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第六十四話 黄昏時の

64-2.甘かった

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「苗子先生のところ?」
「うん、行ってきた」
「誘ってくれれば私も一緒に行ったのに」
「うん」
 曖昧な答え方しかしない兄に美登利は眉をひそめる。彼女がいては都合が悪かったということか。

「寒くなってきたよ。帰ろうよ」
「うん」
 返事をしつつも巽は動かない。美登利は仕方なく兄の隣に座る。
 ちょうど対岸のホテルのラウンジの真下のイルミネーションが点灯した。川面に光が映える。
 少し目を細めるようにして巽はどこを見つめているのかもわからない。こんな兄は珍しいなと美登利は思う。

「マリッジブルーだって」
 笑みの気配を目元に漂わせて巽は妹に視線を流して言った。
「……誰が?」
「僕が」
「誰が?」
「苗子先生がそう言うのだもの。そうじゃないのかな」
 納得した様子の兄に美登利はますます眉をひそめる。
「亜紀子さんに失礼だよ」
「ほんとにね。僕なんかと結婚してくれるっていうのに」
「ほんとだよ」
「随分、仲良くなったね」
「だね」
「満足?」
「うん」
 思わず素で微笑んで美登利は兄を見る。
「理想的な人だよ。そうでしょう」
「……甘かった」
「お兄ちゃんはいつもそう」

 勝ちを確信していたからつい得意げになる。気持ちが緩む。
 女心というものをわかっていない兄に一矢報いることができた。王手をかけた、つもりでいたのに。

 ぞわりと感じたときには遅かった。柔らかな眼差しが迫る。
「どうしてそうなんだろうね?」
 声音はにこにこと笑っている。それなのに。威圧感で動けない。感情が絡めとられて頭の後ろに寒気を感じる。

 馬鹿だ。兄を本気にさせてしまった。凍りついた体は後退りもできない。
 しくじった。どうしてこんな時間帯にこんな場所でふたりきりになったりしたんだろう。甘かった。

 邪気のない巽の瞳に自分の影が映る。暗くてわからない。
「どうして?」
 答えさせる気なんかないくせに。ヒドイ、ヒドイ。詰る言葉も投げつけられない。

 好きだから、どんなことをしてでも呑み込まれたら駄目なのに、バリケードは簡単に壊される。いつだってギリギリのところにいるから。離れることはできないから。いちばん甘いのは自分たちだ。
 震えながら目を伏せることしかできない。自分が何を望んでいるのかもわからなくなる。引きずり込まれる。

 引力に気が遠くなりそうになったとき、緊張が解けた。
 おそるおそる目を上げると、後ろから羽交い絞めされるようにして巽が引っ張られている。
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