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二 (水瀬視点)
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指導担当者の立花さんが十八時ちょうどに退勤すると聞いて、俺は耳を疑った。
「誰か死んだんですか?」
「ここは目黒だよ。コロンビアじゃない」
彼女の鋭い目つきは「葬式でもない限り、私が定時に退勤しないとでも?」と言いたげだった。その声は冷ややかで、まさに人を始末してきたような色を帯びていた。
「小学校に行くんだよ」
彼女はため息まじりに言った。黒く、長い髪をかきあげる。この場面だけ切り取れば、悩めるクールビューティ、セクシーな女上司だ。しかし切り抜きが真実であったことなどない。俺も始め、彼女が指導担当者と聞いた時、電話帳の写真を見て胸が躍った。年下の女の子が好みだったけど、年上も悪くないんじゃないか、とさえ思った しかし前場所の同期から彼女の評判を聞いたところ「上司としては最高だけど、絶対に恋人にしたくないタイプ」と言われた意味も理解した。仕事が好きすぎるのだ。そんな彼女が小学校に行くなんて、俺は二十の意味で理解に苦しんだ。
「え。お子さんいたんですか」
「そんなに驚かなくても。私はもう二十七歳だから、子供がいてもおかしくないでしょう。違うよ。バーター取引を持ちかけられたんだ」
「バーター取引?」
「預金付け替えの話。うちの大口預金先に、渋谷区役所があるだろ。あそこの銀行担当者から、小学校の怪奇事件を解決しろって言われたんだ。そうすれば再検討してくれるみたい」
「へー。でもいいじゃないですか。付け替えされたって」
「バカ言え。金だけじゃない。うちの大口取引先もあそこでしょ。運用実績が下がるんだよ」
「あ、そっか。預金担保にして、枠ギリギリまで運用させてるんでしたね」
俺の言葉は、彼女の頭上を通り過ぎて行った。彼女は百六十近く身長があるため、俺と十センチほどしか変わらないが。てきぱきと退勤の準備を進める彼女を見つめた。無駄のない動き、しなやかな身体つき。それはサバンナで生きる動物を思わせた。ゆっくり動くと死んでしまう類の、誇り高い肉食動物だ。
「じゃあね。お疲れ様」
彼女は立ち上がり、課長の席を見た。挨拶しようとしたのだろう。しかし支店長と臨時の会議をしており、不在だった。
「課長には先に帰って伝えといて」
「あの」
俺は声を上げた。どうしてそんなことをしたのか、今でも分からない。
「俺もついて行っていいですか?」
彼女は珍しい虫を見るような目つきで俺を見た。
「なんで? 小学生もナンパするつもり?」
「違います。年下は好きですが、犯罪者になるつもりはありません」
彼女の目に、俺はどんな獣に見えているのだろうか。この傾向は彼女のように女きょうだいに囲まれ、進学校の女子校で育った者によく見られる。男はバカな小学生のままで記憶が止まっているのだ。あながち間違いでもない。大人になるにつれ、モラルや外見で取り繕うことがうまくなっただけだ。
「僕、昔その小学校に通ってたんですよ。一年生までですけどね」
「へえ、都会っ子だね。横浜出身じゃなかった?」
ま、横浜も都会だけど。自虐気味に付け加えることを忘れない、会津若松出身の彼女だ。
「親父がまだいた頃、あの辺に住んでたんです」
沈黙。彼女の好きなところを挙げるとすれば、こちらが話したくないことを一切聞いてこないところだろう。営業を長年やっている人間は、この手のスキルを身につける。相手の心の動きを読み、この先は踏み込んではいけないとブレーキをかけることができる。
「分かった。じゃあ道案内を頼もうかな。終わったら渋谷で美味しいものでも食べよう」
