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交わす言葉、ひと時の幸福
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走り続けるうち、暮里の呼吸は段々と荒くなっていった。引き裂かれた着物が巻き付けられた横腹は赤く、先ほどから鮮血の色に染まっている。
少しでも速く、少しでも遠くへ。その気持ちは二人同じであったが、このままではいけないと善之介は決断し、不意にその足を止めた。
「善之介?どうしました?」
「済まない……足が痛くて」
優しい暮里が彼自身の為に休むつもりなど毛頭ないことを見越しての嘘。けれどその虚実は簡単に見破られ、暮里は困ったように微笑むと、素直にその場で腰を落とした。
「……気を遣わせてしまいましたね。ありがとう善之介さん」
「構わない。お互い様だろう」
善之介は少し躊躇った後、おずおずと慣れぬ仕草で彼に身を寄せる。暮里は優しく目を細め、傷が痛むのも構わずその体を抱き寄せた。
「暮里、……俺」
「黙って」
ぴしゃりと打つその強気な口と裏腹に、彼の腕は血の気が引き僅かに震えていて、心細げですらある。
善之介は、つい先ほどまで違う男に犯されていた体のことも忘れ、暮里をきつく抱き返した。とくん、とくん。命の音がする。いずれ消え失せてしまう儚い呼吸を耳に刻み付けるように、暫し目を閉じる。まだ生きてる。そのことが酷く愛しい。ひどく、かなしい。
再び顔を上げると、自分を見詰める黒曜の瞳と視線が絡み合った。口を開きかけて、やめる。ここで下らない戯言をのたまうほど善之介も野暮ではないつもりだ。
「善之介、一度しか言いません。一度しか、きっと言えません」
暮里はそう言って、ふ、と息を吐く。
彼らしくもなく口籠り、道化てばかりだったその顔に真剣な表情を浮かべた。
何を言われるのか、鈍感な善之介にだってもう薄々は解っている。こんな差し迫った状況だというのに、それを思うとドキドキと胸が高鳴った。
「……ああ。言ってくれ」
「善之介」
噛み締めるように暮里は名を呼んだ。甘く掠れた声音だった。
そう長い間離れていたわけでもないのに、幾星霜、気の遠くなるような年月を越えてここに辿り着いたような気がした。
乾き切らない血に汚れた細く白い指が善之介の頬を撫で、こつんと額と額が当たる。至近距離で見詰め合い、呼吸は今にも重なりそうで、息苦しいのに心地好い。こんな気持ちは初めてだ。
「善之介、僕は貴方が好きです」
「ああ」
「貴方を、愛しています」
「……ああ」
「初めて出会った時からずっと、貴方に惹かれていた。恋焦がれていた。堪らなく、愛おしかった」
堪え切れない想いを吐き出すように暮里は繰り返す。愛してる、愛してる、愛してる。鼻先が擦り合い、恥ずかしさとくすぐったさに微笑む。
暮里も目を細めて、一度だけ唇を重ねた。柔らかい、優しい、鳥の羽のように触れるだけの口付けだった。
その余韻を掻き消したくなくて、善之介は口付けを返すのをやめた。それよりも紡がれる言霊を、その散り急ぐ言の葉を、一つでも多くこの耳に、心に、魂に、刻み付けたかった。
「愛しています。善之介、愛しています。忘れないで、どうか。この先何があっても……それだけは、僕の誠だったと。この虚ろに移ろう数多の人格の中で、嘘だらけの人生の最後に、貴方と紡いだあの時間、この想い、それだけは確かに、嘘ではなかったと」
「信じいてる。いつだって、今だって、俺はおまえを信じているよ、暮里」
確かめ合ったのはそれだけ。それだけで、二人には十分だった。
もう一度立ち上がり手を取って、月明かりの道を進んでいく。
少し離れた場所から狼の遠吠えを聴いた。獣に似せたそれが忍同士の連絡手段であることを、善之介は巴丸から聞いた覚えがある。ぞっとして息を潜め、二人は短い目配せを交わした。
