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第三章
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しおりを挟むあれからしばらく経った。
二月も半ばとなり、今日は緑狸が来訪する日だ。
反物はふたつ完成し、あとは着物に仕立てていくだけだ。
(春には間に合いそう)
これから、生地を裁断して、裁縫していく作業が待っている。
白蛇が目覚めるまでは、もう少しある。
(百合も、喜んでくれるかな……)
旭は百合用の反物を撫でて、幼馴染み二人の顔を思い浮かべた。
二人の結婚式は、きっと幸せなものになるに違いない。
きっと泰治は緊張して手と足が同時に出るような有様で、それを百合が背中を叩いて窘めるのだ。
そんな様子を想像して、旭は小さく微笑んだ。
(見ることは出来ないけど……、二人の幸せを祈ることは出来る)
死が二人を別つその時まで、ずっと。
二人には健康で、幸せに長生きして欲しい。
***
旭は庭に出て、木に積もった雪を箒の柄で落としていく。
緑狸の訪問前に、庭先を綺麗にしておくつもりだった。
最近は雪の降る日も少なくなったが、雪解けにはもう少しかかりそうだ。
(緑狸さまに、あのこと、ちゃんと言わなきゃ)
文句とまではいかないが、張形のことについては一言「無理でした」と報告しておきたい。
引き出しの奥にしまったまま取り出せないでいるそれを思いだし、旭は口を尖らせた。
ガサガサ、という音がして、振り返る。
敷地の境界のあたりでしたその音は、木の枝に積もった雪が落ちる音のようだった。
(緑狸さま……?こんなところから現れる事はないはずだけど。……獣……かな?)
旭は箒を持ったまま、そちらに近づいた。
結界の中には、獣は入れないはずだ。だとすれば、結界の外から音がしていることになる。
あまり近づくと、敷地の外に出てしまう。
旭は敷地から出ないように立ち止まって、背伸びをして音のした方を覗いた。
(――烏……)
茂みの向こうで、烏が地面に落ちている。
飛び立とうとして雪で滑ったのか、それとも別の要因か、ぴくぴくと痙攣して苦しそうだった。
以前もここで見かけた烏だろうか。
あの時は白蛇に話しかけられている間にどこかへ行ってしまったが、今白蛇は冬眠している。
助けてやりたい気持ちはあるが、結界から出るわけにはいかず、旭は戸惑う。
(それに……烏……)
紫の、鴉。
酉の市で白蛇とはぐれたときに遭遇した、あの男と同じ、烏だ。
あまり良い思い出ではなく、旭は躊躇する。
――淀んだ瞳の烏と、目が合った。
「あ……箒」
旭は自分が手にしていた箒の存在に気づき、柄をぎゅっと握った。
(これを使えば、助けられるかも。……助けて、あげないと)
箒の柄をゆっくり敷地の外へ出し、烏に触れようとした、その時。
「えっ、う、わぁっ!」
箒の柄が強い力で引っ張られ、旭は前に倒れる。
地面にぶつかりそうになる寸前、手首を掴まれ、体ごと引っ張られた。
「――つかまえた」
耳元で囁かれた声は忘れもしない、あの男の声だった。
「――――!!!」
旭はぞっとして、振り返る。
(あ……うそ……)
――結界の、外だ。
引っ張られたことで、結界の外に出てしまった。
「ちょっと力使っちゃったけど、おかげで出てきてくれて助かったよ。……俺のこと、覚えてる?紫の、鴉。紫鴉だよ」
「離して……ください。おれ、帰らなきゃ」
「――どこに?……白蛇の社には、もう入れない。だろ?」
「……それでも、おれはここから離れません」
迂闊だった。境界の外に出てはいけないと分かっていたはずなのに。
なぜか、あの烏の瞳を見ると助けなければという気持ちになった。
(そういえば、あの時も……)
旭は、以前同じように烏を見かけた時のことを思い出す。
あの時も何故か、行かなきゃ、という思いに支配されたような気がする。
「あ、気づいた?俺の力。俺は、導く力を持ってる。烏を見て、ほんの少しでも助けたいと思ったのなら、そうするように導くだけでいい。助ける、という行為そのものへ背中を押すだけなら穢れも進まない。……君が優しい人間で良かったよ」
そもそも助けたいとすら思わなければ成立しないと言われて、旭はぐっと奥歯を噛んだ。
自分は、困っているときに白蛇に助けられた。
だからこそ、誰かが困っているなら手を差し伸べたいと思ってしまう。
その気持ちを汚されたような気分だった。
「何が目的なんですか?」
「君の反物。あれを見たとき、思ったんだよね。……これなら俺の力を取り戻せるかも、って」
おおよそ、白蛇の推測通りの答えが返ってきた。
「おれには、特別な力はありません」
旭はそう言って、紫鴉の瞳を睨んだ。
元は紫色だったのだろうか、瞳の一部だけやけに明るい紫で、そこ以外は黒く淀んでいる。
(あの烏も……この神様が化けた姿だったんだ)
旭は自分の間抜けさに歯噛みする。
あれほど白蛇に言われていたのに。
掴まれた手を解こうと振るが、強い力で掴まれていて振りほどけそうになかった。
――ここで問答していれば、いずれ緑狸が来るはず。
そう思って粘ろうとした旭に、紫鴉がにたりと底意地の悪い笑みを浮かべた。
「あんな反物作っておいて、特別な力はない、は嘘でしょ。まあとにかく、ついてきてよ」
ぐいっと引っ張られて、旭はふらりと歩き出した。
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