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第六十二話 迷子の仔猫

62-1.徹底している

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 合同企業説明会の会場ホールを出て広い通路に出ると、正人たち社会人予備軍をターゲットにしているのだろうチラシ配布の人影が幾人も動いていた。目にしたことのあるゆるキャラの着ぐるみまでうごめいている。
 リクルートスーツ姿の女子グループがはしゃいでいるのを横目に、池崎正人は迂回するように通路の端へ進む。

 そこへ赤いキャップを被った女性が笑顔で寄ってきて正人に情報誌らしい冊子を差し出す。
「お願いしまーす」
 小柄で声の明るい女の子だ。笑顔につられて、受け取ろうと手を出しかけたが。
「わっ」
 いきなり体当たりされて正人はなんとかその場に踏ん張る。

「え……」
 着ぐるみの丸いボディに何故かぐりぐりされて正人は混乱する。
「はいはい。すみませんねー。すみませんねー」
 さりげなく赤いキャップの女性を追いやりながら現れたのは坂野今日子だ。

「はいはい。みうくん。こっちですよ、こっち」
 感情のこもらない声で呼びかけつつ、恭しい手つきで着ぐるみの短い手を引いてホールの入り口の方へと誘導する。
 卵型のずんぐりした体の頭部と思われる部分にちょろりと前髪を付け、つぶらな瞳におおきな口の着ぐるみは、短い手足でバランスを取りながら方向転換する。

 坂野今日子があれほど丁重に扱うということは、あの中にいるのは。
「ああ、池崎くん」
 頬を引きつらせる正人に今日子が冷たく呼びかける。
「角の喫茶店で待っていてくれますか?」
「はいっ」



「これもバイト?」
「うん。楽しいよ」
「気をつけてよ」
「大丈夫。今日子ちゃんが一緒だもの」
 中川美登利は上品にオレンジジュースを飲みながら微笑む。
 うっかり着ぐるみの中の顔が見えてしまうなど子どもにとっては放送事故だが、こんな美女が出てきたならそれはそれで別の夢を与えてしまいそうだ。

 にしても今日子も少し前までは忙しそうだったのに今は随分余裕な様子だ。スタッフが着るらしい薄手の上着を羽織ったまま、美登利の隣でコーヒーを飲んでいる。
「私は入行前のバイトです」
 正人の疑問を読んで今日子が答える。
 それで正人は思い出す。あれは地元銀行のマスコットキャラだ、そういえば。

 今日子は配布用のポケットティッシュを正人に差し出し珍しくもにこりと笑う。
「美登利さんのお父様が常務理事でいらっしゃいます」
 思わず正人はぞっとなる。美登利の弱みとも思われる中川家の父の懐に入ろうというのだ。本当に今日子は徹底している。
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