「無理ですね。俺、今日デートあるんで」
「はいはい。じゃあ私はサウナにでも行くから。ご自由に」
俺は締め業務の引き継ぎを、別の課の一つ上の先輩に頼んだ。俺の店に俺の同期はいない 。お客様サービス課にはいるけど、ここ法人営業課にはいない。研修中に考えが変わって、銀行に入ることを辞めてしまったらしい。彼女は大学生の頃に起こしたビジネスで成功し、ちょっとしたインフルエンサーになっている。俺はその様子を、よせば良いのについSNSで見てしまう。その度に嫌な気持ちになる。自分の判断が正しかったのかそうでないのか、分からなくさせるからだ。
店を出た。六月の夕方にしては、奇妙なほど温かかった。風が強く吹いている。その強さは少しすれば暴風に変わり、雨をもたらすらしい。そろそろ梅雨入りすると食堂のテレビが言っていた。十七時に出ることなんてあまりないから、外は奇妙に明るく感じた。 俺たちが山手線に乗って 渋谷で降りた。小学校に 到着したとき、ちょうど雨が降ってきた。 この時は幸運だと思った。 しかし そんなことで喜んでいる場合ではなかった。おそらくここで運を使い果たしたのだ。その日一日分の運を。
校門に近づくと、守衛さんが訝しげな顔で近づいてきた。用件を告げると、無線で何かをやり取りし始めた。待っている間に、校門から小学生が二人出てきた。どちらも後ろからそれぞれの親がついてきている。「お迎え、大変だよね」「あの事件のせいで」と話している。仕事の合間に迎えに来たようで、うんざりした顔をしていた。子供たちは対照的に、嬉しそうに校門を駆けていく。彼らの背中を見送っていると、守衛さんに話しかけられた。
「PTA室に行ってください。入ってすぐ右の校舎、一階職員室の向かいです」
小学校は校舎が二つ、 プールが一つという小ぶりなサイズだった。運動場は人工芝で、辺りは低層マンションで囲まれている。まるで箱庭のようだ。綺麗にラッピングされて、箱に入れられて、百貨店に並ぶのだろう。都会ではこれが限界なのかもしれない。しかし小学生、彼らにとってはこの世界が全てなのだ。
PTA室にはすぐ到着した。無機質なパイプ椅子とテーブルが並ぶ、質素な部屋だ。小学校のマークが描かれたTシャツや、行事で使うであろうダンボールが山積みになっていた。壁には歴代PTA会長の写真が並んでいる。俺たちの姿を見て、テーブルで何か作業をしていた女性が微笑んだ。
「あぁ、銀行の方ね」
感じの良い女性だった。ファッションモデルとまではいかないけれど、年齢の割に華がある。ふんわりと広がるスカートに、薄手のニットのカーディガンを着ている。ていねいにカールされた髪が揺れて、小ぶりなネックレスが光った。首には『広尾小学校PTA葉月』いうネックホルダーもかかっていた。
「困ったことになってるのよ」
彼女ほど、本当に困ったような声を出せる人種も難しいだろう。俺は彼女の発言にあわせて上下する、なだらかな双丘を見つめていた。
「給食室の廊下に、お化けが出るのよ」
「お化けね」
立花さんは明らかに馬鹿にしたような声を出した。葉月さんは少なからずその態度が気に障ったようだが、気にしないふりをして続けた。
「授業が終わる十五時までは学校側の問題なんだけど、放課後は私たちPTAの管轄なの」
その声には何処か誇らしげな色が窺えた。
「校舎前に自転車は一台置かれていないでしょ? 歩道橋の下にも。今まではそこに生徒達が自転車を止めていたのよ。私たちPTA、校外委員がパトロールしたお陰なのよ」
彼女は段ボールの中から、ネックホルダーを取り出した。『▼▼小学校PTA』と書かれた紙も入っている。彼女はそれを見せた。桃色とラメのグラデーションがかかったジェルネイルが、美しく輝いていた。
