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第二十二話 誘引

22-3.「あなたは何もわかってないよ」

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 まったくこの兄妹は、そろって同じことを言う。苛立ちに歯ぎしりしたくなる。
「そんなことって?」
 余裕ぶって尋ねてみる。美登利はくちびるを引き結んで顎を引き、しばらく達彦を見上げていた。
 モップを置いて近づいてくる。
 蹴られるか殴られるかと思ったのに、顔が近づいたと思ったらキスされた。

 柔らかいくちびるが軽く吸い付いてから音をたてて離れていく。
「こういうことでしょう」
 凍りついている達彦を見て、甘さの片鱗もなく悪魔はせせら笑う。
「なあに、その顔」
 くちびるの端に触れただけでショックで涙を浮かべていた女の子が今、男を嘲笑って侮蔑に瞳を光らせている。

「……」
 なんて言っていいのかわからない。手で額を押えて達彦は気がつく。巽や琢磨なんかよりずっと、ずっと自分の方が彼女を神聖視していたのだと。
 この子を堕としてやりたいと思いながらそうなってほしくなかった。この子は汚れたりしないと心のどこかで思い込んでいた。受け入れる覚悟どころか汚す度胸もなかったのは自分の方。

「君、堕落したね」
「堕落?」
 美登利は驚いたふうに目を見開いて、それからくすくすと肩をゆすって笑い始めた。
「これが堕落?」
 ひとしきり笑って静まった後、美登利は弱々しくつぶやいた。
「あなたは何もわかってないよ」

 その一言が達彦を立ち直らせた。
 俯く顔を上向けて両の目を覗き込む。
「わかってないのは君の方だよ。俺が考えてるのは……」
 小さな頭を両手でしっかり抱え、くちづける。くちびるを覆うようにしながらゆっくり舌でなぞる。
 怯むように体を身じろぎさせたが彼女はそれ以上拒まなかった。

 ずっと貪りたいと思っていたくちびる。形を確かめるように何度も触れ直しながら舐る。
 彼女が細く息をつくのを見計らって舌を差し入れた。
 彼女の首筋が震えたのがわかった。両手が達彦のシャツを掴む。思った通り、やっぱり感度がいい。素直で正直、貪欲に、忠実に、男の欲情を受け入れ、あるがままに反応する。

 勘違いしたら駄目だ。達彦は自分に言い聞かせる。征服されるふうでいて逆に呑み込む瞬間をこの悪魔は待っている。
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