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第五話 月に泣く

5-4.「子どもができるわけじゃなし」

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 低く声を押し出したが目の周りが赤い。口元を押えながら兄に訊く。
「えと、亜紀子さんにするみたいにしちゃったんだよね?」
「ええ? そんなことあるわけないよ。あの人にはこんなことしないもの」
 美登利は声もなくぎゅっと目を閉じると、立ち上がって店を飛び出した。
 正人は慌てて後を追う。

「お、まえっ。今日という今日は許さない」
「ねえ、さっきからなんで村上くんが怒ってるの? 何様なの、君」
「そういうおまえは何様のつもりだよ、ああ?」
「お兄ちゃんのつもりだけど」
「だったらやっていいことと悪いことがあるだろうが」

「そんなにいけないこと? 子どもができるわけじゃなし」
 は? と目を剥いて達彦は一瞬息を止める。
「なんだそのトンデモ理論は! だったらインサートしなけりゃ何やってもいいってことかよ」
 自分で言ってしまってから具体例を想像してめまいがした。

 そんな達彦の考えを読んだように巽が失笑する。
「やだなあ、村上くん。兄妹でそんなことするわけないじゃない」
 この男はっっ!! 唖然と黙り込む元級友を一瞥して巽は琢磨を振り向いた。
「実家に行くよ。あの子に言っといて」
「……ああ」
 煙草に火をつけながら琢磨は頷く。

 巽が出ていくと達彦は琢磨に怒鳴った。
「なんなんだ? あの壊れっぷりは! 前よりエスカレートしてんじゃねえかっ」
「俺に言うなよ」
 煙草を差し出され、舌打ちしながら一本抜き取る。
 自分の手が震えているのに気づいて、椅子に座ってカウンターに肘をつきそのまま頭を抱える。

「あの野郎」
 吐き出しつつも罵りたいのは自分自身のことでもあった。想像したとき、身の毛がよだった。見下したりしない、彼女がどんなふうでもすべて受け入れると決めたはずなのに。
(みどちゃん、頼むよ)
 どうか揺るがないで。行ってしまわないで、向こう側へは決して。




 イベント広場から河川敷に下りて橋桁の陰に入ったところで、ようやく美登利は立ち止まった。
 息をついて何度も何度もくちびるをこする。
「もうやだ、なんなの……」
「先輩」
 正人を振り返って涙ぐむ。
「おかしいよね、ほんとやだ」
 正人は眉を寄せて彼女の手を止めた。震えているのを知られたくなくて平気なふりをして言葉を吐き出す。

「おかしいよね、こんなの」
「うーん、うちの兄貴もおかしいからなんとも。ガキの頃は普通にちゅうとかされてたし」
 びっくりして美登利は正人を見る。
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