僕たちのルール

奈月沙耶

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 通話を切り、ほっとしたように顔を上げた彼女に、僕は特に挨拶もせず話しかけた。
「ストレス溜まってる?」
「うん、そうかもね」
 にこりと笑って身を潜めるようにしていたソファから彼女は立ち上がった。相変わらず上品できれいだった。
「カラオケ行こうか?」
 彼女は戸惑うように首を傾ける。
「もしかして、行ったことない?」
「音がうるさいのが嫌なの。歌には自信がないし」
「でも大声出すと、すっきりするよ」
「……そうね」

 時間差をつけて別々に店を抜け出し、ふたりでカラオケボックスへ行った。ふたりだけなのにやたらと広い部屋に通されてしまって辟易したけど、僕たちには丁度良いと思えた。

 謙遜した割に彼女は歌が上手で、少し古い女性ミュージシャンのヒットソングを品良く歌っていた。二杯目の中ジョッキが空になる頃には喉が滑らかになってきたのか、学生時代には縁のなかったようなシャウト系の曲を歌い始めた。弾けて、楽しそうだった。

 おかげで掠れて声にならない吐息が余計に艶めかしくて、その後移動したベッドの上では朝まで彼女を放せなかった。

「奥さん、可愛い人だね。知ってるよ、見かけたことあるの」
 シーツを胸元に手繰り寄せながら、彼女は体育座りになって僕を見上げた。高校時代、どきっとさせられたあの角度で。
「妬かないよ。羨ましいけど」
 上品な美しさは変わらない。けれどどこか強かさを覗かせて。

「また、逢えたらね」
 そうだね、君がそう言うのなら。



 その後、彼女が夫らしい年配の男性と歩いているのを街で見かけた。彼女はそっと旦那の腕に手を添えて彼を気遣いながら歩いていた。かつてはあんなに凛として姿勢が良かった背中は、相手に合わせるように今は丸まっている。
 僕は目の端でそれを捉えながら息子の手を妻とふたりで引いて反対方向へと歩いて行った。僕らのルールそのままに。

 やがて成長した息子が就職し無事に独り立ちする時期を見計らっていた妻から、離婚届を差し出された。
「言わなくても、分かるよね?」
 僕は黙って妻に従い判を押した。



 独りに帰って侘しい暮らしの中で、再び彼女のうわさを聞いた。
「まだドレス着るつもりらしいよ」
「良いんじゃない? 美人なんだから」

 今日、彼女は三度目の結婚をする。今度もかみ合わなかったのか。僕は素知らぬ振りをしなければならないのか。そんなルールは、何のためにあったのか。
 ルールなんてクソくらえだ。初めての情動に身をゆだね、僕は体ひとつで飛び出した。
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