ナイフと銃のラブソング

料簡

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第1話

羽素未世の日常生活 その1

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 空には満月が私を見下ろすように浮かんでいた。
 人気のない公園で、夜空に向かって息を吐く。白い息はまるで魂のように夜空へ上っていった。
 もうすぐ冬になろうとしているせいか、薄茶色のコートを着ていても少し肌寒い。それとは別の理由で震える身体を私はぎゅっと抱きしめた。そして、目の前にある光景が現実で無ければいいのにと思いながら目を閉じる。しかし、まぶたの裏には今まさに起こった惨劇が焼きついていた。
 血の臭いが鼻につく。その臭いに絶えきれなくなって私は鼻と口を手で覆った。目を閉じても何も変わらないことに落胆しながら、観念して目を開ける。
 目の前にはスーツ姿の会社員らしき男が俯せに倒れていた。その男を中心に雨が降った後のような水溜まりが、徐々に広がり続けている。ただの水溜まりと違うところは、それが真っ赤な色をしているという点だった。
 私のせいでこの人は死んだ。
 血に染まった男の人をこれ以上見てられなくなって目を背ける。すると、辺りに漂い始めた血の臭いのせいか、不意に胃が痙攣して、喉から熱いものが迫り上がってきた。いっそ全て吐いたら楽になるのにと思いながら、私は口を押さえて強引に吐き気を押し戻す。
 気持ち悪い。
 目の前に倒れている男性は、その感覚すらもう二度と感じられないと思うと何とも言えない気持ちになる。
「今のでわかったかしら」
 背後から声が響いて、私はビクッと身を震わせた。すぐさま振り向くと、見知った女が立っていた。モデルのような整った顔立ちをしている。その口元はニコニコと笑っていた。
「あら? また吐きそうなの? もういい加減慣れたら」
 何度見ても慣れるわけない。
 そう思いながらも、私はただ頷くことしかできない。
「はい。すいません」
 そして、カタカタ震え始めた身体を押さえるために、両腕で身体をぎゅっと抱き締めた。
 彼女の名前はポニアード。私は彼女のお願いを聞く代わりに生かされていた。
 ポニアードが私にしたお願いは一つ。
『――を殺しなさい』
 それを実行できるようにするために、私は人体の構造からナイフの使い方まで徹底的に仕込まれた。思い出したくもないポニアードとの地獄の日々は、決して忘れられない記憶となって脳にこびりついている。
  人体のどこにどんな内臓があるのか。どこを傷つけたら動けなくなるのか、死なせずに痛めつけることができるのか、どうすれば簡単に殺せるか、本来なら一生知るはずも無かった知識を徹底的に覚えさせられた。
 勉強が苦手だったが、命がかかっていた私は必死に覚えた。死ぬ気でやれば大抵のことはできるというが、それは本当だったらしい。おかげで今では人体構造のことなら何でも答えられるようになっていた。
 同時にナイフの使い方も仕込まれた。どう振れば上手く切れるのか、どう刺せば上手く刺さるのか、刺した後どうしたらより傷つけることができるのか。覚えたくもない技術は驚くほどすんなりと、必死に覚えようとする私の身体に染みこんでいった。
 そして、その仕上げとしてポニアードは私の目の前で実践を見せた。
『あなたのためにやっているのよ』
 ポニアードはそんな言葉とともに人を殺した。その言葉を聞いた私は自分がやっていないのに、まるで自分が殺しているかのような錯覚に陥っていた。何度かぶりを振っても、その思いは消えることはなかった。
『私のせいでこの人は死んだんだ』
 押しつけられた罪悪感は、確かに私の心を蝕んでいた。
 そんな風に私は人の殺し方を見せられた。今まで何度か死体は見たことがあったが、目の前で殺されたことは初めてだった。それは思ったよりもあっさりしていて、そんな風に思える自分が思った以上に狂っていることを実感できた。