「この辺りには手が回っていますね。見付かるのは時間の問題……道は悪くなりますが、雨水イ号に向かいましょう」
「……うす……?それはなんだ?どこの話だ?」
「失礼。忘れてください」
失言とばかりに暮里は口元を一度押さえた。恐らくは忍の内で使う暗号の一種なのだろうと察して、善之介は苦い笑いを漏らす。この窮状に際して咄嗟にそんな単語が出てしまうほど、彼は一般的な町人の生活とは程遠い場所で生きていたのだと、解ってしまったから。
「道が悪い、つまり……崖の方面か?」
「ええ、察しが良くて助かります」
ここから国外に抜ける方法には幾通りもあるが、二人が安全な街道を通っていくことは不可能である。その中でも一番険しい道を使うというのが暮里の判断であった。
無論、彼等が追手を撒く為に容易ではない道を使うことは、追う側も想像に易かろう。それでも尚、その道を選ぶのには理由があった。
今の暮里では多勢の相手が出来ない。己の手で善之介を守るには、取り囲まれる可能性を極力排除せねばならなかった。
その点、狭く危険な道であれば対峙する敵の数は限られてくる。暮里の首を持ち帰らねばならない、という制約がある以上――下弦のような馬鹿が二人といなければの話だが――遺体回収が難しくなる谷底へ突き落される可能性も低いだろう。
それらを加味した結果、一番危険な道こそが自分達にとって一番安全な道だ、というのが暮里の出した答えであった。
そんな考えを一言一句まで理解したわけではないが、善之介は素直に従う。
信じるといったのだ。彼の思慮も、判断も、ここまで来たからには信じようと思った。
握り締めた手から伝わる緊張。汗ばみ、けれど冷えたその指先が、彼の傷が決して浅いものではないことを伝えてくる。
それでもあえて慮るようなことはしなかった。
それよりも彼の、煌々と輝く命の灯をこの目に焼き付ける。今、この瞬間を生きる。それだけが二人にとってすべてだった。結果、落ち延びられれば良し。叶わずとも全力で生きたこの日のことを後悔だけはしない。
それがたった一日限りのことだったとしても――二人は掴んだのだ。自分の望んだ人生を、生きたのだ。それ以上の幸いなど、この息苦しい時代の何処にか在らん。
「足元に気を付けてくださいね」
自分の方が余程ふらふらとしているくせに、暮里は善之介の身を案じ守りながら先へ進む。やがて辿り着いた崖沿いの、人間二人がようやく擦れ違えるような細道を善之介を前にして歩き出した。
崖の下は深い森になっており、遠くで水の音がする。近くに滝があるのかもしれない。飛び込みは嫌いではなかったが、ここから落ちれば流石の己も命はないだろうな、と考えて善之介はまたぞっと肝を冷やした。
背後を歩く暮里の呼吸はさらに荒くなっていく。濃厚な血の臭いがつんと鼻をついた。足を上げるのも億劫になってきているのだろう、時折、ずるりと足裏を引き摺っている様子もある。
「なあ、暮里」
「……なんですか、善之介さん?」
「俺、夢を見たんだ」
唐突にそう言うと、暮里は一度きょとんと不思議そうな顔をして、それから笑った。善之介が彼の気を紛らわせようとしているのに気付いたのだろう。
「どんな夢です?聞かせてください」
問われて、善之介は口を開く。楽しそうに声を弾ませて、まるでこれからちょっと遊びに行く道中のように。
「夢の中で、俺達はこんなしみったれた小さい国ではなくて、綺麗な外国の街に住んでいるんだ。夜でも灯りがたくさんあって、国中がきらきらしてて……右を見ても左を見ても、城より立派な建物が山ほど建っている」
「なるほど。浅学な貴方の夢にしては面白い」
「俺達は根無し草の旅人で、誰とでも話して、誰とでも遊んで……おまえはきれいな女達から黄色い悲鳴を上げられる」
「ふふ……良いですねえ。今の僕は、どちらかというと男にばかりちやほやとされていますから。たまには女性に持て囃されるのも悪くない。で、それを見て、貴方は妬いたりしないのですか?」
