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忍、巴丸
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”巴丸”は忍びの者である。
代々伊示地の家に仕え早七七年。先代より”巴丸”の名を賜った三代目”巴丸”が善之介の専属として父から下げ渡されたのは、善之介が十五で元服を迎えた日のことだった。
「生きることは遊ぶこと」と豪語する一風変わったその忍は、引き合わされたまだ幼さの残る”主君”を甚く気に入り、先代同様に忠誠を約束した。それからというもの主従というよりは友、友というよりは兄、時には弟のように善之介の側に寄り添い、生活のほとんどを共にしている。
だからその日も、巴丸だけは善之介がどこへ行って誰に会っているのか、何をしているのかを知っていたし、その相手の正体も本当はずっと前から知っていた。
だって巴丸は”忍”であったから。
主君である善之介の身を守ることが何よりも優先で、彼に近付く怪しい人間を放っておくわけにはいかなかった。
故に、二人の出会いからすぐ調べはついている。”忍”の情報網は伊達ではない。彼がどこから来て、そして何の目的であの場所にひと時根を下ろしたのか。それは直ぐに知れた。
結果、”暮里”は善之介にとって危険な人物ではないと知った。だから巴丸は二人の交流を見守ることにしたのだ――いずれ何が起こるかも、本当は気付いていたけれど。“暮里”の元に通う善之介があんまりにも嬉しそうで、楽しそうで。止めることなど到底、出来なかった。
「巴丸!巴丸はどこだ!」
屋敷の一室に飛び込んできた善之介の姿に、巴丸は小さく溜息を吐いた。善之介のその様子を見れば、とうとうその時が来てしまったのだと知れる。
登っていた木の上から、とん、と軽やかに地面に降り立つと、巴丸はいつも通り人懐こい笑みを顔に張り付かせ、善之介の元に駆け寄った。
「やあやあやあ、ごきげんよう我が主君!そんな怖~い顔をして、一体全体どうしたのかね?」
子供のように無邪気で、それでいてどこか艶やかな微笑み。老弱男女を魅了するに充分な効力を持つその笑顔を向けられても、善之介はいつも通り、なんら心動かされた様子はなかった。意志の強い眼差しで巴丸を真っ向から見据え、真っ直ぐな言葉を返してくる。
「巴丸、ふざけてる場合ではない。おまえに仕事を頼みたい」
「いいとも、承ろう。何せ僕は善之介の忍だからね!もちろん、喜んで君に従うに決まっているさ!で、それはどんな仕事だい?」
「探して欲しい人がいる。至急だ」
「なるほどなるほど?……うーん、困ったな、残念なことにちょっと今は、気が乗らないようだ。それってどうしてもやらなきゃいけないことなのかね?」
主君の命令だというのに、巴丸はわざとらしく腕を組み首を傾げて見せる。掴み所のない彼の言動に、善之介は苛立ちを露にした。
「巴丸……俺はおまえを部下じゃなく友だと思っている。命令、なんて言葉を使わせるな」
「はーいはいはい、承知しているよ!」
両手を上げてすぐ降参を表し、巴丸は懐から取り出したべっ甲飴の欠片を口に放った。高価な砂糖菓子を惜しげもなく噛み砕き飲み下すと、ぺろり唇を舐める。
「僕がこうして甘いものに有り付けるのも、善之介のおかげだからね。給料分の仕事はするさ」
そう言いながらもやはり気の進まぬ顔で巴丸は肩を竦めた。善之介の横を擦り抜けて縁側に腰を下ろすと、幼女のように足を揺らす。
「主君の考えることくらい、僕に解らないと思うのかい?とっくの昔に、”暮里”の素性は洗ってあるよ。居場所も当然、解っている」