「今のでやり方はわかった?」
 そう言ってポニアードは殺した男を血に濡れたナイフで示した。その途端、私は男が殺された光景を思い出す。
 ポニアードは帰宅中らしき男に近づくと、すれ違い様に一瞬でその口を塞ぎ、心臓を刺した。何が起こったかわからないという男の表情。流れ出た血の臭い。すぐに刺されたことに気づくが、手遅れだと気づいた時の絶望に染まった顔。男は最後に私の方を見た。まるで助けを求めるように、それでも私は何もできなかった。ただ見ていることしかできなかった。そうして男は声を上げることもなく、絶命した。
 ナイフを心臓めがけて突き立てる。たったそれだけで人は死ぬ。相手にとっては死んだという実感もないまま、ただの事実として死が起こる。原因がなんであれ、人は死ぬということはどうしようもない世の中の摂理だ。 
「はい」
 ポニアードは私の答えに満足したようで上機嫌に笑みを浮かべていた。目を細め、口元をつり上げた顔は美しかったが、私にはその顔がただただ恐ろしかった。
「どんな相手でも心臓を一突きすれば死ぬの。簡単でしょう」
「はい」
「じゃあ、誰かで一度練習してみる?」
 その言葉に私は一瞬固まるが、慌てて首を振る。
「いっ、いえ、大丈夫です」
 ポニアードはつまり私に人を殺せと言っているのだ。それも本番に備えた練習として。そんな理由で人を殺すなんてできるわけなかった。ただでさえ、罪悪感で心が壊れそうなのに、本当に殺したらどうなるのか自分でもわからない。
 私が殺すのは一度だけ。そうして、この生活は終わり。後は平穏に生きる。それが今の私がすがれる唯一の希望だった。
「せっかくいい機会だと思ったのに、残念」
 大げさな動作で、落胆の声を上げながらポニアードはがくりと肩を落とす。しかし、すぐに顔を上げた。
「まあ、でも、じゃあ、あとはやるだけね。うまくできたら、あなたは晴れて自由よ」
 ポニアードはニコニコ笑いながら「よかったわね」と言うが、私は何も言えなかった。その言葉の意味を考えると、ただビクビクと震えることしかできなかった。
 ポニアードはそんな私を見て「嬉しくないの?」と問いかけた。私は何かを言わなければならないと思いとっさにオウム返しに言葉を放つ。
「嬉しい……です」
「それはよかったわ」
 そう頷くとポニアードはにっこり笑ながら、
「でも、それなら、もう少し嬉しそうな顔をしなさい」
 と、突然、声を低くして冷たく言いはなった。
「ひぃっ」
 恐怖のあまりつい声が漏れる。
 ポニアードは相変わらず笑顔を浮かべている。それは背筋が凍るような冷たい、冷たい笑顔だった。
「ほら、嬉しかったら笑わないと。笑顔はどうしたの?」
 私は必死に笑顔を作る。比喩でもなんでもなく、笑わなければ死ぬかもしれない恐怖から私は文字通り必死になって笑った。
 笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。
 頭の中で同じ言葉を繰り返す。今までどうやって笑っていたのか思い出せないが、表情筋が痛くなるくらい必死に口元をつり上げた。そして、ゆっくりと顔を上げる。
 ポニアードはニコニコと楽しそうに笑っている。
「うーん、三十点かな」
 その言葉に私は声が漏れそうになるのを堪えながら、さらに口元をつり上げた。それでも足りずに、私は手で口の端を持ち上げる。
「あはは……そうやって手も使わないと笑えないわけ」
 心底おかしそうにポニアードは笑っていた。
 そんな揶揄も気にする余裕もないまま、私はただ必死に笑顔を作る。無様だろうが、みじめだろうが関係ない。ただ、死にたくないという思いだけが私を突き動かしていた。
「自然に笑えないのなら、笑顔になれる魔法を教えてあげよっか」
 ポニアードの手にはいつの間にかナイフがあった。ナイフはまるで魔法のように一瞬で現れていた。
 何が何だかわからないまま、それでも私は口元をつり上げるのをやめなかった。やめたら何をされるかわからない。心は恐怖でいっぱいだった。