「そして今日からあなたたちも、そのPTAの一員となってもらうってわけ」
綺麗な指先が、ネックホルダーをこちらによこした。とがった爪は凶器にも見える。
「名前を書いてもらえる? 首からかければ、次から守衛さんに止められずに入れるわ」
「次から?」
机の上に転がっていた油性ペンで名前を書き終えた立花さんが、腹立たしげに吐き捨てた。今にも机を叩きそうだ。どうやら彼女の我慢の限界を超えてしまったらしい。
「今日で解決してみせますよ。私たちはそんな暇はない。学校の前に止められた自転車? どうでもいい。自転車を使えば早く学校に来れるなら、その方がいいでしょう。利便性を考えるべきです」
沈黙。葉月さんは穏やかに微笑んだ この手の非難には慣れているのだろう。猛獣を手なずけるように、ゆっくりと口を開いた。
「貴女はまだ子供がいないから分からないのよ。子供は地域が育てるものなの。歩いていれば、誰かしら声をかけてもらえる。一見、不自由に見えても、長い目で見れば分からない。人は運動会をするために生まれてきたわけじゃない。走ってばかりだと、疲れるでしょ」
立花さんはどこか打ちのめされたような顔をしていた。毎日を短距離走のように走り続けていた彼女にとって、どこか思うところがあったのだろう。彼女は無言で立ち上がった。彼女の生き方を否定された苛立ちが、置き去りにされた椅子に残されていた。
「行くよ、水瀬。 デートの時間に遅れるぞ」
俺は慌てて立ち上がり、葉月さんに軽く会釈をした。彼女はやれやれと言った様子で、微かに笑みを浮かべた。俺は彼女の豊満な胸に飛び込み、そのままずっと包まれていたい衝動に襲われた。「大丈夫よ、すぐに良くなるからね」など優しい言葉をかけてもらいながら、頭を撫でてもらいたかった。親父が他の女の人と一緒に家を出て行って、母さんが自分のことで精一杯になって以来、ずっとそんな幻想に取りつかれていた。母さんにもお兄さんにも言ったことがない。言ったところで「精神科を受診しろ」と言われるだけだろう。何かにつけて精神科の受診を勧めてくる家族のことを思い出した。彼らを頭から追い出し、立花さんの跡を追った。彼女は既に歩を進め、地下への階段を降りようとしていた。俺は走った。そうしないと、ぱっくりと口を開けた深淵に飲み込まれて、永遠に立花さんどころか、現世と別れを告げてしまう気がした。
地下二階には、不気味な光景が広がっていた。ぼんやりと蛍光灯に照らされる古びた廊下は、まるでお化け屋敷のようだ。小学校に到着した時に降り始めた雨は、次第に強さを増して来たようだ。窓ガラスに叩きつけられる雨音を聞きながら、そんなことを考えていると、 背後から視線を感じた。俺は勢いよく振り返った。
「どうしたの?」
「なんか、誰かに見られてる気がするんです」
「生徒だろ。さ、行くよ」
ずんずん進んでいく彼女についていくも、やはり違和感は消えない。
「俺、ちょっと見てきます」
正体を確かめたくて、俺は引き止める彼女を振り払い、元来た階段へ走った。そこには冷ややかな目をした女の子が立っていた。
「お兄ちゃん、そこで何してるの?」
「お化け退治だよ」
怪訝そうな顔をする彼女に、俺はネックホルダーを見せた。それは彼女をいくぶんか安心させたようだ。葉月さんが言っていたことは本当だった。このネックホルダーがなければ、随分面倒なことになっていたに違いない。
「銀行から来たんだ。上司と来たけど、はぐれちゃったんだ」
「そう。あんまりこの辺、うろつかないほうがいいよ」
彼女はご丁寧にも忠告を与えてくれた。先ほどの凍てつくような視線は、いくぶんか和らいでいた。口元には笑みすら浮かんでいる。しかし目は全く笑っていない。完全に信用を寄せていない者から向けられる、典型的な表情だ。 彼女はまた階段を上がっていった。何かが引っかかる。違和感の正体を確かめようと小さくなる背中を見つめていると、背中に手が置かれた。
