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本編
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しおりを挟む「エクストリーム高嶺の花作戦が失敗して? 告白希望者の行列できて? 彼氏のフリしてもらってる? どれもこれもこれっぽ…………っちも! 聞いてないんですけど?」
「なっちゃん、それはほんとにごめんなさい……。ありえない展開ばっかりで全部夢かも?って思ってたら気付けば一ヶ月が経過してて……」
「随分ぐっすり眠ってたんだね。もう目は覚めた?」
「はい……覚めました……」
なぜ春乃が今、姉の夏希に激詰めされているのか。それは三日前に遡る。
佐倉と『やりたいことリスト』を作ってから二週間ほど、ついに今週末に佐倉と一緒に映画を見に行くことになった。家族以外の誰かと二人きりで出かけるなど生まれて初めての春乃は、何か粗相があってはいけないと当日気をつけることと服装について夏希に相談したのだ。今思えばこれが悪手であった。
春乃はこれまで夏希の着せ替え人形に甘んじることはあっても自分からファッションに興味を示したことなど一度としてなかったのだ。当然夏希が弟の心境の変化を見逃すはずもなく、前日の土曜日に実家に乗り込み、事情を洗いざらい吐かせたというわけである。
「文化祭終わってから様子が変だとはママから聞いてたけど、なんでそんな状況になってることを一言も言わないかなあ?! ねえママ!」
「そうよねえ。その佐倉くんって子はどんな子なの? きちんとお付き合いするならまだしも、恋人のフリなんて進んでやることかしら? ママ心配だわあ」
「言い出すタイミングがなかっただけだって! 佐倉だって別に普通の奴だよ」
「普通って何よ? そいつのSNSアカウントは見たことあるの? 春乃の写真を勝手にアップしてるかもしれないよ」
「アカウントは知らないけどネットに顔を晒されるのなんて今更だし……」
夏希はきりきりと目尻を釣り上げ、母は頬に片手を添えてしきりにため息をつく。
「とにかく! 今は佐倉のおかげで平和に過ごせてるんだから別にいいじゃん!」
「ハル! いい訳ないでしょうが! あんたねえ、自分のことなんだからもっと真面目に考えなさいよ。あとで取り返しのつかない事になる可能性だってあるんだからね!」
「真面目に考えてるよ! また不登校になるくらいなら多少リスクを負ってでも学校に行った方がマシだって言ってるの!」
「きちんと学校に通いたいって素晴らしいことだと思うわ。でもね他にもっと良いやり方があるんじゃないかしら? ハルくんにその気がなくても、佐倉くんは本気になっちゃうことだって充分あり得るじゃない」
春乃がどう弁解しても二人は納得するつもりが無いようだった。二人してやれ何か裏があるだの利用するつもりだのと根拠もない主張をやめない。しまいには親は何の仕事をしているのだなんて言い始めて胸のむかむかを抑えることができなくなってしまった。
「良い加減にしてよ! さっきからなっちゃんも母さんも佐倉の悪口ばっかり……! ほんとうるさい! 話したこともないくせに勝手なこと言うなよ!」
春乃の大声に夏希と母は口を噤んでぽかんとこちらを見上げている。胸の内でとぐろを巻くもやもやが出口を求めてもう一度爆発しそうになった。それをぐっと飲み込み、踵を返してリビングを飛び出した。自分の部屋へ駆け込むとベッドに飛び込み枕に顔を押し付けて思い切り叫んだ。それでも足りずにベッドを力の限り殴りつけた。
誰も何もわかっていない。誰も春乃の気持ちをわかってくれない。佐倉に頼らざるを得なかった春乃のつらさを想像もできないのだ。佐倉がどんな奴かも聞かないまま悪人と決めつけて罵るのだ。最悪だ。最悪で最低だ。
ぐわ、と目の奥が熱くなる。鼻がツンと痺れて苦しさに口から息を吸えば目の端から雫がこぼれた。こらえようとしても次から次に溢れてきて切りがない。何に対する涙なのかもわからないまま春乃はただ泣き声が漏れぬようぎゅっと顔を枕に押し付け直した。
それからどれくらい時間が経っただろうか。日も傾き部屋が薄暗くなり始めた頃、控えめにドアがノックされた。どうせ夏希か母だろうから無視を決め込もうと毛布の下で身を固くした。ところがドアの向こう側から聞こえた声はどちらのものでもなかった。