 次の瞬間、ポニアードはナイフを私の目の前に突き出した。
「動いたら切れるから動かないでね」
 そう言ってポニアードはゆっくりとナイフを私の口の中に入れる。
「ひっ」
 小さく悲鳴を上げるが、すぐに声が出そうになるのを必死に堪える。少しでも動けばナイフが口内に当たるので、それ以上声を出すことができなかった。
「あら、よく動かなかったわね。感心。感心」
 意外そうにポニアードは頷くと、ナイフを口に入れたまま説明し始めた。
「最近見た映画に口元にナイフで切れ目を入れている人物がいたの」
 思い出しているのかポニアードはうっとりとした表情で目を閉じた。口元にナイフを入れられている私は、ポニアードの手元が狂わないか気が気でない。
「それはとてもとても素敵な笑顔だったわ」
 そう言ってポニアードは目を開き、こちらを見る。
「あなたで一度、試してみましょうか?きっと素敵な笑顔になれるわ」
「はいほふへす」
「大丈夫です」と答えたかったが少しでも動けば口が切れるのではっきりと発音できない。
「ははははは……何を言っているのかわからないわ。じゃあ、笑顔にしてあげる」
 ポニアードの言葉に私は目を見開いた。身体は恐怖で震え、背筋に冷たい汗が流れる。
 どうすればいいのと私は必死にこの状況を変えられる方法を考える。そして、考え抜いた末に、私は必死に口元をつり上げながら「ははは」と乾いた笑い声をあげた。
 笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。笑え。なんでもいいから笑え。
「はははひはひはははははひははははっははははっはははっはは…………」
 心の中で呪文のように唱えながら、私は狂ったように笑い声を上げた。恐怖で涙があふれそうに鳴るのを必死に堪える。そうしないと本当にナイフで切れ目を入れられるかもしれない。そんな恐怖で心は埋め尽くされていた。
 しばらくするとポニアードがにっこり笑った。そして、ナイフを口内から離す。
「なーんてね。冗談よ。やればできるじゃない」
「あっ、ありがとう……ございます」
 えずきそうになるのを堪えながら、私は反射的にそう言っていた。何のお礼なのか自分でもわからない、ただポニアードには逆らえない恐怖が私の身体には染みついていた。
「それじゃあ、あとはこれの処理ね」
 そう言うとポニアードはナイフをスーツのポケットにしまうと、携帯電話を取りだした。携帯電話の画面に触れると、すぐに耳に当てる。今は夜中のはずだが、相手はすぐに出た。
「もしもし、私だけど。町外れの公園に一つあるからお願い。外だから早めにね」
 それだけ言ってポニアードは電話を切った。たったそれだけで、この死体も明日になればきれいさっぱりなくなっているらしい。まるで夢のような話だ。目の前の光景が現実であることに変わりはないのだけど。
「これで大丈夫ね。一応、明日の朝確認しておきなさい」
「はい」
 私が頷くとポニアードは目を細める。
「そうそう、あっちの方はどうかしら」
 その問いに私は慌てて頷く。
「じゅっ、順調です」
「それはよかった」
 嬉しそうに頷くとポニアードは私に向き合った。
「じゃあ、あとは殺るだけね」
  そう言われて私の身体はビクッと震える。しかし、何も答えないわけにはいかないので、すぐに口を開いた。
「……はい」
「楽しみでしょう」
 楽しみなわけなかったが、そんなことを言えるはずもなく私は頷いた。
「はい」
 油断したら元に戻りそうになる口元を必死につり上げ、笑顔を作るのも忘れない。
「じゃあ、一ヶ月以内に実行しなさい」
 それはつまり一ヶ月以内に人を殺せと言うこと。
 人を殺す。
 わかりきっていた現実に身体が震える。