「本当か!?」
思いがけない返答だったのだろう。善之介はぱっと顔を輝かせる。
「さすが巴丸、我が友だ!」
「……褒めてくれるのは嬉しいんだが……喜ぶのはちょっと早い、かなあ」
あんまり善之介が解りやすく喜ぶので、巴丸は少し胸を痛めた。
今すぐ何もかも話してやってもいい。だがしかし、それでこの主君は納得するだろうか?口で言い聞かせるよりも自分の目で見た方が、この猪突猛進な男には薬になるに違いない。
巴丸は、善之介がこれ以上あの男の事情に首を突っ込み、危険に身を晒すことを避けたかった。
「連れて行ってあげよう、”暮里”のいるところへ。会えるかどうかは解らないけれどね」
「有難い、恩に着る……!!」
だからそれはまだ早いんだが。
そう思いながらも巴丸は彼を伴って屋敷を出た。時刻は夕暮れ。黄昏の闇が迫る中、二人は足早に人込みを抜けていく。擦れ違う人々の顔には男も女も活気がなく、この国の窮状が知れた。
巴丸も気付いている――この国は今、危険な状態にある。
町人も百姓も、それぞれに不安と苛立ちを抱え、今にも噴出しそうなそれを腹一杯にため込んでいる。針で突いたら簡単に破裂して、易々とは元に戻らないだろう。その時、矛先に立たされるのは善之介のような武士である。
(だから、正直言えば僕としては、人身御供ひとつで事を収めようという御家中の考えも悪くはないと思うんだよ)
その真意がどこにあれ、なんにせよ憤懣のやる方は必要なのだ。それが自分の主君たる善之介に及ばなければ、それでいい――”暮里”には悪いけれど、僕には善之介の方が大切だからね――それが”忍”の巴丸なりの忠誠心だ。
進む先、その方角に気付いて、ふと善之介が巴丸を見た。
「なあ、巴丸、こっちにはもうなにもないぞ」
「やだなあ、善之介。あるじゃないか、立派な建物が」
「立派なって……この方向にあるのは……しかし、この向こうは……」
城だ。
言い掛けて、善之介は言葉を飲み込んだ。言ってしまったらそれが事実になって確定してしまう、とでもいうように。しかしそれは彼が口にするとしないとに関わらず、もうそれでしかないのだった。
巴丸は善之介を促し、通常忍しか使うことのない隠し通路を通って城内に入った。本来この道を忍以外の者に教えることは禁忌だったが、巴丸は気に留めない。善之介の為とあれば、少しくらいの無法行為も辞さない構えである。
「こっち」
木陰に身を顰め、城の裏手に回る。そこには小さな庭があり、黄金色の向日葵が爛漫と咲き乱れていた。その花の向こう、庭に面した座敷に女がいる。身にまとう打掛を見れば、それが誰であるかは善之介にも一目で知れるだろう。
「……明星、様?」
彼の唇から漏れたのは女の名だった。
領主である世冶宮家の血を引くたった一人の娘、そして此度のお触れで近々人身御供となる運命を背負った悲劇の姫君、明星。この城であんな上等な着物を身にまとうことが許されるのは彼女だけである。
だが、それを知って尚、善之介の顔に浮かんだのは憐憫ではなかった。困惑と、驚愕と、絶望。予想通りのそれに溜息を零して、巴丸は懇切丁寧、己の主君に説明してやる。
「見覚えあるだろう、あの顔」
巴丸は言った。
「君がこれまで会っていた”暮里”という男、彼は忍だ。僕とは違う流派で、代々世冶宮家に仕えている。……善之介、一昨年の夏を覚えているかい?」
善之介は茫然と姫の姿を見詰めたまま、小さく頷いた。
「あの夏、本物の明星様は身罷られた。もともと弱い人だったらしくてね、夏の暑さに体がもたなかったらしい」
「……明星様が、亡くなられてる……じゃあ、つまり、」
「彼は、明星様の影武者だ」
