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その晩、月見の場に相応しくない無粋な話を切り出したのは、家隆の方だった。
「近頃、不快な噂を耳にする」
「ほう?」
「……隠岐の院だがな」
「後鳥羽院か。おぬし手紙を送っているのだろう。お元気か? あの騒動からこっち鎌倉方はえらく警戒しているからな。目を付けられるような真似をしなくても良かろうに」
「わたしのことはどうでもいい。定家、おぬしのことだよ」
家隆は心底不快気に吐き捨てた。
「院が隠岐に御隠居あそばされ、定家は手を叩いて喜んでいるに違いない、などと」
すると、憤慨している家隆をよそに定家は肩を揺らして笑い転げた。
「何を言い出すかと思えば。そんなことを気に病んでいたのか」
「おまえ、腹が立たないのか?」
「まあ、本当のことではあるからな。図星を指されて怒るのはまずかろう」
さらりと言ってのける相手に返す言葉をなくし、家隆はがくりと肩を落とした。
このところ参内を控えている定家にはこの風聞がまだ聞こえていないようだが、耳に入ったが最後、騒ぎになるのは間違いないと青ざめて、だったら自分の口から伝えて何とか宥めようと気負いこんでやって来たというのに。
前後の見境がつくくらいには、彼も成長したということか。だったらもっと早くにその分別を付けて欲しかった。詮無きこととはいえ、家隆はそう思わずにいられない。
この激情家の友人が引き出した騒動は数知れず。家隆の被った被害も数知れず……。これほど激情的な人物が、歌では感情を殺そうとするのだから不思議である。
「院はおれを嫌ってたし、そのおかげで出世できなかったのは事実なのだから、それくらい誰でも言うだろう」
それは、事もあろうに上皇の見ている前で冠を吹っ飛ばしての殴り合いの喧嘩をすれば、勘気を被って当然であろう。家隆は内心で肩を竦める。
しかし、後鳥羽院と定家の確執はなかなか根が深い。定家が「父の歌はあさあさだ」と評したのを聞き付けた院が「傍若無人。理にも過ぎたり」と激怒したという逸話は今でも語り草になっている。
院は定家の言葉を若さゆえの増長と取ったのであろうが、彼と同じく俊成を師として歌を学んでいた家隆は本当にそうだろうかと首をひねったものだ。
父である俊成を否定する言葉を吐かねばならないほど、定家は辛かったのではないだろうか。
平安時代末期。
保守派と革新派、ひいては二条家と六条家の対立によって混乱した歌壇を統一したのが、藤原俊成であった。
彼は藤原基俊を師としたが、彼らと対立していた革新派の旗手源俊頼について「俊頼は憎し、されど歌は憎からず」と語ったことからしのばれるように、俊成は寛大で穏やか、苦労人ゆえに包容力のある人物である。
比べて息子の定家は激情的、偏執的、自尊心が高く世俗と妥協することを良しとしない。その差異は、ふたりの歌にも表れている。
俊成が歌の出発点を人間に置きあくまで人間を根本としているのに対し、定家のそれには人間が存在しない。何故これほどまでに、と思うほど生の感動を出さずに理性に置き換えて歌を作る。抒情性の点で言えば、家隆の方が俊成の作風を良く引き継いでいる。
とはいえ、定家の才能を後鳥羽院も「定家は生得の上手」と才能を評している。定家は天才だ。なによりその言葉の豊かさがそれを証明している。
その天才的な歌才を持つ彼をして苦悩せざるを得なかったこと。大歌人俊成を父に持つということ。
俊成の子という肩書は歌人として生きるうえでは有利であったろう。しかしそれ以上に苦痛が伴ったはずだ。
それでも、彼は選んだ。歌人として生きることを。俊成を父とし歌人として生きることを選んだ時から、彼は父を否定しなければならなくなった。父を否定することで自分を認めようとしたのではないか。本人に確かめるまでもなく家隆はそう思うのだ。
「それで機嫌が悪かったのか」
「そうか?」
「珍しく怖い顔をしていた」
言われて家隆は扇の陰で緩く息をついた。
「友人が悪く言われて機嫌よくいられるか」
「家隆は情が厚いからな」
「情が濃いのは、おまえだろう」
切り返すと、定家はおもむろに空を仰いでつぶやいた。
「おれはおぬしのように誠実ではない」
冗談めかした声音にその意を汲み取って、家隆も同じように虚空を仰ぐ。
誰が見ていても、誰が見ていなくとも関係なしに、空の見事な望月は冴え冴えと光り輝く。幽玄に、淡々と――。
「一首、詠じてみぬか? 月光の歌人殿」
ちらとその目に笑みをかすめて、定家が促す。
「そうさな……」
苦笑にも似た笑みを唇にのぼらせて、家隆は扇を月に向かってかざした。
俊成が確立した幽玄体を更に発展させた定家の歌論は多方面に影響を与え、彼は後々にまで当代最高の歌人として名をはせる。
晩年、定家はこう述懐している。