 しかし、ポニアードのお願いを聞いた以上、叶えなければならない。それができなければ死ぬだけだった。本当は、思い切り叫び、泣き出し、わめき、逃げ出したかった。けど、そんなこともできないまま私は媚びたように必死に笑顔を浮かべる。いつの間にかそんな器用なこともできるようになっていた。生きるためには媚びることも大切だなんて自分に言い聞かせながら、私は必死に笑って頷いた。
「はい」
「じゃあ、実行する時は必ず連絡しなさい。約束よ」
 ポニアードはそう言ってウインクする。拒否権のない私はただ頷くことしかできなかった。
 そして、嵐のようにポニアードは去って行った。一人残された私はよろよろと歩き出す。まだ口の中にナイフが入ってるような異常な違和感がある。それでも、私は公園を出るために、なんとか必死で身体を動かした。近くに置いておいたベージュの小さな鞄を手に取り、肩にかける。鞄は細いひもを肩からさげるタイプで、中には財布と携帯と化粧道具とナイフが入っている。ナイフはポニアードが私に渡したものだ。いつか使う時が来るから慣れておきなさいと言われたが、何度触ってもその感触に慣れる気はしなかった。
 そして、私は公園を出る前に死体に近づいた。
「私のせいでごめんなさい」
 ポツリと私の口から言葉が漏れた。何も意味のない言葉。今更謝ったところで死体が聞いているわけではないし、許されるはずもない。それでも、私は気がつくと、その言葉を言っていた。
「ごめんなさい。本当にごめんんさい」
 もう一度口から言葉が漏れる。今度は意識して言ったせいかさっきよりもはっきりと響いた。しかし、言葉は返ってくるはずもない。
 当たり前の結果に目を伏せると、私はくるりときびすを返し、公園を後にした。


 私はひっそりと静まりかえった住宅街を歩いていた。数時間前までは明るくにぎやかだったと思われる家々は、全て電気が消えて真っ暗だった。まるで辺りすべての家が死んでいるかのような静けさは、不気味でしかない。
 煌々とした満月、点々とした外灯の灯り、冷たい空気、たまに聞こえる犬の遠吠え、そして、閑静とした闇。そんな中を私は一人ポツンと歩いている。目の前に広がる暗闇はまるでお先真っ暗な私の人生を表しているかのようだった。
 向かう先は私が暮らしている安ホテルだった。暮らしていた街から少し離れた場所に連れてこられた私は住処としてホテルを与えられた。そんな風に、お願いを聞くかわりにポニアードは生活の保障してくれた。おかげで衣食住に困ることはない。それどころか、ポニアードの指示を聞いている時以外は自由に動いていいと言われていた。それはつまり、いつでも逃げ出せるし、いつでも誰かに助けを求められるということ。ポニアードがどうしてそんなことをするのかわからなかった。
 ただ、私は逃げ出せるチャンスかもしれないと思った。人を殺さなくて済むかもしれないと思った。この絶望的な状況から抜け出せるかもしれないと思っていた。
 しかし、それが甘い考えだというのはすぐに理解することになる。
 ポニアードはどうやらある組織に所属しているようだった。その組織の規模は巨大で、世界中に影響を与えることができるらしい。曰く、「組織の構成員はどこにでもいて、世界中を監視しているの」ということらしい。ただし、どういう組織なのか、何を目的としているのか詳しいことは全くわからなかった。ポニアードに聞いても、『死神』という狙われたら必ず殺されるという評判の殺し屋や『ゴースト』という神出鬼没な泥棒といった質の悪い犯罪者たちから世界の平和を守っているということや、『何もないところから道具を生み出したり、不思議な現象を起こしたりすることができる能力を持った人間』を探しているということなど、嘘か本当かわからない言葉を言われるだけだった。ただ、羽素家で起こった惨劇を無かったことにし、私の身分や生活をあっさりと保証してくれたことから巨大な力があるらしいということは実感した。
 ポニアードからでさえ逃げ切れるとは思えないのに、そんな得体の知れない組織から逃げ切れるとは思えなかった。だから、私は今日までポニアードの言いなりになりながらなんとか生きてきた。
