バタフライトラップ

柏木あきら

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三、赤い扉とネクタイ

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コンコン、と自室をノックする音でハッと俊は顔を上げた。
小学生たちの声が頭に響く。

「俊、起きてる?」

ドアの向こうから聞こえるのは、拓也の声だ。
時計を見ると十五時過ぎ。朝方に帰宅して拓也はいつも泥のように眠り、この時間に起床する。
よく眠らないとあの仕事は辛いからといつの日か俊に言っていた。
だから、俊も眠らないといけないよと気遣ってくれるのだが眠れない。
加えて最近例の体調不良が続いていた。
「起きてる」
ノロノロとドアを開けると、拓也がスエットのままで立っていた。

ドアから出てきた俊の顔を見て拓也が呟く。
「また調子悪いの?」
こくりと頷くと拓也は頭にぽん、と手を置いた。
「だろうと思って。入るよ」
ずかずかと部屋に入るとベッドに腰掛けながら、微笑む拓也。
短髪の彼はマンションだと可愛らしく見える。丸くて大きな目。
【ロジウラ】ではクールなバーテンダーなのにな、と俊は思っている。

ふぅとため息をつくと俊の顔を見て呟いた。
「しようか? 辛いんでしょ」
ゆっくりと俊は頷いた。 

***

【ロジウラ】にたどり着いて数週間後の頃。
俊は倦怠感と食欲不振に悩まされるようになっていた。
長期に『命令』を出されないSubは体調を崩す。
それは当然、佳紀から逃げてきても継続していた。

薬で抑える術もあるが、俊は服用していない。
病院にかかりたくない、市販薬も飲みたくない、当初そう俊は拓也に告げたことがある。Sub性に対する抵抗なのか、諦めなのか。だがこのままでは辛いままだ。

休みの日にソファでぐったりとしていた俊に近づいて拓也が声をかけてきた。
「僕でいいなら、しんどいときは命令してあげられるけど」
その言葉に俊はギョッとした。拓也はDomだと言うのだ。

「でも」
世話になってる上に、何の感情もない相手にそんなことをしてもいいのかと俊が困惑していると、拓也は俊の手をつねった。
「痛っ」
手の甲をつねられただけなのに、ゾクリとする。
「大丈夫。僕はね、特定の人とかそういうの全く気にしない。それより俊を楽にしてあげたいんだ。明彦さんママも心配しているからね」
そう言った時の拓也の表情を見て、俊は気がついた。

「もしかしてママとも、してる?」
拓也はそれに応えない。ただ微笑んでいた。

その日から俊が望めば、拓也とコマンドを用いてプレイするようになった。
拓也とのプレイで、俊が初めて知ったことがあった。

それはDomとSubの間では必要なもの。『セーフワード』だ。

Domの行為が行き過ぎ、Subが危険な目にあわないようにするため、本気で行為を止めて欲しい時に使う言葉。
事前にSubが言葉を決めておいて二人で認識したうえで、行為にすすむ。
これが常識なのだが、俊は知らなかった。

驚いたのは拓也だ。Domと一緒にいたのであれば知っていないのはおかしい。
清い関係ではなかったと聞いてますます拓也は疑念を抱いた。

プレイのあと、着替えながら拓也は俊に言う。
「一緒にいた人を悪く言いたくないけど、そのDomは君をちゃんと大切に思っていたのかな」
痛いところをつかれて、俊は苦笑いした。
「……大切に思われてたら俺は逃げなかったよ」

***

「じゃあ俊、come来て

拓也とはプレイはするものの、キスをしない。
『自分は古い人間だからキスは本当に好きな人とするべきだと思っているんだ』と彼は言っていた。
『俊は僕なんかとキスしちゃダメだよ』あくまで俊のためにと言う様な口ぶりだったが、おそらく拓也自身がキスをしたくないのだろう。
特定の人を気にしない、と言いながら矛盾した言葉だ。
本当の拓也はどこにいるのだろう、と俊は思う。

Domも命令しなかったら落ち着かなくなるんだと拓也が言っていた。
だからこうして俊とプレイすることは気にしなくていい、と。
もし俊に命令してくれるDomを見つけたらいつでもやめるからねと笑っていた。

それを聞きながら俊もつられて微笑むものの、気持ちは重い。
いつまでも拓也や明彦に頼るわけにはいかない。
体のことも、住まいのことも。そして仕事のことも。

俊は拓也に跪きながらそんなことを考えていた。
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