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第三章

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 旭が足を踏み入れたのは、書斎のような部屋だった。
 私室、といっても白蛇が普段使う区画は何部屋かあるうちのひとつだ。
 文机の上には書きかけの文のようなものと、筆記具が綺麗に並べられている。
 巻物や本は重ねておいてあるが、乱雑さは感じない。
 学がなく字がほとんど読めない旭には分からないが、何かの規則に則って並べられているのだろうなと重ねられた本の色合いで思う。

「俺の部屋が不思議か」
「あっ。す、すみません、つい……」

 家主の許可なく覗き見る趣味はなかったが、許可を得て入ってしまうとどうしても気になってしまった。
 きょろ、と部屋を見回してしまったことを指摘され、旭は視線を白蛇に移す。

「昼間のことだが」

 白蛇が切り出したので、旭は背筋を伸ばした。

「あの男は、穢れが始まっている」
「穢れ……」
「ああ。あの派手な身なりの通り、奴はかなりの浪費家だ。次々と人々に要求をしては疲弊させた結果、信仰を失いつつあった。導きを司る神が、人々を良くないほうへと導いた。人々は神へ憎しみを募らせることになり、穢れが生まれる。……だから社を追い出された」
「そういう、ことだったんですね……」

 導くことを司る神なら、人々を悪い方向へ誘導することもできる。
 神の力は、信仰の強さで変わる。
 信仰を得られなくなった神は穢れ、やがて死んでしまう。

「あの男は、まだ若い。社を追い出されても、これから出会う人々を正しく導くことができたなら、まだ生き永らえることはできる」
「だから、神の使いを欲していたんですね……。おれには、特別な力がないのに」

 旭には、神の使いとなれるような特別な力はない。
 白蛇にそう言われたことを思い出して、旭はしみじみと答えた。
 自分を卑下するわけでもなく、ただの感想として。
 けれどそれを聞いた白蛇は眉根を寄せて、憮然とした表情をした。

「……白蛇さま?」
「おまえに、特別な力がない、と言ったのは訂正しよう」
「ですが……」
「おまえの信仰心は、それだけで充分な力になる。神の使いになる力はなくとも、その信仰心から生み出される反物は―—」

 白蛇が言葉を止める。

「―—あの男は、おまえの反物をどこかで目にしたのかもしれないな」
「反物を?」
「ああ。あの反物を見れば、一目で上等なものだとわかる。狸から直接見たわけではないだろうが、流通したどれかひとつを見かけて、その信仰心を欲したのだとしたら……辻褄が合う」

 信仰心を失って、社を追い出された神が、手っ取り早く力を取り戻す方法。
 誰かの信仰心を、奪うこと。
 緑狸の話では、たとえ旭が白蛇を思って織った反物でも、効果があると言っていた。
 白蛇も驚いた様子はなかったから、神の間では知られている話なのだろう。

「おれに反物を織らせようと……?」
「社を追われたあの男が機織機や糸を用意できるとは思えないから、奉納行為をさせようとしているのかもしれないな」

 白蛇のために掃除をしたり、食事を作ったりする行為そのものが奉納になると緑狸から教えられたことを思い出す。

「例えば持ち物を差し出すだけでも奉納になることがある。多少効果は薄れても、積み重ねれば力にはなるだろう」
「……また、現れるでしょうか」

 旭は、紫鴉に触られた手の甲を擦る。
 そこに口づけされたとき、彼は『印』だと言っていた。
 嫌だ、と思う。
 芯から白蛇のものになりたいと思っているのに、そこだけがこびりついてとれない染みのようだった。

「――そこに、何かされたのか」
「あ……」

 白蛇に手を取られ、旭ははっと顔を上げた。
 気遣うようなその視線に、旭はどきどきと鼓動が早くなる。

「……その、く、くち、……くちづけ、を……。印だ、と」
「――言霊だな」
「言霊……」
「ああ。その言葉自体に効力があるわけではない。まじないに近いものだが……相手が動揺している時や傷心の最中さなかでは相手に意識させることができる。おまえの体に何か術が施されている形跡はない。――再会するときに『印をつけたからだ』とでも言われれば、おまえはあの男の力を信じることになっただろうな」
「……そんな……」

 旭はぞっとして自身の手の甲を見た。
 白蛇が触れているのは指先だ。
 緊張で指先が冷たくなったのを、白蛇も感じただろうか。

「おれ……気持ち悪くて、手が、あの神様の触れたところが……。どうすれば、消えますか」

 もう片方の手で、旭は自身のうなじを擦った。
 ここに顔を寄せられて、「白蛇の匂いがしない」と言われたのだ。

(白蛇さまの匂いがするようになれば、あの神様も近寄ってこなくなるんだろうか)

「――言霊は、上書きができる」

 白蛇が、旭の手の甲に唇を寄せた。

「……あ、っ……」

 柔らかな唇が当てられて、旭はぶるりと身を震わせる。
 紫鴉に触れられた時とはまるで違う。歓喜だ。
 全身が、「嬉しい」と叫んでいるような感覚だった。
 すぐに離れてしまったことが名残惜しくさえ思う。

「あいつの印は、完全に断ち切った。……どちらの効力が上か、おまえならわかるだろう」
「は、い……白蛇さま……」

 旭は頷く。
 先ほどまでの嫌悪感が嘘のように消えて、旭は安堵のため息をついた。

「あの……もう、獣臭くありませんか……?」
「……ああ。……あれは八つ当たりだった。すまない」

 謝られて、旭はきょとんと目を丸めた。

「おまえから、おまえ以外の匂いがするのはあれが初めてだったから」
「おれの、匂い……」
「このあたりから、鴉の残り香がしたから」
「……ん、ッ」

 旭のうなじに、そっと手が触れる。
 指の腹で撫でられ、旭は息を詰めた。
「今は、おまえの匂いだけだ」
「っ、その……そこも、上書き、していただけませんか……?体ごと、全部……、白蛇さまの匂いを、つけてほしいんです」

 旭は、白蛇の手をぎゅっと握り返した。
 羞恥で旭の顔は真っ赤だったが、白蛇の目をじっと見つめる。

(――図々しいのは、もう今更だ)


「――分かった」

 白蛇は、少しの逡巡の後、旭の手を引いた。
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