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第二章

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「白蛇さま、どうぞ」

 自噴じふん井戸からたらいに水を汲み、旭は白蛇に差し出す。

「いや。俺は身を清める必要はない」
「えっ」
「俺は――というか神は、そもそもけがれなき存在そのものだ。神が穢れることは、即ち能力の低下や死期を招くことに繋がる。神の穢れは、人の信仰によって祓われるんだ。だから、信仰されているうちは能力も下がらないし、汚れることもない。人間のよごれとは意味が違う」
「初めて、知りました」

 白蛇についての伝承は、村で聞けるだけ聞いてきたつもりだったが、”神”という存在そのものについては、まだまだ理解が追いつかない部分の方が多い。

「人間にこのことを教える機会などそうないからな。食事と同じように、趣味や道楽でそれらを行う神もいるが。――俺のことは気にしなくて良いから、さっさと顔を洗え」
「はいっ。すみません」

 ひやりと冷たい水を両手で掬って、旭は顔を洗う。

(あ、手ぬぐいを忘れてきたな)

 村でも、手ぬぐいを持たぬまま水場を使用することはあった。
 そんな時は、着物の袖で軽く顔をはたいていた。
 木綿の着物は、乾くのも早いし手ぬぐいと素材も同じだから。村人たちもみんなそうやっていた。
 そうしていつものように袖で拭おうとして――旭はぴたっと動きを止めた。

(これ、正絹しょうけんの着物……!!!!)

 最高級品の着物の袖で顔を拭うなど出来るわけがない。
 旭は手で顔をたたいて、水分を飛ばそうとした。

「――これを使え」

 旭の眼前に差し出されたのは、木綿の手ぬぐい。
 差しだした白蛇の口角が若干上がっているように見えるのは、気のせいだろうか。

「し、白蛇さま……」
「犬のように頭を振って水気を飛ばすか?」

 からかうように言われて、旭は「うう」と唸った。

「後で洗濯してお返しします……」
「いい。それはもうおまえにやる。後で何枚か部屋に持って行くと良い」
「……ありがとうございます……」

 柔らかな手ぬぐいで顔を優しく拭いながら、旭ははたと気づく。

(――あれ?身を清める必要がないのに、どうして白蛇さまは井戸まで……?)

「終わったなら俺はもう戻るぞ」
「あっ。おれも戻りますっ」

 旭は立ち上がって歩き出す。
 考えても答えが出そうにないことだ。頭にふと浮かんだ疑問は、雲散した。

 そのままの流れで、旭は白蛇に屋敷の中を案内される。
 玄関から入って、土間の廊下から見える位置にあるのが旭が足の治療を受けた部屋だ。

「ここは客間のようなものだ。といっても、狸以外はほとんど訪れないが」
「縁側があるから明るいですね」
「そうだな。俺の前任は、客を呼ぶのが好きだったらしい」

 部屋には上がらずにそのまま土間の廊下を進んでいく。
 土間の右側には窓があり、天井も高いので室内だというのに明るく感じる。
 人を招くのが好きだったという神様らしい造りだと旭は思う。

 突き当たりを左に曲がると台所がある。
 台所には水瓶や洗い場、かまどがあるが、どれも使い込まれた形跡がなかった。
 土間の端には勝手口があり、そこからも外へ出られるようになっていた。
 台所からは、板の間が見える。板の間には囲炉裏が設置されていて、食事はここでとることができそうだった。
 襖が開け放たれた板の間の奥は茶の間のような造りになっていて、もしかしたら白蛇の前任は食事を楽しむことがあったのかもしれないと旭は想像する。

「草履はここへ置いておけ」
「はい」

 言われたとおり土間に草履を置いて、廊下に上がる。
 板の間と茶の間を通り過ぎれば、廊下を挟んで客間にたどり着く。
 客間と茶の間は廊下を挟んで、かつ襖できちんと間仕切りされていて、公私の区別がされていた。

 客間の隣に、もう一つ独立した部屋が見える。襖は閉じられていて、中までは見えない。

「そこは最後に説明する」
「わかりました」

 今度は外廊下を歩く。朝起きて旭が通った廊下だ。
 外廊下、と言っても半屋内で、ガラス戸で閉じられている。
 縁側と兼用できる廊下だ。

 何もない部屋を通り過ぎ、奥にあるのが旭の部屋だ。突き当たりに当たる部屋なので、窓がある。
 そこから廊下を左に曲がり、中庭を挟んだ奥の一角にたどり着いたところで、白蛇が足を止めた。

「ここから先は、全て俺の私室だ」
「はい」
「一番手前の襖から話しかけられても俺には聞こえるから、何か用があればここから声をかければ良い」

 不躾に白蛇の部屋を覗く趣味はなかったので、旭は頷く。

「それ以外の部屋は、どこをどう使ってもかまわない。道具も、自由に使え。――あとは、おまえの仕事場だな」

 来た道を戻り、先ほど最後に説明すると言われていた部屋の前に来る。

「最初に説明すると卒倒しそうだったから、ここまで引っ張った」
「――――――!!」

 白蛇が襖を開ける。そこには、機織り機が鎮座していた。
 窓からも縁側からも日が差し込む明るい板の間に、どう見ても新品の機織り機が置いてある。
 明らかに、旭のために購入されたものだった。

「あ、あの、これ……」

 旭は驚愕と動揺で、もごもごと口を動かす。
 仕事をすると言ったのは自分だし、必要なものはと聞かれて答えもした。
 だが、新品の機織り機を購入されるとは思ってもいなかった。
 それに、機織り機だけではない。
 糸繰りから反物、反物から着物にするのに必要な道具が全て取りそろえられている。

「――もし、おまえが」

 二の句の継げなくなった旭に、白蛇が話しかけた。

「これらの購入費用を慮って負担に思うのなら、それに見合う仕事をこなせ。出来ぬと言うのなら、ここで暮らすのは諦めろ」
「――いえ。出来ます」

 旭は、静かに答えた。
 これは、白蛇から与えられた試練でもあるのだと思った。
 贅沢すぎるほど与えられた数々に見合うだけのものが返せるか、見極めようとされている。
 負担に思い、萎縮し、辞退するようであればそれまで。
 きっとどこかに送られてしまう。

(白蛇さまの、お側にいたい)

「いただいたご恩を返せるよう、必ず、成果を出します」

 白蛇を見つめ返すと、赤い瞳の奥、瞳孔がわずかに緩んだように見えた。

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