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天使は甘いキスが好き
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太一は食事をしようと椅子に座り掛けて、動きを止めた。
「別に」
十和子は眉根を寄せる。十和子の溜息が静かなリビングに響いた。十和子は太一の肩に顔を近付け、太一は眼を逸らし後ずさる。
「香水を移されて帰って来るなんて。香水だけなら電車で移されたで、云い訳が通るかも知れないけど、あんたは車通勤でしょうが。それに、首にキスマークなんて」
二階に在る子供部屋に聞こえない様に、十和子は声を潜める。太一は慌てて自分の首筋に手を遣り、ハッとして手を首筋から離した。十和子はそんな息子に呆れて再び溜息を吐く。柱時計がやたらと大きくカチカチと、リビング内に鳴り響く。
「恵はああ見えても今は大事な思春期なのよ? 勘の良い子なんだから、気付かれたらどうするの? かおるさん、今心臓が弱ってるんだから、また発作でも起きたら」
十和子の非難めいた言葉が、胸を抉る。太一は椅子の背を握り締めた。
「解ってる。疲れてるんだ。これ以上は勘弁してくれ。明日も早いんだ」
「あんたが解ってないから…」
かたりと、二人の背後で音がして太一と十和子は驚愕し、開いたドアへと振り返った。恵が双眸を見開き、十和子を通り越して、太一を凝視した。
「喉、が…乾いて…」
恵はガタガタと脚を震わせて、太一を見詰める。
ーーーお祖母ちゃんは今、なんて云った? お父さんはなんて云ったの?
「恵っ!」
太一が歩み寄って手を差し伸べる。恵はおぞましい物でも見る様に、思わず太一の手を払い除けてしまった。
「恵」
十和子が真っ蒼になって名前を呼ぶが、恵には十和子の声が聞こえなかった。太一は驚愕し、立ち尽くす。払われた手が、心が今更ながらつきんと痛む。恵はハッとして後ずさった。ズキズキと不快に胸が鳴る。耳鳴りがする。裸足のままだった恵の身体が、リビングの床の冷たさにゾクリとした。
ーーーお母さん、おかあさんっ。
「恵っ」
恵は踵を返して自室へ飛び込むと、ベッドに潜り込み眠る伊吹を抱き締めた。心臓がドクドクして吐き気がする。
ーーーたすけて。
「ん…にい…ちゃん? くるしい」
伊吹は寝ぼけ眼で抱き締めて来る恵を見上げた。
ーーーお母さん、心臓が弱ってるの? お父さんは何をしていたの?
恵はドクドクと高鳴る心臓の音に、耳を塞いだ。香水の匂い。十和子の云っていた女の唇の後。帰りの遅くなった太一。汚い。汚い。汚い。 恵は涙を零しながら嗚咽した。物静かで綺麗な母かおるとは違う。顔も知らない女の残り香。
「にいちゃん? どこかいたいの?」
伊吹は困って恵に訊く。
ーーー煩い、うるさい、ウルサイっ。
「いたいなら、おばあちゃんよぶ?」
ーーーっ。
恵は伊吹の声を聞いて、安堵と共に胸の中のどす黒い想いが相反して、溢れ出して行く。大人なんて汚い。
涙が止まらない。悔しくて。裏切られて。「くっ…う、う」
伊吹は只事ではないと祖母を呼ぼうとベッドから出ようとする。が、恵が伊吹にしがみ付いて離れない。伊吹はどうした物かと考え、かおるがいつも伊吹にしてくれる事を思い出した。
「いたいのいたいのおそらへとんでけ」
伊吹の小さな手が、恵の頭を優しく撫でる。小さな黄色い豆電球の部屋の中、二人は狭いベッドの中で抱き締め合った。
恵の毎日の日課は、朝食の後伊吹を保育園に連れて行く事から始まる。が、今日は学校に急ぐからと祖母に伊吹を任せて、朝食も摂らずに家を出た。幸いな事に、太一はそれより早く朝食を済ませて会社に出ている。年頃の息子に、しかも不倫がばれて子供の心を傷付けた。心のケアの仕方も解らずに、自分の年老いた母親に息子を任せる処からして、父親失格である。せめて云い訳でも…いや。余計に恵の心を傷付けただろう。だからこそ、恵は頭の中で反芻する。許さない。許さないと。
「伊吹はおばあちゃんとね」
恵が靴を履いて家を出て行く後姿を見送りながら、伊吹は泣きそうになるのを耐えた。恵は昨夜泣きながら伊吹を抱き締めて、泣き疲れて眠ってしまっていのを、伊吹は思い出して十和子のエプロンの裾をギュッと掴む。伊吹が先に目覚めた時、恵の目許には涙の後があった。
