には間に合う。けど、この状態で行ける気はしなかった。
 今日はサボろう。
  そう心に決めると私は着替えてそのままベッドにくるまる。目を閉じるとまたあの人の姿が浮かんだ。
 いつか私もあの人のように死ぬんだ。
 ふとそんな思いが頭に浮かんだ。きっと私の最後はろくでもないものだろう。人を殺して生き延びようとする意地汚い私にまっとうな最後があるとは思えない。神様がいるにしてもいないにしても、きっと最後に今までやってきたことのツケを払わされるだろう。
 人は死ぬ。それは生きている上で誰にだっていつか起こる、どうしようもないことだ。
『それでも私は――』
 限界だった私の意識はまるで切れゆく蛍光灯のように徐々に落ちようとしていた。薄れゆく意識の中、脳裏にはたった一つの願いが浮かんでいる。
『――死にたくない』


 目が覚めると、窓からは紅い光が差し込んでいた。もう夕方だった。
 ベッドから起きると、全身に汗をかいていた。悪夢を見た気がするが、幸いどんな夢だったか覚えていない。ただ、胃のむかつきと、頭ががんがんすることと、全身の震えがとまらなかった。体調は最悪。それでも生きていることは確実だった
「でも、少しは寝られたかな」
 疲労がとれた気は全くしなかったが、寝られたことだけは少し嬉しい。
 ふとテーブルの上の携帯電話が光っているのが目に入る。よく見ると、新着メールの表示が映っていた。
 布団から出て、携帯電話を手に取りメールを見る。そこには『佐坂智也』(ささかともや)と表示されていた。その名前を見た瞬間、つい口元が緩む。
 私は彼と付き合っていた。私にとってはとても大切な人で、絶望的な人生における唯一の希望だった。
 告白したのは私からだ。私は彼のことをずっと知っていたが、告白したのは一ヶ月前だった。必死に告白して、付き合えることになった。彼が告白を受けてくれた時、涙が出るくらいほっとしたことを今でも覚えている。
『今日欠席だったけど、どうしたの? 大丈夫?』
 起きられてきたメールの文面を見てから、私は少し考えて返信した。
『熱があって休んだんだ。もうよくなったから大丈夫。明日は行けるよ』
 嘘だが仕方がない。彼には今の私の姿は見せられないし、見せたくなかった。
 すぐに返信が返ってくる。
『よかった。今日も寒いし暖かくしてお大事にしてね』
 そのメールに心が温かくなる。智也くんはとても優しかった。
 携帯電話をテーブルにおいて窓の外を見る。血のように紅い夕日が眩しかった。時刻はもうすぐ午後五時になろうとしていた。
「早く行かないと花屋さんがしまっちゃう」
 私は服を着替えると、鞄と携帯電話を持ってホテルを出た。そして、朝と同じように公園に向かう。唯一違うのは途中で花屋さんに寄ったことだ。そこで花束を買った。白を基調とした大人しめの色の花束だ。公園に着くと、日は沈みかけ薄暗くなっていた。朝見たように、昨晩死体があった痕跡はまったくない。幸い人気はなかったので、私は公園の隅に花束を置いた。そして、手を合わせる。
「ごめんなさい」
 この言葉を何度言ったのかもわからない。けど、私は何度も謝った。それで許されないことはわかっている。でも、そうすることしかできなかった。その理由も知っている。
 私のせいで死んだ人に許されたいだなんて思っちゃいけない。最低で最悪で身勝手な理由だ。
 それでもこの気持ちを抑えられない。罪に開き直ることも、背負うこともできないから私は卑怯なやり方しかできない。謝って、謝って、謝って、謝って心のどこかで自分を正当化するのだ。
 いつまでこんなことをしたらいいんだろう。
 その答えを私は知っている。ポニアードの命令を完遂するまでだ。それはつまり。
「誰か……助けてよ」
 つい口から漏れた言葉に答えるものは誰もなく、ただ空気となって消えた。
「何やってるの?」
 突然背後から声を掛けられ、私は驚きながら振り向いた。
 そこには短い髪に鋭い目つきをした女の人がいた。動きやすさを重視しているのか、赤いセーターに紺のズボンを履いている。高校生のようにも見え、私と年が近そうだった。