「もちろん、俺も負けず劣らず女をとっかえひっかえするのさ」
「へえ?」
一瞬、暮里の声音に不穏なものが混じる。どうやらやきもち妬きなのは彼の方らしい。夢の中の話だというのに、握る手に軽く爪を立てられて善之介はぎょっとした。これはいかん話題を誤ったと、慌ててもごもご付け加える。
「いや、まあ、そうはいっても、どんな女よりおまえの方が美しい」
途端、ぷっ、と噴き出し、傷が痛んだのか暮里は足を止めた。
「っふ、ふは、あはははっ、笑わせないでください、善之介。いたたっ……」
「済まない!そういうつもりでは……」
「ふふ……本当に貴方は面白い。貴方といるとまったく飽きる気がしませんね」
「……ここまでして、そう簡単に飽きられたら困る」
「そうですね、御尤も。大丈夫、きっと貴方に飽きることなどありません。未来永劫ね」
伸ばされた手が一度善之介の頬を撫でる。
妙に照れ臭くなって、善之介は目元を僅かに朱に染めた。そして思う。――ああ、俺達は罪深い。こんなに切羽詰まった状況でも、こいつといるだけでどうしてこんなに楽しいんだろう。
一歩踏み外せば奈落の底。そんな場所で、二人は手を繋いだまま笑い合う。その為に踏み台にされた命のことなんて、今は考えもせずに。
「この世界のどこかに、ああいう世界があるんだろうな。探しに行こう。俺達はどこにでも行けるし、どこまでだって行ける」
「……それは、夢のようですね」
「そうだな。夢だからな」
ぎゅ、と。握りあう指にまた力が籠る。迫り来る死の気配さえ薄らぐほど、善之介は明朗に快活に笑った。まるで今この時も夢を見ているみたいに。
「行こう、暮里」
「はい、いきましょう、善之介さん」
一歩踏み出す。
行きましょう――生きましょう。暮里はそう言ったはずだった。
それが普段の暮里ならば、ここに誰一人味方がいなかったならば、善之介という人間が傍らにいなければ、もしかしたら防げたのかもしれない。張り詰めた気の一瞬の緩みが、反射を遅らせた。
ズドン。
地響きと共に、足元が大きく揺れた。否、崩れた。朦朧と霞む視界、砂煙、傾ぐ体。
「っは」
冷汗が流れる。踏み締めるべき地を失って谷底へ落ちかけた暮里は、青褪めたまま姿勢を正すと善之介を背面に庇い立つ。
「とうとう来ましたね。……善之介、僕は追手を片付けてから行きます。貴方は先に」
「何言っているんだ、そんな傷でまともにやり合えるわけがないだろう!おまえが戦うなら、俺も戦う!」
「足手纏いだと言っているんです、お馬鹿さん。すぐに追い駆けますから」
「馬鹿でも頓馬でも好きなだけ言うがいい、それが嘘だということくらい俺にだって解る!」
言い争っている間にも、忍装束の黒い人影はじわりじわりと二人に迫り来ていた。
爆発物を手に崖上から狙い付けるもの、絶壁に蜘蛛のように張り付き這い寄る者、刀を構え二人の後方からにじり寄る者。恐らくは下忍、中忍の内、こういった悪所での戦いに能力特化した者を集めたのだろう。
とはいえ所詮は中忍以下、暮里にとっては恐るるに足る手合いではなかった。――この傷さえなければ。
幾ら上忍、幾ら暮里といえどここまで血を失ってしまってはろくな動きなど出来ようはずもない。そして善之介もまた無傷ではないのだった。乱暴に扱われた体の内は傷付いてじくじくと疼き、時折酷く痛みを発しては、予想に反して彼の動きを阻害する。
だからどうせ、ここから逃げ出したとしても暮里が彼等を食い止められるはずもなく、自分が彼等から逃げ切る未来もないのだ。
ならば共に、揃ってここで果てたい。彼のいない世界で一分一秒長く生きたとて、なんになろう。それに二人でなら、もしかしたらこの場を切り抜けられるかもしれない。これもまた一つの、命懸けの大博打だ。
それが善之介の選んだ道だった。
「まったく、貴方という人は」
「おまえはそんな俺が好きだろう」