 結局、私が組織についてわかっていることは一つ、『WWS』という名前だけだった。それが何を意味しているのか全くわからなかった。
 住宅街をしばらく歩いていると、不意に胃が痙攣して喉から熱いものが迫り上がってきた。
 脳裏には先程の死がフラッシュバックする。忘れたくても忘れられない光景は私の心を確実に蝕んでいた。
 慌てて近くの電柱に寄りかかるのと同時に、胃から迫り上がってくるものを遠慮無く吐き出す。しばらくの間それは続き、中のものが無くなっても胃液が出続けた。酸っぱい味が口の中に広がって余計に気持ち悪くなる。吐き続けているせいか喉が焼けたように痛い。それでも、私は吐き続けた。
 やっと吐き気が治まった時には、全身汗だくになっていた。地面には吐瀉物がたまっている。息は完全に上がっていて、酸欠状態なのか頭がクラクラしていた。
 汚れた口元を袖口で拭いながら、こんな姿を端から見たら酔っぱらいに見えるのではないだろうかと、未成年ながら見当はずれな心配をする。この半年間の地獄のような生活の中で、私は荒唐無稽な現実逃避をして心を落ち着かせる術を身につけていた。
 完全に吐き出すものがなくなると、呼吸を落ち着かせるために吐瀉物から少し離れた塀にもたれかかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
 俯いていた顔を上げ空気を必死に吸う。熱くなった喉に冷たい空気はありがたかった。
 夜空を見上げながら、いったいいつまでこんな事をしなくてはいけないのかと考えて絶望する。
 その答えは簡単だ。私がポニアードの下した命令を完遂すれば終わる。それはつまり人を殺すということだ。それが私にとっての唯一の希望だった。
 私にできるんだろうかという思いが脳裏を埋め尽くす。
 そんなことを口にしたら、ポニアードはきっと嬉々として「じゃあ、練習しようか」と言うに違いない。そして、手取り足取り丁寧に私を動かしながら人を殺させるだろう。その姿を想像して、私の心はさらなる絶望に染まった。
 できなかったら私は殺されるだろう。どんな方法かわからないが、ポニアードは楽しみながら私を殺すだろう。痛いとか苦しいだとか、そんな感覚が生ぬるく感じるくらい残酷な方法で殺され流だろうと言うことは容易に想像できた。
 それだけは嫌だった。死にたくなかった。その思いが今の私を動かしていた。
 やっと呼吸も落ち着いて、私はもたれかかった身体を起こした。
 歩みを再開する。住宅街を抜けると、繁華街に出た。繁華街では一月以上先にあるクリスマスに向けて賑わっていた。人通りも多く。道路にはお客を待っているタクシーがあり、歩道にはたむろっているチャラチャラした若者や飲み屋帰りと思われる会社員達が歩いている。
 彼らを尻目に歩いている最中、ふと吐いた後の何とも言えない気持ち悪さに耐えられなくなって私はコンビニに寄った。店内は暖房が効いているため暖かく、冷えた身体には少し嬉しい。
 お客は私以外一人もおらず、店員はレジでけだるそうにぼんやりと突っ立っていた。見た目はかなり若い男の店員だった。
 夜勤で店員もめんどくさいのだろう、いつも店にはいると聞こえる「いらっしゃいませ」というかけ声はなく、店内はラジオで流されたアップテンポな音楽だけが響いていた。
 歌詞から察するに好きな人への思いを歌ったラブソングだった。どんな事情かわからないが、伝えられない思いを秘めた悲恋を歌っていた。ふと、その声がどこかで聞いたことがあるような気がした。しかし、どこで聞いたのかわからない。
 気にしても仕方ないので私は急ぎ足で冷蔵庫の前まで行き、一番安かったミネラルウォーターを手に取った。特に味にこだわりはない。
 ミネラルウォーターをレジに持って行き、けだるそうな店員に精算してもらう。お金を支払うと私は早く口をゆすぎたい一心で、コンビニから出ようと歩き出した。すると、コンビニを出る直前に曲が終わりDJが曲名と歌手の名前を告げる。
「あっ」