「行って来ます」
「別に」
十和子は眉根を寄せる。十和子の溜息が静かなリビングに響いた。十和子は太一の肩に顔を近付け、太一は眼を逸らし後ずさる。
「香水を移されて帰って来るなんて。香水だけなら電車で移されたで、云い訳が通るかも知れないけど、あんたは車通勤でしょうが。それに、首にキスマークなんて」
二階に在る子供部屋に聞こえない様に、十和子は声を潜める。太一は慌てて自分の首筋に手を遣り、ハッとして手を首筋から離した。十和子はそんな息子に呆れて再び溜息を吐く。柱時計がやたらと大きくカチカチと、リビング内に鳴り響く。
「恵はああ見えても今は大事な思春期なのよ? 勘の良い子なんだから、気付かれたらどうするの? かおるさん、今心臓が弱ってるんだから、また発作でも起きたら」
十和子の非難めいた言葉が、胸を抉る。太一は椅子の背を握り締めた。
「解ってる。疲れてるんだ。これ以上は勘弁してくれ。明日も早いんだ」
「あんたが解ってないから…」
かたりと、二人の背後で音がして太一と十和子は驚愕し、開いたドアへと振り返った。恵が双眸を見開き、十和子を通り越して、太一を凝視した。
「喉、が…乾いて…」
恵はガタガタと脚を震わせて、太一を見詰める。
ーーーお祖母ちゃんは今、なんて云った? お父さんはなんて云ったの?
「恵っ!」
太一が歩み寄って手を差し伸べる。恵はおぞましい物でも見る様に、思わず太一の手を払い除けてしまった。
「恵」
十和子が真っ蒼になって名前を呼ぶが、恵には十和子の声が聞こえなかった。太一は驚愕し、立ち尽くす。払われた手が、心が今更ながらつきんと痛む。恵はハッとして後ずさった。ズキズキと不快に胸が鳴る。耳鳴りがする。裸足のままだった恵の身体が、リビングの床の冷たさにゾクリとした。
ーーーお母さん、おかあさんっ。
「恵っ」
恵は踵を返して自室へ飛び込むと、ベッドに潜り込み眠る伊吹を抱き締めた。心臓がドクドクして吐き気がする。
ーーーたすけて。
「ん…にい…ちゃん? くるしい」
伊吹は寝ぼけ眼で抱き締めて来る恵を見上げた。
ーーーお母さん、心臓が弱ってるの? お父さんは何をしていたの?
恵はドクドクと高鳴る心臓の音に、耳を塞いだ。香水の匂い。十和子の云っていた女の唇の後。帰りの遅くなった太一。汚い。汚い。汚い。 恵は涙を零しながら嗚咽した。物静かで綺麗な母かおるとは違う。顔も知らない女の残り香。
「にいちゃん? どこかいたいの?」
伊吹は困って恵に訊く。
ーーー煩い、うるさい、ウルサイっ。
「いたいなら、おばあちゃんよぶ?」
ーーーっ。
恵は伊吹の声を聞いて、安堵と共に胸の中のどす黒い想いが相反して、溢れ出して行く。大人なんて汚い。
涙が止まらない。悔しくて。裏切られて。「くっ…う、う」
伊吹は只事ではないと祖母を呼ぼうとベッドから出ようとする。が、恵が伊吹にしがみ付いて離れない。伊吹はどうした物かと考え、かおるがいつも伊吹にしてくれる事を思い出した。
「いたいのいたいのおそらへとんでけ」
伊吹の小さな手が、恵の頭を優しく撫でる。小さな黄色い豆電球の部屋の中、二人は狭いベッドの中で抱き締め合った。
恵の毎日の日課は、朝食の後伊吹を保育園に連れて行く事から始まる。が、今日は学校に急ぐからと祖母に伊吹を任せて、朝食も摂らずに家を出た。幸いな事に、太一はそれより早く朝食を済ませて会社に出ている。年頃の息子に、しかも不倫がばれて子供の心を傷付けた。心のケアの仕方も解らずに、自分の年老いた母親に息子を任せる処からして、父親失格である。せめて云い訳でも…いや。余計に恵の心を傷付けただろう。だからこそ、恵は頭の中で反芻する。許さない。許さないと。
「伊吹はおばあちゃんとね」
恵が靴を履いて家を出て行く後姿を見送りながら、伊吹は泣きそうになるのを耐えた。恵は昨夜泣きながら伊吹を抱き締めて、泣き疲れて眠ってしまっていのを、伊吹は思い出して十和子のエプロンの裾をギュッと掴む。伊吹が先に目覚めた時、恵の目許には涙の後があった。
「行って来ます」
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