顔を見合わせ、少しだけ笑う。腰のものに手を掛けて、すらりと引き抜いた。二本の刀が月明かりを受け、ぎらぎらと怪しく光る。互いに背合わせに立ち、腰を落として構えた。そうしているだけで、死ぬことへの恐怖は極限まで薄らぎ、妙な高揚感が腹の底を支配する。
そうして二人、追手の忍達へと挑発的に手を伸べた。
「さあ、一指し舞おうじゃありませんか」
弾かれ飛び掛かってくる男達に向けて暮里の棒手裏剣が放たれる。――一瞬後、そこは凄惨な戦場と化していた。
少しでも速く、少しでも遠くへ。その気持ちは二人同じであったが、このままではいけないと善之介は決断し、不意にその足を止めた。
「善之介?どうしました?」
「済まない……足が痛くて」
優しい暮里が彼自身の為に休むつもりなど毛頭ないことを見越しての嘘。けれどその虚実は簡単に見破られ、暮里は困ったように微笑むと、素直にその場で腰を落とした。
「……気を遣わせてしまいましたね。ありがとう善之介さん」
「構わない。お互い様だろう」
善之介は少し躊躇った後、おずおずと慣れぬ仕草で彼に身を寄せる。暮里は優しく目を細め、傷が痛むのも構わずその体を抱き寄せた。
「暮里、……俺」
「黙って」
ぴしゃりと打つその強気な口と裏腹に、彼の腕は血の気が引き僅かに震えていて、心細げですらある。
善之介は、つい先ほどまで違う男に犯されていた体のことも忘れ、暮里をきつく抱き返した。とくん、とくん。命の音がする。いずれ消え失せてしまう儚い呼吸を耳に刻み付けるように、暫し目を閉じる。まだ生きてる。そのことが酷く愛しい。ひどく、かなしい。
再び顔を上げると、自分を見詰める黒曜の瞳と視線が絡み合った。口を開きかけて、やめる。ここで下らない戯言をのたまうほど善之介も野暮ではないつもりだ。
「善之介、一度しか言いません。一度しか、きっと言えません」
暮里はそう言って、ふ、と息を吐く。
彼らしくもなく口籠り、道化てばかりだったその顔に真剣な表情を浮かべた。
何を言われるのか、鈍感な善之介にだってもう薄々は解っている。こんな差し迫った状況だというのに、それを思うとドキドキと胸が高鳴った。
「……ああ。言ってくれ」
「善之介」
噛み締めるように暮里は名を呼んだ。甘く掠れた声音だった。
そう長い間離れていたわけでもないのに、幾星霜、気の遠くなるような年月を越えてここに辿り着いたような気がした。
乾き切らない血に汚れた細く白い指が善之介の頬を撫で、こつんと額と額が当たる。至近距離で見詰め合い、呼吸は今にも重なりそうで、息苦しいのに心地好い。こんな気持ちは初めてだ。
「善之介、僕は貴方が好きです」
「ああ」
「貴方を、愛しています」
「……ああ」
「初めて出会った時からずっと、貴方に惹かれていた。恋焦がれていた。堪らなく、愛おしかった」
堪え切れない想いを吐き出すように暮里は繰り返す。愛してる、愛してる、愛してる。鼻先が擦り合い、恥ずかしさとくすぐったさに微笑む。
暮里も目を細めて、一度だけ唇を重ねた。柔らかい、優しい、鳥の羽のように触れるだけの口付けだった。
その余韻を掻き消したくなくて、善之介は口付けを返すのをやめた。それよりも紡がれる言霊を、その散り急ぐ言の葉を、一つでも多くこの耳に、心に、魂に、刻み付けたかった。
「愛しています。善之介、愛しています。忘れないで、どうか。この先何があっても……それだけは、僕の誠だったと。この虚ろに移ろう数多の人格の中で、嘘だらけの人生の最後に、貴方と紡いだあの時間、この想い、それだけは確かに、嘘ではなかったと」
「信じいてる。いつだって、今だって、俺はおまえを信じているよ、暮里」
確かめ合ったのはそれだけ。それだけで、二人には十分だった。
もう一度立ち上がり手を取って、月明かりの道を進んでいく。
少し離れた場所から狼の遠吠えを聴いた。獣に似せたそれが忍同士の連絡手段であることを、善之介は巴丸から聞いた覚えがある。ぞっとして息を潜め、二人は短い目配せを交わした。