 その名前を聞いた途端、つい声がもれる。知っているはずだった。今流れていたのは私が好きなアイドルグループの曲だった。そんなことも忘れていた。けれど、今となってはどうでもいい。昔は好きな曲を聴いているだけで気分が高まったが、今は何の感情も湧かない。それよりも今は早く口をゆすぎたかった。
 外に出て口をゆすぐ。ミネラルウォーターを口に含んで、駐車場の溝に吐き出すと、口の中だけはすっきりした。最後に一口だけ飲んで鞄にしまう。
 そして、歩き出そうとした時、ふと掌が目に入った。ごくごく自然な肌色の小さな手。
 一瞬、それがなぜか赤く染まっているように見えた。
「っ」
 突然のことに息をのむ。よく見ると不健康に濁った肌色の掌でしかない。赤色なんて一欠片もついていない。それどころか、少し汗ばんでいるだけで、汚れ一つついていなかった。
 それでも私は鞄からミネラルウォーターを取り出し、血が付いたように見えた掌を洗った。もったいないが、私は掌を洗わずにはいられなかった。
 汚れの付いていない肌色の掌はそれ以上きれいになるはずもなく何も変わらないが、ミネラルウォーターが空になるまで私は洗い続けた。ミネラルウォーターが無くなっても最後の一滴まで絞り出すようにペットボトルを上下させる。どれくらいそうしていただろうか、肌色の掌は肌色のままだ。何度見てもそれは変わらない。初めから変わっていないのだから当たり前のことだ。けど、自分の掌がまるで自分のものじゃないように感じ、気持ち悪かった。そんな気持ちを振り払うため思いっきり頭を振って空になったペットボトルをコンビニのゴミ箱に捨てる。
 そして、私は急ぎ足でホテルに向かった。


 私がホテルに着いたとき、時刻は一時になろうとしていた。
 コートを脱いでベージュの鞄をベッドの上に置くと、私はすぐにシャワーを浴びる。まるで染みついた血の臭いを落とすかのように、何度も何度も身体を洗った。身体のどこにも血が付いていないのに、身体中のどこからも血の臭いがするような気がした。タオルを使って、皮膚が痛むんじゃないかって思えるくらい全身を擦る。狂ったように何度も何度もゴシゴシと擦った。
 それから、シャワーを戻し、バスタブから出ようとするとふと、鏡に映った自分の身体が目に入いった。全身火照った身体は朱がさしているだけだ。所々擦りすぎて肌が赤く染まっているだけで、決して血に染まっていない。洗い終えた身体はキレイなはずだった。現実にはそのはずなのに、私には自分自身がひどくヨゴレているように思えた。
 こうして、決して落ちないヨゴレは、私の中に溜まっていった。
 シャワーを浴び終えると、寝間着に着替えてすぐに電気を消しベッドに倒れこむ。ベッドに沈む感覚がひどく心地よかった。鉛のように重たい腕を動かし枕元の目覚ましをセットする。
 ポニアードに命じられた言葉が脳裏に浮かぶ。
『朝のうちに確認しておきなさい』
 ポニアードの命令は絶対だった。もし、破ったら私はきっと殺される。
 それは決して避けられない現実だった。
 もう寝ようと目を閉じた瞬間、脳裏に浮かんだのは殺されたサラリーマンの顔だった。最後の助けを求めるような顔を、きっと私は一生忘れられないだろう。
「ごめんなさい」
 言うべき相手はどこにも存在しないのにこれで何度目か分からない言葉を呟く。
「ごめんなさい」
 無意味なその言葉を言うことは、私が唯一死んだ人に対してできることだった。
「ごめんなさい」
 そういっても、何も変わらない。こんな言葉を言っても殺された人が救われることはない。ただの自分勝手な自己満足でしかないだろう。それでも、
「ごめんなさい」
 私はそんな無意味なことをし続けることしかできなかった。だから、布団の中で謝り続ける。疲労はピークに達しているというのに、目を閉じたら亡くなった男性の顔が浮かぶ。
 悪夢は覚めないまま、今夜は眠れそうになかった。
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