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第三十八話 月も雲間に

38-4.たったそれだけ

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 くすっと笑ってマップから目を離さないまま美登利は手を差し出す。正人が手を握ると笑みを深くしながら言った。
「物より思い出かな」
「そうだね」
 同意して指を絡める。
「下に着いたら売店にあったさくらんぼソフトが食べたいな」
「花より団子だね」


 夕食をすませて宿に向かう頃には月が輝き出していた。昼間と比べて夕方から雲が増えてきた。
「月も雲間のなきは嫌にて、だね」
 またわからないことを言われて正人は首を傾げる。笑って美登利は彼の手を引っ張った。
「足りないくらいでちょうどいいんだよ」
 月明りに縁どられた彼女の輪郭に、正人は唐突に思い出す。

 ――愛してるんだ。世界にあの子だけがいればいい。

 彼女の世界に足りないものは、たったそれだけ。本当は手に入るのに許されないもの。
(わかっているの?)
 自分のこころひとつで掴み取れるということを。

 美登利は黙って月を見上げる。彼女は、きれいで軽やかで、背中に羽が生えていたって不思議はないと正人は思う。いつだってそう思う。


 布団の上で素肌の肩甲骨に唇で触れてみる。彼女はびくりとして聞いたことのない上擦った声をもらした。
「なんかそこ、ダメ……」
 涙ぐんで言われたけど、正人は聞かずに何度もキスする。きれいな背中。彼女はどこもかしこもうつくしいけれど。

(どこにも行かないで)
 ひとりでどこかへ行ってしまわないで。もう二度と離れないと誓った。
(おれはあなたのもの)
 だからあなたも離さないで。どんなときにも。




 一泊二日の小旅行から戻るなり再び模様のような文字と格闘し始めた美登利を、先に戻ってきていた村上達彦は呆れて眺めやる。
「今度は何を始めたの?」
 返事もしない彼女に眉を上げて後ろから作業の様子を覗き込む。しばらく観察してからパソコンの画面と紙面を指差した。

「この字、違うだろ」
 紙ナプキンを一枚とってペンを走らせる。
「俺はこっちだと思うけど」

「そう? 部首が違うんじゃない? 僕はこうだと思うけど」
 反対側から巽が手を伸ばして違う漢字を書きつける。

「は? 字の癖からみて、こう流れてる訳だろ」
「そうだよ。だからよく見てみなよ、こことここは同じ部首でしょ? ってことは……」

 後ろで騒がしく議論し始めたふたりに我慢できずに美登利は怒鳴る。
「う・る・さ・い!」
「すみません」
「ごめんなさい」

 火のついていない煙草をくわえて新聞を読んでいた琢磨が、深くため息を吐き出した。
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