バタフライトラップ

柏木あきら

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三、赤い扉とネクタイ

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それからしばらくして。
雪予報の夜に【ロジウラ】に彼がやってきた。

赤い扉を開いて入ってきた黒いトレンチコートの男は、カウンターに向かってきた。
拓也がカウンターから出て、コートを預かりクロークに仕舞う。
男はカウンター席に一人で座り、明彦が差し出した暖かいおしぼりで手を拭いた。
「オーダーは?」
「オールド・ファッションドを」
ふうん、と明彦は男を見る。

オールド・ファッションドは人気のあるカクテルだがアルコール度が25度とかなり高い。
しかし目の前の男の風貌からすると、そんなに酒には強そうに見えないのだ。
黒々とした髪に、ベージュのスーツ。
少し光沢の入った赤いネクタイは男の整った顔をさらに上品に見せた。

明彦はこのおとなしく酒を待つ男に見覚えがない。
常連客は必ず覚えているし、数回来訪した客も覚えているのだが、この男は知らない。
(こんな端正な顔、一度見たら忘れるわけはないし)
そんなことを考えながら男の顔を見ていると、男はニコリと微笑んだ。
その優しそうな微笑みに、明彦が珍しく見惚れてしまう。

「この店は初めてかしら?」
「初めてです。とても良い雰囲気のお店ですね。インテリアもいい」
「あら、嬉しいわ」

出来上がったオールド・ファッションドを拓也が差し出すと、ありがとうと一言声をかけて男はグラスを傾け、それを味わう。
そしてゆっくりグラスを置くと拓也を見ながら話しかけた。
「カクテルも美味しい。素晴らしいバーテンダーさんだ」
人を癒す少し低めの落ち着いた声。
明彦の隣りに立っていた拓也は一礼する。
「恐れ入ります」
「上品なお客さまね。まるでここ、高級ホテルのバーラウンジのようだわ」
明彦が言うと、男はまた笑う。

初見のお客は取り逃がさないようにと、いつも明彦が率先して話かけるのだが、長く話しているうち、男の話術が長けていることに気づいた。
「聞いていいかしら? 何故この店に? 入り組んだ路地裏の寂れた店なのに」

銀座の大通りから外れた路地裏の先にある【ロジウラ】は一見の客はなかなか入りづらい。
この店を訪れるのは大抵常連客か、その客に教わってくる客が多い。
ほとんど一見の客は入らないのだ。

「さっきまで別のところで食事していたんですけど、歩いていてたまたま見かけた赤い扉が気になったので」
【ロジウラ】のまるでルージュのような赤い扉に惹かれて来たのだという。
男はくるりと店内を見渡していると、ふいに何かを凝視していた。

不思議に思い、明彦が視線の先を追うとそこには二人の世界に入り込んでいる男二人。
常連客の千秋と小宮山だった。ボックス席で小宮山の膝の上に千秋が座り、向かい合う形でキスをしていた。
「やめろって、千秋ッ」
「えー、我慢できない」
千秋の手は小宮山のシャツをたくし上げている。
小宮山は静止させようとしているが、本気ではないようだ。

その様子を見ながら、明彦はため息をつく。
「あの子たち、またあんなとこで」
男は視線を明彦に戻し、驚いたような顔で聞いてきた。
「あ、あの……二人は」
「え? ああ、恋人同士よ。あら、アンタこの店が普通のバーだと思ってた?」

外の看板にはわざわざゲイバーとは入れていない。
そんな無粋なことはしたくないという思いがあるからだ。
「普通のバーだと思ってた」
男は残り少なくなったオールド・ファッションドを口に含む。
「あらあ。それは残念ねぇ。せっかく上品でイケメンのお客様だと思ったのに」

年に数回、ゲイバーだと気づかず入店する客がいるが大抵それを知ると客はそそくさと会計して帰っていく。
目の前の男もそうなのだろうと明彦は思ったのだが……

「ならちょうどよかった」

男は空になったグラスを持ち上げ、次のオーダーを拓也に告げる。
少し口元を緩めながら。
「ブラック・ルシアンを」

ウォッカベースの甘いココアのような口当たりのカクテルで飲みやすいのだが、アルコール度数はウイスキーベースのオールド・ファッションドと引けを取らないほど高い。
同伴者を酔わせるには最適のカクテルだ。

そしてブラック・ルシアンのカクテル言葉は誘惑。
この目の前の男は、それを知ってオーダーしているのだろうか。

明彦は手にしていたキセルの灰をぽんと捨ててゆっくり微笑んだ。
「あら。じゃあここのお客様で間違い無いのね。名前を教えてもらえるのかしら」
男は頷き、答える。

「岡です。はじめまして」
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