「なんでもないです」
「ふぅん。花なんて供えて、まるでここで誰かが死んだみたい」
「そっ、そんな訳ないじゃないですか」
「そうよね、そんな話も聞かないし」
「そうですよ。何を言っているんですか」
「じゃあ、なんで花なんか供えているの?」
 私は何も言えなかった。
「うかつね。それじゃあ、ここで人が死んだって言っているようなものじゃない」
 女の人はするどい目で私を見た。
「せっかく痕跡を消しても、あなたがそんなにうかつなら、すぐにばれてしまうわ。この街にはほんの僅かな痕跡から真実にたどり着くやっかいな探偵だっているのに」
 そう言って女の人は一人笑っている。そこで私はようやくその女の人の奇妙さに気づいた。
「あなた何者ですか?」
「ポニアードと同じ組織のものといえばわかるかしら」
 私は息を飲んだ。
 同い年くらいの組織の人間がいるとは思いも寄らなかったからだ。同時に一つの疑問が浮かぶ。
「何をしに来たんですか?」
 警戒しながら私は尋ねる。もしかしたら、私を監視しているのではないかという可能性を思い浮かべた。
「相棒がしっかり仕事したか確認しているの」
「仕事?」
「死体の処理よ。昨日の夜頼んだでしょう」
 そう言われて私の脳裏に昨日の記憶が浮かぶ。その途端、空っぽの胃から何かがせり上がってきた。私は慌てて口元を抑える。必死に吐き気を押さえ込む。
「あらあら大変ね」
 言葉の内容とは裏腹に女の人は無感動に言う。そんな女の人に私は口元を抑えながら尋ねる。
「あなたも人を殺したことがあるんですか?」
「いきなりどうしたの?」
 女の人は怪訝な表情を浮かべた。その反応に私は自分が何を口にしたのか気づいた。慌てて頭を下げる。
「あっ、いえ」
 女の人はそんな私をじっと見つめると、気を悪くした様子もなく、口を開いた。
「あるわよ」
 私は絶句する。年の近そうな人が人を殺したことがある。その事実に私は驚愕していた。
「はっ、初めて人を殺した時、どうでした?」
 言ってから私は何を聞いたのかに気づき、慌てて首を振る。
「いえ、なんでもないです」
 それでも、女の人は気にしていない様子で、真顔のまま尋ねる。
「何? そんな事が聞きたいの?」
 私はおそるおそるこくりと頷いた。女の人はため息をつくと、軽い口調で答えた。
「最悪よ。辱められるとも、犯されるとも違う。汚物にゲロを混ぜたものを無理矢理飲まされたような最悪な気分だったわ」
 その言葉に私は息をのむ。そうしなければ私は生き延びることができない。その事実は私に絶望感しか与えなかった。
 今ですらこんな状態なのに、本当に人を殺した時、私はどうなってしまうんだろう。
 そんなことを思っていると、不意に口が開いていた。
「……なんで殺したんですか?」
「殺されそうになったから殺した。ただそれだけよ」
 女の人は吐き捨てるよう言う。威圧感が高まったような気がする。気がつくと私は後ずさって女の人と距離を取っていた。
「すっ、すいません。変なことを聞いて」
「別にいいわよ。それに怯えなくていいわ。あなたを殺すつもりはないから」
「え?」
「無意味な殺しはしない主義なの」
 淡々と語る女の人の言葉は、それで強い意志が感じられた。少なくともポニアードのような悪い人ではない。そう思えた。
「それにあなたには同情しているわ」
 その言葉に私は驚くが、淡々と語る女の人は全く同情している様子はなかった。
「同情……ですか?」
 眉根を寄せて、半信半疑でつぶやく。
「ええ、質の悪いやつに目をつけられて大変ね」
「質の悪い?」
「ええ、あいつは自分が楽しみたいだけの享楽主義者だから、楽しむためなら何だってする。そこに一貫性も主義も主張も正義も何もない。その上、狡猾で、運がよくて、強いんだからめんどくさいことこの上ないわ」
 吐き捨てるように女の人は意味不明なことを口にする。何を言っているのかわからない。ただ、にじみ出るような嫌悪感からポニアードのことを嫌っていることは伝わってきた。