男とは思えぬ色香、嫋やかなその美貌、憂いを含んだ横顔を、善之介は確かに知っていた。それは確かに、善之介の知る”暮里”その人に違いなかった。
「”暮里”は、体の弱い明星様に代わって長いこと影武者を務めてきた。公的な場に姿を現した明星様はほとんど彼だったと言ってもいい。二人の容姿は瓜二つだったっていうから、まあ、姫様が生きてる限りは問題なかったんだろうけれど」
その本物の姫様が、いなくなってしまった。なのに暮里は生きている。それは重大な齟齬であった。
「当時、京の貴族が明星様の輿入れを望まれていたんだよ」
資源の少ない弱小領にとって、京との結び付きには大きな意味があった。有力貴族の力を得られれば、今後、飢饉の際に援助の要請が出来る。他国の脅威も薄らごう。皮算用とはいえ、その婚姻は領地の命運を握っていた。姫がもういませんなどとは到底言えなかったのだ。
しかし暮里は男である。
例え姫として形ばかり輿入れすることが出来たとしても、夜伽は避けられず、無論、男の体では子を成せるはずもなく、秘密が知れれば縁繋ぎどころの話ではない。
そこで老中は一計を案じた。”暮里”の他に明星に似た面立ちの娘を探そうと、時間稼ぎに出たのだ。
明星は病に伏せっており療養のため輿入れには暫しの時間が必要、と京には伝えられ、貴族はそれを飲んだ。”明星”の美貌を思えば然もありなん、余程の熱の入れようだったと見える。
”暮里”が時間を稼ぐうちに、彼の一族は急ぎ全国を飛び回って適性のある娘を探した。しかし当然ながらその道程は困難を極めた。なにせ古今東西比類なしと呼ばれた美女のことである。性別が異なるとはいえ、暮里という存在がいたこと自体が奇跡なのだ。
一年が経ち、二年が過ぎた。
そのうち、”暮里”も年を経て、体付きはがっしりとし面立ちにも男らしさが色濃く滲むようになってくる。このまま城においていては襤褸が出る、と危ぶんだ老中は暮里を森の奥深くに隠した。といってもいざという時すぐに呼び戻せるよう、城から遠くへやってしまうことは出来なかった。
そこで、暮里と善之介は運命的に出会ってしまったのだ。
「その、代わりの娘は見付かったのか?」
絞り出すように、善之介は巴丸に問いかけた。巴丸はいつものようにべっ甲飴の大きな欠片を口に含んだまま、首を振る。
「それがねえ……二年も待たせたもんだから、あちらの状況も変わってしまってね」
輿入れ先だった貴族の、死。
その報せが届いたのは今年の春先だったという。これにより”もう一人の明星”が必要なくなり、捜索は打ち切られた。そしてもう一人、不要になった人間がいる。
「……暮里」
生きていることになってしまった明星。
だが、彼女が生きている限り、あの貴族のように縁談を持ちかける者は後を絶つまい。それを断り続ければ禍根となり、恋の炎は翻って災いとなろう。だからこそ彼らはもう一度殺さなくてはならなくなった――明星の亡霊である、暮里を。
「占い師もその為に呼ばれたのか。つまり、御託宣の内容も最初から決まってたというのか」
竜神の怒りなどとんだ茶番。すべては、周辺諸国に明星の死を知らしめ、これ以上の問題を引き起こさぬため。この領の平和を守り、暮里は命を捧げねばならないのだ。
善之介の握り締めた拳に血が滲む。巴丸はそっとその手に手を重ねたが、彼は”明星”を見詰めたままその目を逸らさなかった。痺れを切らしその手を引いたが、それでも善之介は動かない。
「ね、善之介。もう解ったでしょう?あの子を助けるのは無理だ。あの子を助けるってことは、善之介が城主城代の決定に反逆することになる。伊示地の家も取り潰しになるだろうし……お仕えする家がなくなるのは僕も困るよ」