「俊成は歌詠みである。定家は歌作りである」
「近頃、不快な噂を耳にする」
「ほう?」
「……隠岐の院だがな」
「後鳥羽院か。おぬし手紙を送っているのだろう。お元気か? あの騒動からこっち鎌倉方はえらく警戒しているからな。目を付けられるような真似をしなくても良かろうに」
「わたしのことはどうでもいい。定家、おぬしのことだよ」
家隆は心底不快気に吐き捨てた。
「院が隠岐に御隠居あそばされ、定家は手を叩いて喜んでいるに違いない、などと」
すると、憤慨している家隆をよそに定家は肩を揺らして笑い転げた。
「何を言い出すかと思えば。そんなことを気に病んでいたのか」
「おまえ、腹が立たないのか?」
「まあ、本当のことではあるからな。図星を指されて怒るのはまずかろう」
さらりと言ってのける相手に返す言葉をなくし、家隆はがくりと肩を落とした。
このところ参内を控えている定家にはこの風聞がまだ聞こえていないようだが、耳に入ったが最後、騒ぎになるのは間違いないと青ざめて、だったら自分の口から伝えて何とか宥めようと気負いこんでやって来たというのに。
前後の見境がつくくらいには、彼も成長したということか。だったらもっと早くにその分別を付けて欲しかった。詮無きこととはいえ、家隆はそう思わずにいられない。
この激情家の友人が引き出した騒動は数知れず。家隆の被った被害も数知れず……。これほど激情的な人物が、歌では感情を殺そうとするのだから不思議である。
「院はおれを嫌ってたし、そのおかげで出世できなかったのは事実なのだから、それくらい誰でも言うだろう」
それは、事もあろうに上皇の見ている前で冠を吹っ飛ばしての殴り合いの喧嘩をすれば、勘気を被って当然であろう。家隆は内心で肩を竦める。
しかし、後鳥羽院と定家の確執はなかなか根が深い。定家が「父の歌はあさあさだ」と評したのを聞き付けた院が「傍若無人。理にも過ぎたり」と激怒したという逸話は今でも語り草になっている。
院は定家の言葉を若さゆえの増長と取ったのであろうが、彼と同じく俊成を師として歌を学んでいた家隆は本当にそうだろうかと首をひねったものだ。
父である俊成を否定する言葉を吐かねばならないほど、定家は辛かったのではないだろうか。
平安時代末期。
保守派と革新派、ひいては二条家と六条家の対立によって混乱した歌壇を統一したのが、藤原俊成であった。
彼は藤原基俊を師としたが、彼らと対立していた革新派の旗手源俊頼について「俊頼は憎し、されど歌は憎からず」と語ったことからしのばれるように、俊成は寛大で穏やか、苦労人ゆえに包容力のある人物である。
比べて息子の定家は激情的、偏執的、自尊心が高く世俗と妥協することを良しとしない。その差異は、ふたりの歌にも表れている。
俊成が歌の出発点を人間に置きあくまで人間を根本としているのに対し、定家のそれには人間が存在しない。何故これほどまでに、と思うほど生の感動を出さずに理性に置き換えて歌を作る。抒情性の点で言えば、家隆の方が俊成の作風を良く引き継いでいる。
とはいえ、定家の才能を後鳥羽院も「定家は生得の上手」と才能を評している。定家は天才だ。なによりその言葉の豊かさがそれを証明している。
その天才的な歌才を持つ彼をして苦悩せざるを得なかったこと。大歌人俊成を父に持つということ。
俊成の子という肩書は歌人として生きるうえでは有利であったろう。しかしそれ以上に苦痛が伴ったはずだ。
それでも、彼は選んだ。歌人として生きることを。俊成を父とし歌人として生きることを選んだ時から、彼は父を否定しなければならなくなった。父を否定することで自分を認めようとしたのではないか。本人に確かめるまでもなく家隆はそう思うのだ。
「それで機嫌が悪かったのか」
「そうか?」
「珍しく怖い顔をしていた」
言われて家隆は扇の陰で緩く息をついた。
「友人が悪く言われて機嫌よくいられるか」
「家隆は情が厚いからな」
「情が濃いのは、おまえだろう」
切り返すと、定家はおもむろに空を仰いでつぶやいた。
「おれはおぬしのように誠実ではない」
冗談めかした声音にその意を汲み取って、家隆も同じように虚空を仰ぐ。
誰が見ていても、誰が見ていなくとも関係なしに、空の見事な望月は冴え冴えと光り輝く。幽玄に、淡々と――。
「一首、詠じてみぬか? 月光の歌人殿」
ちらとその目に笑みをかすめて、定家が促す。
「そうさな……」
苦笑にも似た笑みを唇にのぼらせて、家隆は扇を月に向かってかざした。
俊成が確立した幽玄体を更に発展させた定家の歌論は多方面に影響を与え、彼は後々にまで当代最高の歌人として名をはせる。
晩年、定家はこう述懐している。
「俊成は歌詠みである。定家は歌作りである」
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