「誰か死んだんですか?」
「ここは目黒だよ。コロンビアじゃない」
彼女の鋭い目つきは「葬式でもない限り、私が定時に退勤しないとでも?」と言いたげだった。その声は冷ややかで、まさに人を始末してきたような色を帯びていた。
「小学校に行くんだよ」
彼女はため息まじりに言った。黒く、長い髪をかきあげる。この場面だけ切り取れば、悩めるクールビューティ、セクシーな女上司だ。しかし切り抜きが真実であったことなどない。俺も始め、彼女が指導担当者と聞いた時、電話帳の写真を見て胸が躍った。年下の女の子が好みだったけど、年上も悪くないんじゃないか、とさえ思った しかし前場所の同期から彼女の評判を聞いたところ「上司としては最高だけど、絶対に恋人にしたくないタイプ」と言われた意味も理解した。仕事が好きすぎるのだ。そんな彼女が小学校に行くなんて、俺は二十の意味で理解に苦しんだ。
「え。お子さんいたんですか」
「そんなに驚かなくても。私はもう二十七歳だから、子供がいてもおかしくないでしょう。違うよ。バーター取引を持ちかけられたんだ」
「バーター取引?」
「預金付け替えの話。うちの大口預金先に、渋谷区役所があるだろ。あそこの銀行担当者から、小学校の怪奇事件を解決しろって言われたんだ。そうすれば再検討してくれるみたい」
「へー。でもいいじゃないですか。付け替えされたって」
「バカ言え。金だけじゃない。うちの大口取引先もあそこでしょ。運用実績が下がるんだよ」
「あ、そっか。預金担保にして、枠ギリギリまで運用させてるんでしたね」
俺の言葉は、彼女の頭上を通り過ぎて行った。彼女は百六十近く身長があるため、俺と十センチほどしか変わらないが。てきぱきと退勤の準備を進める彼女を見つめた。無駄のない動き、しなやかな身体つき。それはサバンナで生きる動物を思わせた。ゆっくり動くと死んでしまう類の、誇り高い肉食動物だ。
「じゃあね。お疲れ様」
彼女は立ち上がり、課長の席を見た。挨拶しようとしたのだろう。しかし支店長と臨時の会議をしており、不在だった。
「課長には先に帰って伝えといて」
「あの」
俺は声を上げた。どうしてそんなことをしたのか、今でも分からない。
「俺もついて行っていいですか?」
彼女は珍しい虫を見るような目つきで俺を見た。
「なんで? 小学生もナンパするつもり?」
「違います。年下は好きですが、犯罪者になるつもりはありません」
彼女の目に、俺はどんな獣に見えているのだろうか。この傾向は彼女のように女きょうだいに囲まれ、進学校の女子校で育った者によく見られる。男はバカな小学生のままで記憶が止まっているのだ。あながち間違いでもない。大人になるにつれ、モラルや外見で取り繕うことがうまくなっただけだ。
「僕、昔その小学校に通ってたんですよ。一年生までですけどね」
「へえ、都会っ子だね。横浜出身じゃなかった?」
ま、横浜も都会だけど。自虐気味に付け加えることを忘れない、会津若松出身の彼女だ。
「親父がまだいた頃、あの辺に住んでたんです」
沈黙。彼女の好きなところを挙げるとすれば、こちらが話したくないことを一切聞いてこないところだろう。営業を長年やっている人間は、この手のスキルを身につける。相手の心の動きを読み、この先は踏み込んではいけないとブレーキをかけることができる。
「分かった。じゃあ道案内を頼もうかな。終わったら渋谷で美味しいものでも食べよう」
「無理ですね。俺、今日デートあるんで」
「はいはい。じゃあ私はサウナにでも行くから。ご自由に」