「春乃くん、省吾です。すこしお話できるかな?」
省吾というのは夏希の夫の名である。夏希とは正反対の穏やかな人柄で、父が長期の海外出張で家を空けることが多い若宮家内で唯一の同性の味方のように思っている。
そんな省吾の訪問に春乃はもぞもぞとベッドから這い出ると鼻水をかんでからゆっくりドアを開いた。
「おじゃまします。春乃くんと二人でゆっくり話すの久しぶりだね」
「うん……」
柔和に微笑む省吾を部屋に招き入れてひとつしかない椅子を彼に勧めると春乃はベッドに腰掛けた。
「夏希を迎えに来たんだけど、のっぴきならない状況になっててびっくりしちゃった」
省吾は笑いながら持ってきたマグカップを春乃に差し出した。
「夏希とお義母さんに聞いてみてもいまいち要領を得ないんだけど何があったの?」
いきなり本題に入った省吾に戸惑うことはない。春乃は彼のこういった回りくどさのない気性を好ましく思っている。しかし、それと素直に話せるかどうかは別の問題だった。
「……」
「二人とも驚いてたよ。『ハルが怒鳴るのなんて初めて』って」
「……怒鳴ったのは、悪いと思ってる」
手元のマグカップに視線を定めてボソボソと呟けば省吾が小さく笑うのが聞こえた。
「思春期なんだからがんがん反抗したら良いんだよ。僕なんか実家の壁に何個穴を開けたことか」
「えっ、省吾さんが?」
「そう。この温厚な省吾さんが」
自立心の芽生えってやつだね、と省吾は懐かしむみたいにとんでもないことを言う。破壊や暴力といった概念から一番遠いと思っていた人物の衝撃的な告白に春乃は己の不機嫌をしばし忘れた。
「とりあえず先に明日着ていく服を選ぼうか。初デートだもんねえ。どんな雰囲気にしたい?」
「でっ……! デートとかじゃないです……。佐倉は彼ぴのフリをしてくれてるだけで」
「ははは、ごめんごめん。ただの特別なお出かけだったね」
省吾は椅子から軽やかに立ち上がりクローゼットを開いた。春乃もちょうど良い温度まで冷めたお茶をくぴりと一口飲んでから彼のそばへ寄って行った。
春乃は省吾に服を選んでもらいながらポツポツと佐倉との経緯を話した。文化祭での事件のこと、見も知らぬ人たちに一方的に告白されたこと、困り果てていた春乃に唯一助けを差し伸べてくれたのが佐倉だったこと。あまりうまく話せなかったし、何度もつかえたり言葉に詰まったりしたけれど、省吾は最後まで春乃の話を遮ることはなかった。
「うんうん、いいんじゃない? 自分で見てみてどう?」
姿見の前で選んでもらったコーディネートを何度も確認しながら春乃は頷いた。上は白シャツと薄いベージュのアーガイル柄のニットベット、下はセンタープレスの入った黒のパンツだ。全体的にゆったりとしたシルエットだがだらしなくは見えない。
「いい、と思います」
「だよね! 佐倉くんもきっと褒めてくれるよ」
「佐倉ならそうですね」
春乃の一言に省吾は目を丸くした。何かおかしなことを言ったかと彼に向かって首を傾げれば、省吾はたちまち満面の笑みを浮かべた。
「春乃くんがそんな顔で誰かの話するの初めて見たなあ」
「そんなってどんな?」
「え? 聞きたい?」
目をきらきらさせて両手を自らの頬に添えた省吾に春乃は頬を引きつらせる。
「やっぱりいい」
「そんな! ……ふふ、まあこういうことは自分で気付くのが大切だからねえ。特に春乃くんはね」
含みのある言い方だ。春乃はきゅっと眉根を寄せたが、省吾は気付いていないのか腕を組んで考え事を始めてしまった。
「夏希たちには悪いけど、僕は春乃くんと一緒に佐倉くんに与したいなあ。どうするかな……」
ぶつぶつと思索に耽る省吾は放っておいて、春乃はクローゼットに顔を突っ込んでバッグを探すことにした。確か夏希が置いていった黒の小さいバッグがあったはずだ。アパレル系の会社に勤める夏希とスタイリストの省吾は季節ごとに春乃のクローゼットに大量の服や小物を供給するのであまり全体像を把握できていないのだ。
「ねえ、春乃くん……あ、鞄はそれ持ってくの? 服がカジュアル寄りだから小物はそれくらい綺麗めな方がいいね。靴も……って違う違う」
クローゼットから見つけ出したバッグとともに省吾に向き直ると、彼はお手本みたいなノリツッコミを披露してくれた。