だからもう帰ろう。
促す。これ以上、ここにいては不味いと思った。巴丸は、この主君が存外他人への興味が薄く諦めも早いことをよく知っている。自由気侭に振舞っているようでいて、その実は“家”という籠に囚われた鳥だ。だから真実を知れば見境無しに突っ込んでいくことはあるまい。それがお家の為になるとなれば猶更だ。そう思って、巴丸はここに連れてきた。
なのに、その時の善之介は巴丸がかつて見たことのない顔をしていた。
(ちょっと、まさか、そんなこと、冗談じゃない)
嫌な予感がする。巴丸はそういう目をした人間をよく知っている。
自分に魅了された人間達と同じ目だ。我武者羅に、ただ一人を見据えて、何もかもを投げ打つ覚悟を持った男の目だ。
まだ善之介自身は自覚していないのかもしれない。けれどずっと善之介を守り続けてきた巴丸にだからこそ解る。
(それは、恋だよ)
気付いた時、巴丸は胸の内だけで頭を抱えた。
巴丸にだって“忍”としての矜持がある。一度誓った忠誠は破れない。だから善之介が決めたなら、それには従わねばならなかった。例えそれが――巴丸の命を散らすことになっても。
だから本当は止めたかった。止めたいのに。
「……暮里」
ふらりと歩み出した善之介の手を握り続けることが巴丸には出来なかった。離れていく指先。巣立つ雛のその両翼が大きく羽ばたく瞬間を、巴丸は見る。
(あー、あ……)
彼等の行く先には地獄しかない。巴丸も供を言い渡されてしまった。しくじった。完全にしくじった。だけど。
我が主君の背中は黄金の花に紛れてもう遠く、月明かりに呑まれ揺らめいて、それはもう、夢みたいに美しくて。
「まあ、いいか」
とくと御覧じろ。今からその悲劇を僕が塗り替えてあげよう。それが例え束の間の幻だとしても、歴史に名を遺す最高の舞台にしてあげる。
巴丸は爛漫と笑うと、深まりゆく闇の中へその身を翻した。
代々伊示地の家に仕え早七七年。先代より”巴丸”の名を賜った三代目”巴丸”が善之介の専属として父から下げ渡されたのは、善之介が十五で元服を迎えた日のことだった。
「生きることは遊ぶこと」と豪語する一風変わったその忍は、引き合わされたまだ幼さの残る”主君”を甚く気に入り、先代同様に忠誠を約束した。それからというもの主従というよりは友、友というよりは兄、時には弟のように善之介の側に寄り添い、生活のほとんどを共にしている。
だからその日も、巴丸だけは善之介がどこへ行って誰に会っているのか、何をしているのかを知っていたし、その相手の正体も本当はずっと前から知っていた。
だって巴丸は”忍”であったから。
主君である善之介の身を守ることが何よりも優先で、彼に近付く怪しい人間を放っておくわけにはいかなかった。
故に、二人の出会いからすぐ調べはついている。”忍”の情報網は伊達ではない。彼がどこから来て、そして何の目的であの場所にひと時根を下ろしたのか。それは直ぐに知れた。
結果、”暮里”は善之介にとって危険な人物ではないと知った。だから巴丸は二人の交流を見守ることにしたのだ――いずれ何が起こるかも、本当は気付いていたけれど。“暮里”の元に通う善之介があんまりにも嬉しそうで、楽しそうで。止めることなど到底、出来なかった。
「巴丸!巴丸はどこだ!」
屋敷の一室に飛び込んできた善之介の姿に、巴丸は小さく溜息を吐いた。善之介のその様子を見れば、とうとうその時が来てしまったのだと知れる。
登っていた木の上から、とん、と軽やかに地面に降り立つと、巴丸はいつも通り人懐こい笑みを顔に張り付かせ、善之介の元に駆け寄った。
