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第十九話 春に眠る

19-5.冷たい怒り

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「何が心配なのだかわからないけど、私はいなくなったりしないよ」
 眼差しは冷たいまま、彼女はやさしい口調で言ってのける。
「私の居場所なんて限られてる。どこにも行くとこなんてない」
 蔑む視線を目蓋に隠して微笑んでみせる。

「お兄ちゃんはもうじき結婚してしまう。そしたら私のところへなんか来なくなる」
 わかってる、それでも兄は自分のもの。だけど確信があったところで現実は別だ。心と体が別々なように、捻じれて、ちぎれて、真実が何かもわからなくなるくらいに残酷だ。

 体が凍りついていくのとは反対に、その内側で煮えたぎってくるものを感じで美登利はくちびるを噛む。
 どうせ人は自分の望む真実にしか目を向けない。それ以外のものはすべておかしいと片づける。彼女をおかしいのだと言った目の前の男のように。

 ――先輩はおかしくなんかない。

 瞬間響いてきた言葉に美登利は目を開いた。

 ――こんなおかしな私でもまともな人になったみたい……。

(あなたが信じてくれるなら)
 いい子になって見せるのに、信じてくれる人はもういない。それでも。

「……お兄ちゃんはお兄ちゃんの世界に行ってしまって、私は置いていかれる。だからって、もう泣かないけどね」
 今度は本当に微笑みを浮かべることができた。
「信じられない」
「何が?」
 一転して苛々と美登利は笑みを引っ込める。

 信じてほしいなんて思っていないけれど、どうしてこの男にそんなことを言われなければならないのか。一度は引っ込んだたぎりがまた込み上げてくる。
「君がそうやって自分をコントロールできなくなってることがだよ」
 厳かなくらいに静かに言われ、美登利は達彦の顔を見つめ直した。

「まさか自分では以前より落ち着いた、なんて思ってやしないよね」
 思っていた。だって泣かなくなったから。馬鹿みたいに涙が出ることがなくなったから。
「確かに、池崎がいたころはそうだったよ。君はとても安定して穏やかだった」
 それはそうだ、彼はまるで安定剤のように自分を癒してくれていた。

「でも今は違う。君は怒ってる、落ち着いてなんかない。冷たい怒りでいっぱいで冷静なように見えるだけだ」
「怒り?」
「悲しいのよりずっと厄介だよ。俺もそうだったからわかる。原因は全然違うだろうけど」
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