 もしかしたらこれはチャンスかもしれない。なぜかそんな言葉が頭に浮かんだ。同時に、考えるまでもなく、口が勝手に動いた。
「なら、助けてください」
「助ける?」
 女の人の声のトーンは変わっていないのに妙な威圧感があった。
 私は口ごもる。自分でもなんでそんなことをいったのかわからない。ポニアードと同じ組織の人間にそんなことをいっても状況が悪化するだけだろう。そんなこともわからなくなるくらい私の精神は追い詰められていた。
「いえ、なんでもないです」
 慌てて首を振る。
「あなた助けてほしいの?」
 それでも、女の人は真剣な目で私を見ていた。まるで神様が垂らした蜘蛛の糸のような言葉に私の心はぐらりと揺らぐ。もしかしたら、この人は助けてくれるかも知れない。なぜかそんな風に思えた。
 葛藤は多分、一瞬だったと思う。慎重に、それでも必死に私は頷いた。
「……はい」
 自分でも驚くくらい声は小さかった。それでも、確かに私は助けを求める意志を示した。
 女の人を恐る恐る見る。彼女は先程の真剣な表情とはうってかわって呆れたような表情を浮かべていた。
「見ず知らずの他人の、しかもあいつと同じ組織の人間にいきなり助けてなんてよほど追い詰められているのね」
 哀れむような物言い。そこでようやく私は弄ばれたんだろうということに気づいた。
 その瞬間、私の中の何かが壊れる。
「当たり前じゃないですか。いきなり家族を殺され、殺されたくなかったら人を殺せと言われて、人を殺す方法を仕込まれて、人を殺す瞬間を見せられて正気でいられるはずがないじゃないですか。あなたたちは一体なんなんですか。何がしたいんですか」
 私は叫んでいた。しかし、すぐに女の人が真っ直ぐに見つめていることに気づく。
「あ……ごめんなさい」
 慌てて頭を下げる。初対面の人にいきなりぶちまけて、私何をやっているんだろう。心の中は後悔で一杯だった。
「別にいいわ。気にしてないもの。でも、助け――」
「――すいません、私もう行かないと」
 女の人の言葉を遮って私は急いで公園を出た。これ以上は公園にいられなかった。私は早足で、できるだけ公園から離れる。女の人から一刻も早く逃げたかった。どれくらい歩いただろうか、私は人気の無い住宅街の中で、足を止めると大きく息を吐いた。白いもや魂のように空に上っていく。空はもうすっかり暗くなっていて、大きな丸い月が浮かんでいた。
 ああ、月がきれい。
 月を見上げながら、現実逃避をするために他のことを考える。
 そういえば智也くんも同じ月を見ているかなと、まるで恋する乙女のようなことを思う。立ち止まって月を眺めながら、彼のことを考えて心を落ち着かせる。そうでもしないと、正気を保てなかった。彼は私に未来への希望をくれる唯一の存在だった。
「大丈夫……きっと大丈夫」
 私はそう自分に言い聞かせながら、ホテルへ向かった。


 次の日の朝、私はシャワーを浴びてから、洗面台で化粧をしていた。
 これから学校に行くので、できるだけきれいに見えるように化粧を施す。死人のような顔であっては智也くんにきっと嫌われてしまう。だから、彼に会う時はいつも気合いを入れて化粧していた。時間を掛けて化粧すると、目の前には先程とは別人のような顔が映っていた。
 ふとさっきまでの死人のような顔を思い浮かび、詐欺じみた自分の化粧の腕前に嘆息を漏らす。内心、我ながらずいぶん上手くなったものだと感心した。
 そして、私はベッドルームに戻ってポーチをベージュの鞄にしまった。
 それから、冷蔵庫を開けて水を取り出す。そして、口に含んだ。
 冷蔵庫の中には買いだめした水とドリンクミールしか入っていない。
 この三日間で口に含んだのはこの水とドリンクミールだけだった。ポニアードに人の死を見せられて何日かは、何を食べても吐いてしまうようになった。だから、その間はほとんど食事は取らない。水を飲むことと、ドリンクミールを食べることでなんとか生きながらえていた。幸いなのか、この生活を送ってからほとんど味を感じなくなっていたのでエネルギーを補給できるなら口にするものはなんでもよかった。