「やあやあやあ、ごきげんよう我が主君!そんな怖~い顔をして、一体全体どうしたのかね?」
子供のように無邪気で、それでいてどこか艶やかな微笑み。老弱男女を魅了するに充分な効力を持つその笑顔を向けられても、善之介はいつも通り、なんら心動かされた様子はなかった。意志の強い眼差しで巴丸を真っ向から見据え、真っ直ぐな言葉を返してくる。
「巴丸、ふざけてる場合ではない。おまえに仕事を頼みたい」
「いいとも、承ろう。何せ僕は善之介の忍だからね!もちろん、喜んで君に従うに決まっているさ!で、それはどんな仕事だい?」
「探して欲しい人がいる。至急だ」
「なるほどなるほど?……うーん、困ったな、残念なことにちょっと今は、気が乗らないようだ。それってどうしてもやらなきゃいけないことなのかね?」
主君の命令だというのに、巴丸はわざとらしく腕を組み首を傾げて見せる。掴み所のない彼の言動に、善之介は苛立ちを露にした。
「巴丸……俺はおまえを部下じゃなく友だと思っている。命令、なんて言葉を使わせるな」
「はーいはいはい、承知しているよ!」
両手を上げてすぐ降参を表し、巴丸は懐から取り出したべっ甲飴の欠片を口に放った。高価な砂糖菓子を惜しげもなく噛み砕き飲み下すと、ぺろり唇を舐める。
「僕がこうして甘いものに有り付けるのも、善之介のおかげだからね。給料分の仕事はするさ」
そう言いながらもやはり気の進まぬ顔で巴丸は肩を竦めた。善之介の横を擦り抜けて縁側に腰を下ろすと、幼女のように足を揺らす。
「主君の考えることくらい、僕に解らないと思うのかい?とっくの昔に、”暮里”の素性は洗ってあるよ。居場所も当然、解っている」
「本当か!?」
思いがけない返答だったのだろう。善之介はぱっと顔を輝かせる。
「さすが巴丸、我が友だ!」
「……褒めてくれるのは嬉しいんだが……喜ぶのはちょっと早い、かなあ」
あんまり善之介が解りやすく喜ぶので、巴丸は少し胸を痛めた。
今すぐ何もかも話してやってもいい。だがしかし、それでこの主君は納得するだろうか?口で言い聞かせるよりも自分の目で見た方が、この猪突猛進な男には薬になるに違いない。
巴丸は、善之介がこれ以上あの男の事情に首を突っ込み、危険に身を晒すことを避けたかった。
「連れて行ってあげよう、”暮里”のいるところへ。会えるかどうかは解らないけれどね」
「有難い、恩に着る……!!」
だからそれはまだ早いんだが。
そう思いながらも巴丸は彼を伴って屋敷を出た。時刻は夕暮れ。黄昏の闇が迫る中、二人は足早に人込みを抜けていく。擦れ違う人々の顔には男も女も活気がなく、この国の窮状が知れた。
巴丸も気付いている――この国は今、危険な状態にある。
町人も百姓も、それぞれに不安と苛立ちを抱え、今にも噴出しそうなそれを腹一杯にため込んでいる。針で突いたら簡単に破裂して、易々とは元に戻らないだろう。その時、矛先に立たされるのは善之介のような武士である。
(だから、正直言えば僕としては、人身御供ひとつで事を収めようという御家中の考えも悪くはないと思うんだよ)
その真意がどこにあれ、なんにせよ憤懣のやる方は必要なのだ。それが自分の主君たる善之介に及ばなければ、それでいい――”暮里”には悪いけれど、僕には善之介の方が大切だからね――それが”忍”の巴丸なりの忠誠心だ。
進む先、その方角に気付いて、ふと善之介が巴丸を見た。
「なあ、巴丸、こっちにはもうなにもないぞ」
「やだなあ、善之介。あるじゃないか、立派な建物が」
「立派なって……この方向にあるのは……しかし、この向こうは……」
城だ。
