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第四十三話 月に揺りかご

43-4.「却下」

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「私は大歓迎ですよ。みどちゃんのことが大好きですから」
 逃げ場を失った気がして美登利は知らず知らずのうちに後退る。
「? どうしたの?」
 怪訝そうな顔をされても上手に答えられない。
 どうして、どうしてこんな酷い誘惑をするのか。

「ダメだよ、おかしいよ……」
 そろそろと自分の頬に触れて美登利はつぶやく。
 強張ったその顔を見つめて亜紀子は思い出していた。以前感じたことを。

 ――私はあの人のおかしなところが好きなんだし。

 そうもらしてしまったとき、彼女に見据えられて凄みを感じた。あの眼差しの意味は。
「おかしいよ」
 身をひるがえして美登利は出ていってしまう。巽が後を追うのを見送りながら、亜紀子は歓喜の震えが駈け昇ってくるのを感じていた。
 なんていうことだろう。あの女神様は……女神様もまた。
(歪んでいる)
 輝かしく歪んでいる。

 いてもたってもいられず、亜紀子は目を血走らせて自分の仕事部屋へと駆け込みスケッチブックを開いた。




 表に出て気がついた。まだほのかに明るい宵の空に夕月夜が浮かんでいる。
 それで心が落ち着いた。
 何を浮ついていたのだろう。大丈夫、自分はもう大丈夫。
 追いついてきた気配に美登利は冷静に振り返る。
「お兄ちゃん」
「どうしたの?」
 心配そうに眉をひそめている兄に笑いかける。

「私がお月様が欲しいって言ったらどうする?」
 巽は目を細めて月を見上げる。
「そうだなあ。ロケットを作って月に行こうか。それで旗を立てるんだ」
「ふたりで?」
「うん」
「素敵だね」
 おとぎ話みたいだ。そうでもしなければ、本当の願いはかなわない。

「月に揺りかごを持っていこう」
「……ここでは座ってくれないの?」
 不満そうにもらす兄の手を握る。
「熟慮しますってことで」
 気持ちは嬉しい。本当に嬉しい。思いを込めると、巽は黙って彼女の手を握り返した。




「今年の夏も終わるなー」
「まだまだ暑いけどね」
 翌日、帰路に着く前に三人で浜辺に下りた。
「来年の今頃はまだ遊んでられるかなー」
 宮前の言葉に誠も美登利も首を傾げる。一年後のことなんて見当もつかない。
「それくらいの余裕はあると思いたいな」
「ほんとほんと」

 こくこく頷く美登利の髪は、ようやくまとめられるくらいの長さに伸びて、ずっと以前に誠がやったかんざしを挿している。アクリルの蝶のそれは、今の彼女には子どもっぽく思えて誠は少し反省する。

「ぼちぼち帰りますか」
「そうだな」
「たまには私が運転しようか?」
「却下」
「却下」
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