 冷蔵庫に水を戻すと、私はすぐに学校へ行く用意を始めた。
 時刻は七時三十分になろうとしている。ホテルから学校まで二十五分あれば着くので今から出たら余裕で間に合うだろう。手提げ鞄に教科書を詰める。いくつかの教科書は置き勉しているため、それほどの重くはならない。
 準備ができると私は忘れ物がないか部屋を見渡してから学校へ向かった。繁華街を抜け、住宅街を通り、郊外へ向かう。
 学校に近づくにつれて登校する生徒が増えてきた。話しながら歩いてくる人、自転車に乗ってくる人さまざまだ。学校の近くまで来ると、私はため息をついた。目の前に立ちはだかる長い坂を見上げる。学校に続く約二キロの坂。正式な名前は忘れてしまったが、生徒たちの間では地獄坂と呼ばれていた。
 朝からこの坂を上るのは骨が折れる。周りを見ると自転車で来ていた生徒は皆、自転車を降りて押していた。私はため息まじりに坂を上り始めた。息を切らしながら歩いていると、私の目にふとある人物が映った。
 何も付けていないのであろう自然な短い髪型に、整った顔立ち。一目見て、真面目な印象を受ける少年だった。どこにいても私は彼のことだけは見分けられるようになっていた。
 私は口元に手を当て、ちゃんと笑えているか確認する。確認できたら、彼に駆け寄って、できるかぎり明るく声をかけた。
「おはよう、智也くん」
 彼は驚いたようにこちらを振り向く。彼が佐坂智也だった。
「おはよう。羽素さん」
「今日も寒いね」
「そうだね」
「風邪はもう大丈夫?」
「うん。もうすっかり大丈夫」
 頷く智也くんの横に並んで私は歩き出す。私が休んでいた間に学校であったたわいのないことを教えてもらいながら、おしゃべりに花を咲かせる。きつい坂もたったそれだけのことで、楽しい時間に変わる。
 校門を越えたところでふと智也くんが尋ねてきた。
「今日のお昼はどこで食べよっか」
 智也くんから突然言われた言葉に、私は一瞬たじろぎそうになるが、すぐに笑顔を浮かべる。
「この前行った屋上に続く階段はどう?」
 答えながら内心食事ができるか不安でいっぱいだった。実際、昨日から何も食べていない。食べても吐いてしまった。
「いいね。そうしよっか」
 智也くんの笑顔を見て、私はほっとする。どうやら私の焦りは気づかれてはいないらしい。
「でも、今日はあまり食欲がないから、私はそんなに食べないと思うけど気にしないで」
 先に食べられないことへの布石を貼っておく。これで何も食べないことが不自然にならないはずだ。ふと智也くんを見ると、彼は心配そうに私を見つめていた。
「やっぱり具合よくないんじゃ?」
 彼はそうやっていつも私のことを考えてくれる。それがとても嬉しい。だから、せめて私は心配させないように笑顔を返す。
「ううん、大丈夫。身体はもう大丈夫だから。気にしないで。」
「でも、無理しないでね」
「ありがとう」
 私が笑顔で頷くと彼も笑顔で頷いた。彼の笑顔を見て私はほっとする。
 校舎に入り、靴を履き替える。それから教室へ向かう。私は三組、彼は五組だった。教室の位置関係からいつも三組の教室の前で別れていた。
「じゃあ、またお昼にね」
「うん」
 智也くんの言葉に頷きながら私は軽く手を振る。彼はくるりときびすを返して教室へ向かっていった。すぐに人混みの中に埋もれて見えなくなる。それでも、私はしばらく彼がいた方向を見つめていた。
 彼は私の絶望的な人生における唯一の希望だった。
 私は彼の全てが好きだ。(そう思うようにしていた。)
 私は彼の望むことなら何でもする。(そう心に決めていた。)
 私は命以外の全てを彼に捧げてもいい。(そう覚悟していた。)
 そうでもしないと、申し訳なかった。
 だって私は、彼を殺さないといけないのだから。
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