「この辺りには手が回っていますね。見付かるのは時間の問題……道は悪くなりますが、雨水イ号に向かいましょう」
「……うす……?それはなんだ?どこの話だ?」
「失礼。忘れてください」
失言とばかりに暮里は口元を一度押さえた。恐らくは忍の内で使う暗号の一種なのだろうと察して、善之介は苦い笑いを漏らす。この窮状に際して咄嗟にそんな単語が出てしまうほど、彼は一般的な町人の生活とは程遠い場所で生きていたのだと、解ってしまったから。
「道が悪い、つまり……崖の方面か?」
「ええ、察しが良くて助かります」
ここから国外に抜ける方法には幾通りもあるが、二人が安全な街道を通っていくことは不可能である。その中でも一番険しい道を使うというのが暮里の判断であった。
無論、彼等が追手を撒く為に容易ではない道を使うことは、追う側も想像に易かろう。それでも尚、その道を選ぶのには理由があった。
今の暮里では多勢の相手が出来ない。己の手で善之介を守るには、取り囲まれる可能性を極力排除せねばならなかった。
その点、狭く危険な道であれば対峙する敵の数は限られてくる。暮里の首を持ち帰らねばならない、という制約がある以上――下弦のような馬鹿が二人といなければの話だが――遺体回収が難しくなる谷底へ突き落される可能性も低いだろう。
それらを加味した結果、一番危険な道こそが自分達にとって一番安全な道だ、というのが暮里の出した答えであった。
そんな考えを一言一句まで理解したわけではないが、善之介は素直に従う。
信じるといったのだ。彼の思慮も、判断も、ここまで来たからには信じようと思った。
握り締めた手から伝わる緊張。汗ばみ、けれど冷えたその指先が、彼の傷が決して浅いものではないことを伝えてくる。
それでもあえて慮るようなことはしなかった。
それよりも彼の、煌々と輝く命の灯をこの目に焼き付ける。今、この瞬間を生きる。それだけが二人にとってすべてだった。結果、落ち延びられれば良し。叶わずとも全力で生きたこの日のことを後悔だけはしない。
それがたった一日限りのことだったとしても――二人は掴んだのだ。自分の望んだ人生を、生きたのだ。それ以上の幸いなど、この息苦しい時代の何処にか在らん。
「足元に気を付けてくださいね」
自分の方が余程ふらふらとしているくせに、暮里は善之介の身を案じ守りながら先へ進む。やがて辿り着いた崖沿いの、人間二人がようやく擦れ違えるような細道を善之介を前にして歩き出した。
崖の下は深い森になっており、遠くで水の音がする。近くに滝があるのかもしれない。飛び込みは嫌いではなかったが、ここから落ちれば流石の己も命はないだろうな、と考えて善之介はまたぞっと肝を冷やした。
背後を歩く暮里の呼吸はさらに荒くなっていく。濃厚な血の臭いがつんと鼻をついた。足を上げるのも億劫になってきているのだろう、時折、ずるりと足裏を引き摺っている様子もある。
「なあ、暮里」
「……なんですか、善之介さん?」
「俺、夢を見たんだ」
唐突にそう言うと、暮里は一度きょとんと不思議そうな顔をして、それから笑った。善之介が彼の気を紛らわせようとしているのに気付いたのだろう。
「どんな夢です?聞かせてください」
問われて、善之介は口を開く。楽しそうに声を弾ませて、まるでこれからちょっと遊びに行く道中のように。
「夢の中で、俺達はこんなしみったれた小さい国ではなくて、綺麗な外国の街に住んでいるんだ。夜でも灯りがたくさんあって、国中がきらきらしてて……右を見ても左を見ても、城より立派な建物が山ほど建っている」
「なるほど。浅学な貴方の夢にしては面白い」
「俺達は根無し草の旅人で、誰とでも話して、誰とでも遊んで……おまえはきれいな女達から黄色い悲鳴を上げられる」
