天使は甘いキスが好き

吉良龍美

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天使は甘いキスが好き

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「無茶を云うな。今じゃ早過ぎるだろう?」
 恵は伊吹を抱き上げると、紙袋を手にかおるを見た。標準よりも五キロ痩せている伊吹は、それでもずっと抱き上げていればそれなりに重い。
「帰り、気を付けて」
「うん。あ、それと、来週から期末が始まるから、月曜日まで来れないけど…」
 申し訳無さそうに、恵は居眠りの船を漕ぐ伊吹を抱き上げ直す。
「あら、気にしなくてもいいのよ? テスト頑張ってね」
「うん。おやすみ、お母さん」
「おやすみ。恵、伊吹」
 呼ばれて伊吹は眼を擦りながら頷く。
「おやすみなさい、お母さん」
「おやすみなさいです、おかあさん」
 欠伸をする伊吹を、恵は「家まで自転車だぞ? 起きろ」と、伊吹の身体を抱いたまま揺する。
 伊吹は泣きそうに駄々を捏ねて恵の首に縋り付いた。かおるは眼を細めてそんな二人を見詰めると、微笑んで手を振った。

 ガタリと玄関で音がすると、鍵を掛ける音がガチャリと鳴った。恵は重たい瞼を上げて天井を見、壁掛け時計を見た。零時を少し回ったぐらいだ。父親の太一が帰って来たのだろう。ふと寝返りをうとうとして、何かに邪魔をされ、おや? と眉根を上げた。右側を見下ろせば、伊吹が右手の親指をしゃぶり、左手で恵のパジャマの袖を掴み、胸に頬を摺り寄せている。恵は双眸を見開き、ふと笑った。
 ーーーひとりで寝ると云ったのは自分の癖に、結局こうなるか。もうお兄ちゃんだからと、自室のベッドにひとりで寝た筈なのに、いつの間にか恵のベッドに潜り込んでいた。ドアを開けて子供部屋の様子を見に来た太一が、小声でただいまを云う。
「おかえりなさい」
 伊吹に気付いた太一が伊吹を抱き上げ様とすると、伊吹の抵抗にあい、止む無く諦めた。
「こいつ本当にお前に懐いてるな。仔犬みたいだ」
「それ、云ったら伊吹怒るから。それに良いよ別にそのまんまも」
 恵は苦笑して、ふとある事に気付く。太一の服から、女性用の香水がしたのだ。恵は嫌な予感に胸が軋む。
 ーーーなんだろう? 残業続きで最近帰りが遅い。
 学生時代ラグビーをしていたという、太一の身体は鍛え上げられた様に、筋肉がしっかりと付いていた。顔立ちも俳優の様にカッコイイ。恵の自慢の父親だ。
 ーーー仕事、大変なのかな、電車で匂いが移ったとか?
 恵もたまに電車に乗ると、女性の香水に吐き気がするのだ。まれに体臭を隠そうと、香水を付け過ぎる女性が居る。でも、あれ? と思考が現実に引き戻される。太一は車通勤の筈だ。やはり匂いは会社で仕事中に移ったのだろうか。
「…仕事遅くまで大変だね」
 何か訊かなければと思うのに、頭がうまく働かない。
「まあな。建築会社は体力勝負だ」
 プニプニと、伊吹の柔らかな頬を突く。
「夜食、ラップに包んでるから。…消化にいいやつにしといた」
「サンキュ。いつもありがとうな。おばあちゃんはもう寝た様だから、お前も寝ろよ」
「うん。…あの、お父さん?」
 恵は少し躊躇いながら唇を開いた。
「身体に気を付けてね?」
 それが精一杯だったと思う。太一の背が、何かを拒絶している様に見えたのは、気のせいだろうか。
「仕事が煮詰まってな。身体は鍛えてるから、栄養さえ摂ってれば大丈夫だから。……おやすみ」
 恵は眉根を寄せたまま俯く。太一の微妙な変化に気付いていた。でも、言葉に表せない。出来ない。だから、返事を返すので精一杯だった。
「おやすみなさい」と。恵は太一の出て行く後姿を見送ると、布団に潜って伊吹を抱き枕の様に抱き締めた。胸に何かが引っ掛かる様な不快さが、恵の胸を灰色に染めた。嫌な予感はよく当たる。

 太一は上着を脱ぐと、ソファーの背に掛けてネクタイを緩めた。
「お帰り、太一」
 不意にリビングへ入って来た母親の十和子に、太一はビクリと肩を揺らす。
「…ただいま。起こしたかな? すまないな母さん」
 振り返りながら、太一がすまなそうに云う。人生の半分を過ぎた十和子は、まだまだ老いてはいられないと、子供達の世話や、かおるの大事な喫茶店を守っている。髪は全て白く染まり、皺も深くなって来た。十和子には頭が上がらないと、太一は苦笑する。
「それは良いけど。あんた最近私に隠し事してないかい?」
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