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第六十話 幸福の定義

60-2.余計なお世話

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 苗子はにこりと笑んで取り付けられた手すりに縋って石の階段を上り始めた。
 億劫そうな歩みに自然と反対側の腕の肘のあたりを支えてやる。いつも美登利が老婦人たちにしているように。

「この階段を上れなくなったら、潮時だなって思っているの」
「何がですか?」
「仕事や方々とのお付き合いよ。ここを往復できなくなれば何もできないわ」
「わざわざこの道を使わずとも迂回すればいいじゃないですか」
「自分の中のけじめなのよ」
 こういう頑固さはさすがに只者ではない。

 帰り着いた自宅で、苗子はいつものティーセットで紅茶を淹れた。
「おかまいなく」
「いいのよ。私が飲みたいのだもの」
 ゆっくりお茶を飲んで一息ついてから、苗子はおもむろに大きな封筒を達彦に向かって差し出した。
「あなたに見せてほしいって預かってたの」
「……」
 もしやと思い、封筒の入り口だけ開いて覗き込んで見る。出すまでもなくお見合い写真というやつだとわかる。

「勘弁してくださいよ」
「何故?」
 面白そうに笑って苗子は肘掛椅子の背にゆったりと凭れる。
「巽さんも結婚するのだし。あなたも年貢の納め時ではない?」
「まだそんな歳じゃありません」
 ふうっと笑みを消して苗子はじっと達彦を見つめる。
「自分の家庭が欲しくないの?」
 余計なお世話だ。肚の中で毒づいて達彦は微笑みの形に頬を引き上げる。

「今はまだ自分のことだけで精一杯ですから」
「あなたには幸せになってもらいたいのよ」
 あんたの言う幸せってなんだよ? 奥歯を噛み、眉が曇らないようにするのに苦労した。これも施しというわけか?
「ずっとひとりのままの私が言うのもおかしいと思うでしょうけど」
 額をそっと押えながら、苗子は目を伏せる。

「今の若い人たちは順序を逆にして言い訳にしているようね。家庭を持つことでしっかりできるようになるの。自分がしっかりしてから、なんて先送りにしていたらいつまでたっても腹が決まらないままだわ。そうでしょう」
 穏健な教育者として知られる苗子にしては珍しく厳しい言い方だ。
 達彦も珍しく反論する。
「結婚だけが幸福ですか? どんな価値基準で言ってるんですか? まさか多数決なわけじゃあないですよね?」
「大多数の人が感じるなら、それは普遍的な価値と言えるのではない?」
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