言い掛けて、善之介は言葉を飲み込んだ。言ってしまったらそれが事実になって確定してしまう、とでもいうように。しかしそれは彼が口にするとしないとに関わらず、もうそれでしかないのだった。
巴丸は善之介を促し、通常忍しか使うことのない隠し通路を通って城内に入った。本来この道を忍以外の者に教えることは禁忌だったが、巴丸は気に留めない。善之介の為とあれば、少しくらいの無法行為も辞さない構えである。
「こっち」
木陰に身を顰め、城の裏手に回る。そこには小さな庭があり、黄金色の向日葵が爛漫と咲き乱れていた。その花の向こう、庭に面した座敷に女がいる。身にまとう打掛を見れば、それが誰であるかは善之介にも一目で知れるだろう。
「……明星、様?」
彼の唇から漏れたのは女の名だった。
領主である世冶宮家の血を引くたった一人の娘、そして此度のお触れで近々人身御供となる運命を背負った悲劇の姫君、明星。この城であんな上等な着物を身にまとうことが許されるのは彼女だけである。
だが、それを知って尚、善之介の顔に浮かんだのは憐憫ではなかった。困惑と、驚愕と、絶望。予想通りのそれに溜息を零して、巴丸は懇切丁寧、己の主君に説明してやる。
「見覚えあるだろう、あの顔」
巴丸は言った。
「君がこれまで会っていた”暮里”という男、彼は忍だ。僕とは違う流派で、代々世冶宮家に仕えている。……善之介、一昨年の夏を覚えているかい?」
善之介は茫然と姫の姿を見詰めたまま、小さく頷いた。
「あの夏、本物の明星様は身罷られた。もともと弱い人だったらしくてね、夏の暑さに体がもたなかったらしい」
「……明星様が、亡くなられてる……じゃあ、つまり、」
「彼は、明星様の影武者だ」
男とは思えぬ色香、嫋やかなその美貌、憂いを含んだ横顔を、善之介は確かに知っていた。それは確かに、善之介の知る”暮里”その人に違いなかった。
「”暮里”は、体の弱い明星様に代わって長いこと影武者を務めてきた。公的な場に姿を現した明星様はほとんど彼だったと言ってもいい。二人の容姿は瓜二つだったっていうから、まあ、姫様が生きてる限りは問題なかったんだろうけれど」
その本物の姫様が、いなくなってしまった。なのに暮里は生きている。それは重大な齟齬であった。
「当時、京の貴族が明星様の輿入れを望まれていたんだよ」
資源の少ない弱小領にとって、京との結び付きには大きな意味があった。有力貴族の力を得られれば、今後、飢饉の際に援助の要請が出来る。他国の脅威も薄らごう。皮算用とはいえ、その婚姻は領地の命運を握っていた。姫がもういませんなどとは到底言えなかったのだ。
しかし暮里は男である。
例え姫として形ばかり輿入れすることが出来たとしても、夜伽は避けられず、無論、男の体では子を成せるはずもなく、秘密が知れれば縁繋ぎどころの話ではない。
そこで老中は一計を案じた。”暮里”の他に明星に似た面立ちの娘を探そうと、時間稼ぎに出たのだ。
明星は病に伏せっており療養のため輿入れには暫しの時間が必要、と京には伝えられ、貴族はそれを飲んだ。”明星”の美貌を思えば然もありなん、余程の熱の入れようだったと見える。
”暮里”が時間を稼ぐうちに、彼の一族は急ぎ全国を飛び回って適性のある娘を探した。しかし当然ながらその道程は困難を極めた。なにせ古今東西比類なしと呼ばれた美女のことである。性別が異なるとはいえ、暮里という存在がいたこと自体が奇跡なのだ。
一年が経ち、二年が過ぎた。
そのうち、”暮里”も年を経て、体付きはがっしりとし面立ちにも男らしさが色濃く滲むようになってくる。このまま城においていては襤褸が出る、と危ぶんだ老中は暮里を森の奥深くに隠した。といってもいざという時すぐに呼び戻せるよう、城から遠くへやってしまうことは出来なかった。
