上 下
68 / 324
第十三話 愛する人

13-4.心の準備

しおりを挟む
 城山苗子理事長はずっと泣き崩れていて、美登利は傍らで背中を撫で続けていた。そうして初めて、この気丈な女性も齢を取ったのだということに気がついた。

 母を亡くした当の本人は至って冷静で、特に感情を表に出すこともなく淡々としていた。
「意地っ張りが」
 苛々と煙草に火をつけながら琢磨が吐き捨てる。いつもだったら自分の前での喫煙を咎めるのだが、美登利はこの日は黙っていた。

「ええかっこしいだからな、奴は」
「心の準備はできてたんだろうな」
 兄が囁いたのを聞いて美登利は悲しくなった。
 心の準備ができていれば別れも平気になるのか、泣かずにすむのか。本当に?




 カレンダーが二月に変わって一番大好きな季節が近づいてくる。
 坂野今日子から早々とチョコレートを貰って嬉しくなった。

「誠くんはまだ学校?」
「さあ……」
 幸絵が訊いてくるのに美登利も首を傾げる。
「このままじゃバレンタインの習慣も自然消滅だね。こうやって段々寂しくなっていくのねえ」
 どうも最近の母はやたらとしんみりしたがる。
 思っていたら巽がふらりと帰ってきたから一気に機嫌がよくなった。現金なものである。

 何を言われる前から巽はキッチンに立ってケーキを焼き始めた。
 これはっと美登利は後ろに立ってじっと見ていた。
 何年かぶりに兄が作ったオペラにお目にかかることができた。
「お母さん、これだよこれ。つやっつや」
「そうねえ」

 一口味わってじんわりと涙が浮かんできそうになった。
「美味しい?」
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
「何が?」
 小暮綾香と須藤恵が作ってくれたのを食べて、誰にでも作れるなどと思ってしまって。やっぱり兄のケーキが最高だ。
「しあわせ」

 浸っていたらバレンタインを何日もすぎてしまっていた。
 まるきり放置状態なのだが誠からお怒りの声は届かない。

 少し複雑な気分で河原で水面を眺めていたら、向こうから池崎正人が走って来た。
「先輩、なんで店にいないの」
「ごめんごめん」
「受かったよ」
 満面の笑みで正人が報告する。
「おめでとう。頑張ったね」

「キスしていい?」
「今度ね」
 場所が場所だからはぐらかしただけなのに彼は顔を赤くして俯いてしまう。
 真っ赤な首筋を見ていて彼が何を望んでいるのかわかってしまう。

「私としたい?」
 ぎゅっと眉根を寄せたいつもの表情で、真っ赤な顔をしたまま正人はきちんと顔を上げて頷いた。
「うん」
しおりを挟む

処理中です...