俺は締め業務の引き継ぎを、別の課の一つ上の先輩に頼んだ。俺の店に俺の同期はいない 。お客様サービス課にはいるけど、ここ法人営業課にはいない。研修中に考えが変わって、銀行に入ることを辞めてしまったらしい。彼女は大学生の頃に起こしたビジネスで成功し、ちょっとしたインフルエンサーになっている。俺はその様子を、よせば良いのについSNSで見てしまう。その度に嫌な気持ちになる。自分の判断が正しかったのかそうでないのか、分からなくさせるからだ。
店を出た。六月の夕方にしては、奇妙なほど温かかった。風が強く吹いている。その強さは少しすれば暴風に変わり、雨をもたらすらしい。そろそろ梅雨入りすると食堂のテレビが言っていた。十七時に出ることなんてあまりないから、外は奇妙に明るく感じた。 俺たちが山手線に乗って 渋谷で降りた。小学校に 到着したとき、ちょうど雨が降ってきた。 この時は幸運だと思った。 しかし そんなことで喜んでいる場合ではなかった。おそらくここで運を使い果たしたのだ。その日一日分の運を。
校門に近づくと、守衛さんが訝しげな顔で近づいてきた。用件を告げると、無線で何かをやり取りし始めた。待っている間に、校門から小学生が二人出てきた。どちらも後ろからそれぞれの親がついてきている。「お迎え、大変だよね」「あの事件のせいで」と話している。仕事の合間に迎えに来たようで、うんざりした顔をしていた。子供たちは対照的に、嬉しそうに校門を駆けていく。彼らの背中を見送っていると、守衛さんに話しかけられた。
「PTA室に行ってください。入ってすぐ右の校舎、一階職員室の向かいです」
小学校は校舎が二つ、 プールが一つという小ぶりなサイズだった。運動場は人工芝で、辺りは低層マンションで囲まれている。まるで箱庭のようだ。綺麗にラッピングされて、箱に入れられて、百貨店に並ぶのだろう。都会ではこれが限界なのかもしれない。しかし小学生、彼らにとってはこの世界が全てなのだ。
PTA室にはすぐ到着した。無機質なパイプ椅子とテーブルが並ぶ、質素な部屋だ。小学校のマークが描かれたTシャツや、行事で使うであろうダンボールが山積みになっていた。壁には歴代PTA会長の写真が並んでいる。俺たちの姿を見て、テーブルで何か作業をしていた女性が微笑んだ。
「あぁ、銀行の方ね」
感じの良い女性だった。ファッションモデルとまではいかないけれど、年齢の割に華がある。ふんわりと広がるスカートに、薄手のニットのカーディガンを着ている。ていねいにカールされた髪が揺れて、小ぶりなネックレスが光った。首には『広尾小学校PTA葉月』いうネックホルダーもかかっていた。
「困ったことになってるのよ」
彼女ほど、本当に困ったような声を出せる人種も難しいだろう。俺は彼女の発言にあわせて上下する、なだらかな双丘を見つめていた。
「給食室の廊下に、お化けが出るのよ」
「お化けね」
立花さんは明らかに馬鹿にしたような声を出した。葉月さんは少なからずその態度が気に障ったようだが、気にしないふりをして続けた。
「授業が終わる十五時までは学校側の問題なんだけど、放課後は私たちPTAの管轄なの」
その声には何処か誇らしげな色が窺えた。
「校舎前に自転車は一台置かれていないでしょ? 歩道橋の下にも。今まではそこに生徒達が自転車を止めていたのよ。私たちPTA、校外委員がパトロールしたお陰なのよ」
彼女は段ボールの中から、ネックホルダーを取り出した。『▼▼小学校PTA』と書かれた紙も入っている。彼女はそれを見せた。桃色とラメのグラデーションがかかったジェルネイルが、美しく輝いていた。
「そして今日からあなたたちも、そのPTAの一員となってもらうってわけ」
綺麗な指先が、ネックホルダーをこちらによこした。とがった爪は凶器にも見える。
「名前を書いてもらえる? 首からかければ、次から守衛さんに止められずに入れるわ」