そこで、暮里と善之介は運命的に出会ってしまったのだ。
「その、代わりの娘は見付かったのか?」
絞り出すように、善之介は巴丸に問いかけた。巴丸はいつものようにべっ甲飴の大きな欠片を口に含んだまま、首を振る。
「それがねえ……二年も待たせたもんだから、あちらの状況も変わってしまってね」
輿入れ先だった貴族の、死。
その報せが届いたのは今年の春先だったという。これにより”もう一人の明星”が必要なくなり、捜索は打ち切られた。そしてもう一人、不要になった人間がいる。
「……暮里」
生きていることになってしまった明星。
だが、彼女が生きている限り、あの貴族のように縁談を持ちかける者は後を絶つまい。それを断り続ければ禍根となり、恋の炎は翻って災いとなろう。だからこそ彼らはもう一度殺さなくてはならなくなった――明星の亡霊である、暮里を。
「占い師もその為に呼ばれたのか。つまり、御託宣の内容も最初から決まってたというのか」
竜神の怒りなどとんだ茶番。すべては、周辺諸国に明星の死を知らしめ、これ以上の問題を引き起こさぬため。この領の平和を守り、暮里は命を捧げねばならないのだ。
善之介の握り締めた拳に血が滲む。巴丸はそっとその手に手を重ねたが、彼は”明星”を見詰めたままその目を逸らさなかった。痺れを切らしその手を引いたが、それでも善之介は動かない。
「ね、善之介。もう解ったでしょう?あの子を助けるのは無理だ。あの子を助けるってことは、善之介が城主城代の決定に反逆することになる。伊示地の家も取り潰しになるだろうし……お仕えする家がなくなるのは僕も困るよ」
だからもう帰ろう。
促す。これ以上、ここにいては不味いと思った。巴丸は、この主君が存外他人への興味が薄く諦めも早いことをよく知っている。自由気侭に振舞っているようでいて、その実は“家”という籠に囚われた鳥だ。だから真実を知れば見境無しに突っ込んでいくことはあるまい。それがお家の為になるとなれば猶更だ。そう思って、巴丸はここに連れてきた。
なのに、その時の善之介は巴丸がかつて見たことのない顔をしていた。
(ちょっと、まさか、そんなこと、冗談じゃない)
嫌な予感がする。巴丸はそういう目をした人間をよく知っている。
自分に魅了された人間達と同じ目だ。我武者羅に、ただ一人を見据えて、何もかもを投げ打つ覚悟を持った男の目だ。
まだ善之介自身は自覚していないのかもしれない。けれどずっと善之介を守り続けてきた巴丸にだからこそ解る。
(それは、恋だよ)
気付いた時、巴丸は胸の内だけで頭を抱えた。
巴丸にだって“忍”としての矜持がある。一度誓った忠誠は破れない。だから善之介が決めたなら、それには従わねばならなかった。例えそれが――巴丸の命を散らすことになっても。
だから本当は止めたかった。止めたいのに。
「……暮里」
ふらりと歩み出した善之介の手を握り続けることが巴丸には出来なかった。離れていく指先。巣立つ雛のその両翼が大きく羽ばたく瞬間を、巴丸は見る。
(あー、あ……)
彼等の行く先には地獄しかない。巴丸も供を言い渡されてしまった。しくじった。完全にしくじった。だけど。
我が主君の背中は黄金の花に紛れてもう遠く、月明かりに呑まれ揺らめいて、それはもう、夢みたいに美しくて。
「まあ、いいか」
とくと御覧じろ。今からその悲劇を僕が塗り替えてあげよう。それが例え束の間の幻だとしても、歴史に名を遺す最高の舞台にしてあげる。
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