天使と悪魔

奈月沙耶

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15.天女の羽衣

15-2

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 近年めっきり口数の少なくなっている城山夫人は、達彦と、その後ろに音もなくついてきていた駈とを順々に見て、ありがとうと頷いた。住宅街へと続く石段を、手すりのパイプにすがりながらゆっくりと上り始める。

 この階段を上れなくなったら引退する、そう発言していたのはかれこれ十年以上前のことだが、杖を用いながらいまだにこうして方々に出向いている。たいしたご婦人だと達彦は感心する。当の本人には伝わっていないだろうが。

 自宅の前で、苗子はゆっくりと体を返して父子を眺めた。
「お茶に寄っていく?」
「いえ、ここでお暇します」
 辞退して微笑む達彦ではなく、となりの駈へとじっと視線を注ぎながら苗子もそっと微笑んだ。

「この子は本当に美登利さんにそっくりね」
 駈が抱えている書籍に目を止めて更に言った。
「あんなに活発なのに、本もたくさん読んでいたわ」
「これ、お母さんが子どもの頃に読んでたって、おじいちゃんが教えてくれました」
 手にしていた分厚い本を駈が見せると、苗子は目尻の皺を深くした。
「たくさん本を読みなさいね、それが心の財産になるのだから」

 教育者らしい発言をする彼女の横顔を見ながら達彦は思った。達彦のことを「特別な生徒」だと苗子は言うが、それは中川兄妹(特に巽)のことだってそうだ。苗子の姉であり対立している聖城学園の千重子理事長(相変わらず実権を握っているらしい)もいまだに美登利に執着しているらしい。
 つまり、城山姉妹もまた、あの兄妹の犠牲者といえるのかもしれない。

 そんな達彦の思考が見えたわけではあるまいが、苗子は笑みを消して呟くように言った。
「私は自分の家庭を持たなかったから、だからよけいに自分のきょうだいとのしがらみを強く感じるのかもしれない。それで随分と迷惑をかけてしまっていたって、この年になって気付いたの。先生なんて呼ばれていたって、簡単なことが分からなかったりするものよ」

 誰へともなく紡がれた言葉だったが、真率な表情で聴き終わった駈は、黒い丸い瞳で老婦人を見上げた。
「ボク、おにいちゃんのことも、おねえちゃんのことも大好きです」
 苗子はふわりと駈に微笑みかけてから達彦へと目を上げた。
「大多数の人が肯定するならそれが幸福だって、あなたに話したことがあったわよね。あれもそう、誤りだった。自分が信じてもいないことを押し付けようだなんて」
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