「次から?」
机の上に転がっていた油性ペンで名前を書き終えた立花さんが、腹立たしげに吐き捨てた。今にも机を叩きそうだ。どうやら彼女の我慢の限界を超えてしまったらしい。
「今日で解決してみせますよ。私たちはそんな暇はない。学校の前に止められた自転車? どうでもいい。自転車を使えば早く学校に来れるなら、その方がいいでしょう。利便性を考えるべきです」
沈黙。葉月さんは穏やかに微笑んだ この手の非難には慣れているのだろう。猛獣を手なずけるように、ゆっくりと口を開いた。
「貴女はまだ子供がいないから分からないのよ。子供は地域が育てるものなの。歩いていれば、誰かしら声をかけてもらえる。一見、不自由に見えても、長い目で見れば分からない。人は運動会をするために生まれてきたわけじゃない。走ってばかりだと、疲れるでしょ」
立花さんはどこか打ちのめされたような顔をしていた。毎日を短距離走のように走り続けていた彼女にとって、どこか思うところがあったのだろう。彼女は無言で立ち上がった。彼女の生き方を否定された苛立ちが、置き去りにされた椅子に残されていた。
「行くよ、水瀬。 デートの時間に遅れるぞ」
俺は慌てて立ち上がり、葉月さんに軽く会釈をした。彼女はやれやれと言った様子で、微かに笑みを浮かべた。俺は彼女の豊満な胸に飛び込み、そのままずっと包まれていたい衝動に襲われた。「大丈夫よ、すぐに良くなるからね」など優しい言葉をかけてもらいながら、頭を撫でてもらいたかった。親父が他の女の人と一緒に家を出て行って、母さんが自分のことで精一杯になって以来、ずっとそんな幻想に取りつかれていた。母さんにもお兄さんにも言ったことがない。言ったところで「精神科を受診しろ」と言われるだけだろう。何かにつけて精神科の受診を勧めてくる家族のことを思い出した。彼らを頭から追い出し、立花さんの跡を追った。彼女は既に歩を進め、地下への階段を降りようとしていた。俺は走った。そうしないと、ぱっくりと口を開けた深淵に飲み込まれて、永遠に立花さんどころか、現世と別れを告げてしまう気がした。
地下二階には、不気味な光景が広がっていた。ぼんやりと蛍光灯に照らされる古びた廊下は、まるでお化け屋敷のようだ。小学校に到着した時に降り始めた雨は、次第に強さを増して来たようだ。窓ガラスに叩きつけられる雨音を聞きながら、そんなことを考えていると、 背後から視線を感じた。俺は勢いよく振り返った。
「どうしたの?」
「なんか、誰かに見られてる気がするんです」
「生徒だろ。さ、行くよ」
ずんずん進んでいく彼女についていくも、やはり違和感は消えない。
「俺、ちょっと見てきます」
正体を確かめたくて、俺は引き止める彼女を振り払い、元来た階段へ走った。そこには冷ややかな目をした女の子が立っていた。
「お兄ちゃん、そこで何してるの?」
「お化け退治だよ」
怪訝そうな顔をする彼女に、俺はネックホルダーを見せた。それは彼女をいくぶんか安心させたようだ。葉月さんが言っていたことは本当だった。このネックホルダーがなければ、随分面倒なことになっていたに違いない。
「銀行から来たんだ。上司と来たけど、はぐれちゃったんだ」
「そう。あんまりこの辺、うろつかないほうがいいよ」
彼女はご丁寧にも忠告を与えてくれた。先ほどの凍てつくような視線は、いくぶんか和らいでいた。口元には笑みすら浮かんでいる。しかし目は全く笑っていない。完全に信用を寄せていない者から向けられる、典型的な表情だ。 彼女はまた階段を上がっていった。何かが引っかかる。違和感の正体を確かめようと小さくなる背中を見つめていると、背中に手が置かれた。
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