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第一章

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 柔らかな座布団の上に下ろされ、旭は慌てて立ち上がろうと腰を上げる。
 土まみれの汚い着物で汚すわけにはいかないと思ってのことだったが、酷使した足が動かず、結局は座布団の上にへたり込むことになった。

「あの、汚れてしまいますっ」
「かまわない」

 もしかしてのように蛇の姿になって……と想像したが、旭の予想に反して白蛇は水の入った桶を持ってきて、手ぬぐいで旭の足を拭き始めた。

「じ、自分で出来ます!」
「俺がやった方が早い」
 そう言われてしまえば憧れの神様から手ぬぐいを奪うことは出来ない。
 旭の傷口に何かの液をかけ、丁寧に包帯を巻く。慣れた手つきでてきぱき治療され、旭はぼうっとその作業を見つめていた。

(もしかして、蛇の姿でないと治癒の力を使えないとかなのかな)

 いきなり現れた憧れそのものが、自分のことを治療している。
 旭は理解が追いつかず、治癒の力についてもあまり深くは考えられなくなっていた。
 手のひらまで丁寧に清拭せいしきされ、旭はほとんど考えることを放棄したまま「ありがとうございます」と頭を下げた。

「たいした怪我でなくて良かった。二、三日もすればここを出て行けるだろう」
「……どういう意味ですか?」
「ん?おまえは贄……口減らしで奉納されたのだろう。だが、俺は贄などいらぬ。贄には毎回、今後望み通りの人生が送れるよう加護を与えて解放していた」
「望み通りの、人生……」

 旭の繰り返した言葉に、白蛇は頷いた。

「少し長くなるが、贄について説明しよう」

 この山の麓に住まわせて欲しいと人々がやってきた頃、人と神はもっと近しい関係であった。
 集落の中から特別な力を持つ存在を神の使いとして選び、神と人との架け橋にする。
 神託は人々に届き、願いは神に届く。
 そうした関係をずっと続けてきた。
 そうやって神の使いになった者たちは神格が備わり、やがて小さな山や神社を守る神になった。

「それが、贄の始まりだ」

 けれど、人々はやがて神の力を使わずとも自分たちの力で生活が出来るようになっていく。
 狩猟や、農業の発展によって。
 そして、特別な力を持つ者も減っていき、やがて贄の意味が変わっていった。

「人々が代替わりするように、神も代替わりする。そして神の代替わりというのは、神の力が失われていくことによって起こる。加護がなくなった山は、どうなると思う」
「不作や、不漁……。いえ、もっと大きな災害が起こると思います」
「その通り。不作や不漁が続き、人は荒れる。人が荒れれば信仰心が失われ、神は益々力を失う。そして、災害が起こる」

 旭はこくりと唾を飲み込んだ。

「俺はいわば二代目だ。……だから俺がここへ来たときにはもう、贄というのは口減らしされた村人だった。」

 最初の頃は、悲惨だったという。
 代替わりしてすぐに状況が改善するわけではない。
 天候の荒れや不作が起こる度に贄は捧げられ、白蛇はその度に他の山へ贄を逃がしたという。

「ただ、””という行為には意味があるんだ。神力は、信仰によって強くなるからな」

 老若男女問わず贄をどんどん捧げられたことで、白蛇はどんどん力が強くなり、元々持っていた五穀豊穣の力も増幅された。
 村が安定した頃、ようやく特別な力を持つ者が白蛇の前に現れた。贄としてではなく、村の神事を執り行う、巫女として。

「巫女と話をして、口減らしの贄を捧げるな、と言ったが、自浄作用と信仰を守るために必要だと逆に説得された。だから、頻度を六十年……一世代から二世代に一人、とした。先代もそれぐらいの頻度だったとは聞いていたからな。五穀豊穣を約束する代わり、それ以上の口減らしを禁止した」

 六十年に一度の、贄の儀。
 やっと、旭の知っている話になってきた。

「来るときに通った鳥居と社は、その時に巫女が作らせたものだ。豊作の折には贄以外の収穫物も奉納されていたが……いつしかそれはなくなっていった」

 もしそれがあったなら、もっと早くに白蛇に会えていたかもしれないと思うと、旭は忸怩じくじたる思いだった。

「おまえの時には、もはや社の位置さえ分からなかったようだったな。珍しく山に分け入る気配と……俺を呼ぶ声がした。様子を見に行って声をかけようとしたら――おまえが盛大にころんだんだ」

 ははは、と愉快そうに笑われて、旭はさっと頬を染めた。
 初めて見る白蛇の笑顔と、羞恥のせいだった。

「――ああ、悪い。そろそろ本題だ。今まで話したとおり、俺は贄の今後の人生ができるだけ望み通りのものになるようにしている。力の及ぶ範囲でだが」

 白蛇が、旭が望みを言いやすいようにか事例を出してくる。

「村に置いてきた恋人と駆け落ちしたいというのもあったし、前回の贄は自分よりも姉の健康を望んだ。その贄は病弱だが巫女と同じように資質があって、他の神の元で神の使いとなった。俺が姉に加護を与えるよりも、その贄自身が祈る方がずっと力が強い」

(おばあのことだ)

 大往生したおばあは、確かに最期まで病気ひとつせず眠るように亡くなった。
 夢枕に立ったというのは、本物の妹だったのだろう。

「――おまえの望みはなんだ?」

(おれの、望み)

 白蛇の問いかけに、旭は口を開いた。

「おれは、貴方に恩返しがしたくてここに来たんです。……助けて貰ったお礼がしたくて」
「あの時?」
「白蛇さまは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、おれは幼い頃いじめられていたところを助けていただきました。――十年前のことです」
「十年……ああ。覚えている。幼子だったから、蛇の姿で脅かせば止められるだろうと思ったんだ。あの時も、俺を呼んだな」

 旭は覚えていて貰えたことに胸がいっぱいになる。
 心の中で、しろへびさま、と呼びかけた時のことを思い出す。
 あの時も、今日も。白蛇は呼びかけに応えて現れてくれた。

「はい。あの時助けていただいたご恩を、返しに来ました」

 旭は、心から微笑んだ。
 やっと、恩返しをするときが来たのだ。
 しかし、白蛇はぽかんと口を開けた後、黙ってしまった。

「――――――いや。そういうのは、足りている」

 そして、たっぷり時間をかけて返ってきた答えは、旭をがっかりさせるのには十分だった。
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