「ふふ……良いですねえ。今の僕は、どちらかというと男にばかりちやほやとされていますから。たまには女性に持て囃されるのも悪くない。で、それを見て、貴方は妬いたりしないのですか?」
「もちろん、俺も負けず劣らず女をとっかえひっかえするのさ」
「へえ?」
一瞬、暮里の声音に不穏なものが混じる。どうやらやきもち妬きなのは彼の方らしい。夢の中の話だというのに、握る手に軽く爪を立てられて善之介はぎょっとした。これはいかん話題を誤ったと、慌ててもごもご付け加える。
「いや、まあ、そうはいっても、どんな女よりおまえの方が美しい」
途端、ぷっ、と噴き出し、傷が痛んだのか暮里は足を止めた。
「っふ、ふは、あはははっ、笑わせないでください、善之介。いたたっ……」
「済まない!そういうつもりでは……」
「ふふ……本当に貴方は面白い。貴方といるとまったく飽きる気がしませんね」
「……ここまでして、そう簡単に飽きられたら困る」
「そうですね、御尤も。大丈夫、きっと貴方に飽きることなどありません。未来永劫ね」
伸ばされた手が一度善之介の頬を撫でる。
妙に照れ臭くなって、善之介は目元を僅かに朱に染めた。そして思う。――ああ、俺達は罪深い。こんなに切羽詰まった状況でも、こいつといるだけでどうしてこんなに楽しいんだろう。
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「……それは、夢のようですね」
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ぎゅ、と。握りあう指にまた力が籠る。迫り来る死の気配さえ薄らぐほど、善之介は明朗に快活に笑った。まるで今この時も夢を見ているみたいに。
「行こう、暮里」
「はい、いきましょう、善之介さん」
一歩踏み出す。
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ズドン。
地響きと共に、足元が大きく揺れた。否、崩れた。朦朧と霞む視界、砂煙、傾ぐ体。
「っは」
冷汗が流れる。踏み締めるべき地を失って谷底へ落ちかけた暮里は、青褪めたまま姿勢を正すと善之介を背面に庇い立つ。
「とうとう来ましたね。……善之介、僕は追手を片付けてから行きます。貴方は先に」
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「足手纏いだと言っているんです、お馬鹿さん。すぐに追い駆けますから」
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幾ら上忍、幾ら暮里といえどここまで血を失ってしまってはろくな動きなど出来ようはずもない。そして善之介もまた無傷ではないのだった。乱暴に扱われた体の内は傷付いてじくじくと疼き、時折酷く痛みを発しては、予想に反して彼の動きを阻害する。
だからどうせ、ここから逃げ出したとしても暮里が彼等を食い止められるはずもなく、自分が彼等から逃げ切る未来もないのだ。
ならば共に、揃ってここで果てたい。彼のいない世界で一分一秒長く生きたとて、なんになろう。それに二人でなら、もしかしたらこの場を切り抜けられるかもしれない。これもまた一つの、命懸けの大博打だ。
それが善之介の選んだ道だった。
「まったく、貴方という人は」
「おまえはそんな俺が好きだろう」
顔を見合わせ、少しだけ笑う。腰のものに手を掛けて、すらりと引き抜いた。二本の刀が月明かりを受け、ぎらぎらと怪しく光る。互いに背合わせに立ち、腰を落として構えた。そうしているだけで、死ぬことへの恐怖は極限まで薄らぎ、妙な高揚感が腹の底を支配する。
そうして二人、追手の忍達へと挑発的に手を伸べた。
「さあ、一指し舞おうじゃありませんか」
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