「なに?」
「夏希とお義母さんを納得させる良い考えがあるんだけど、乗ってみない?」
普段は理知的な義兄がとっておきのいたずらを思いついた子どものように至極楽しそうに笑うので、春乃は内容はさておき何も言わずに頷いておいた。
*
「ハンカチとティッシュは持った? 防犯ブザーは? 携帯の充電は大丈夫? 何か困ったことがあれば交番か駅員さんか店員さんか、とにかく仕事中の大人に助けを求めるのよ、わかった?」
「わかった」
翌朝、玄関先での念入りな確認に頷くと母は不安を隠しきれない顔で春乃をしっかりとハグした。ちなみにこのやり取りは三回目である。
「省吾、任せたからね」
「任されました」
一方の姉夫婦は最低限の言葉だけで互いに深く頷き合うのみだった。言葉なしで通じ合っているといった感じである。視線だけで人を殺せそうな夏希の鋭い眼光に怯むことなくニコニコしている省吾に感心する。あの視線で睨まれたら春乃は失神すると思う。
「それじゃあ行こうか」
「はい。いってきます」
「いってらっしゃい」
省吾に促され春乃は玄関をくぐった。
省吾から提案された『考え』はなんてことのない内容だった。明日、佐倉との待ち合わせまで省吾が付き添うというだけだ。それが夏希と母を説得するだけの力を持つとは春乃には思えなかったのだが、二人は渋々といった様子ではあったもののきちんと了承してくれた。
あとで省吾に聞いてみたら「僕の人を見る目は確かだからね」と言われた。苛烈としか形容できない夏希と結婚して仲良くやっているところを見るとあながち冗談でもない気がする。
若宮家の住むマンションから駅までは徒歩で五分ほどである。佐倉とは改札の前で落ち合う予定だ。集合場所に到着すると他の利用客の邪魔にならないよう壁際に二人で並んだ。
集合時間まではまだ一時間ほど余裕がある。省吾いわく待ち合わせというのは早ければ早いほど都合がいいらしい。
「佐倉くんにもう着いたって送っとこうか」
「あ、はい」
省吾に言われた通りに佐倉へメッセージを送ると、ものの数秒で既読がついた。
[え、早くない? まだ一時間前じゃん]
[ごめん、ちょっと待ってて 俺あと十分くらいかかる]
メッセージ画面を省吾に見せると彼はしめしめと悪い笑顔を浮かべた。
「なんで嬉しそうなの?」
「計画通りだからだよ。人間は焦ってると素が出るからね」
「ふうん……」
あまり理解はできなかったが、省吾が良いというならそれでいいのだろう。スマホを鞄にしまい込み佐倉の到着を待った。
「あれ、袖にゴミがついてる。ほらこっち」
十分ほどが経ちそろそろ到着かというところで省吾が春乃の二の腕辺りを取った。軽い力で腕を引かれて改札に背を向ける格好になる。
「どこ? ついてなくない?」
「待ってね、今取るから」
ゴミひとつ取るのにいやに時間をかける。二人の横を多くの人が通りすぎてゆくのが見えて、電車が着いたのだなと考えていたとき。
「春乃……!」
聞き慣れた声で名前を呼ばれたかと思うと、ぐいと大きな手で肩を引き寄せられた。そのまま抱き込まれ、視界が黒一色になる。
「さくら──」
「すみません、お知合いですか?」
佐倉は省吾にまっすぐ視線を定めていた。息が上がっている。走ってきたのだろうか。
「さっ、佐倉! この人はっ……!」
「あっはっは! ご、ごめん、勘違いさせちゃったよね、はっはっは」
事情を説明するより先に省吾がひいひい言いながらなんとか謝罪を口にした。佐倉はといえば爆笑する省吾と春乃を交互に見てぽかんとしている。
「省吾さん! 笑いすぎ! 佐倉、この人はなっちゃん……姉の旦那さんの省吾さん。僕一人で駅に行くのは心配だからってついて来てくれたの」
「あっ……あー、そういう……」
どうにか笑いをおさめた省吾は目尻をぬぐいつつようやく顔を上げた。
「じゃあ仕事があるから僕はもう行くね。佐倉くん、春乃くんのことお願いします」
「は、はい……」
最後の最後は大人らしい態度で悠然と去っていった。なんとなく気まずくて省吾の背中を見送ったままでいると隣からこれ以上なく大きなため息が聞こえた。そちらへ顔を向けると、佐倉は両手を腰に当てた格好で深く俯いていた。悪気はなかったとはいえ随分驚かせてしまった。謝らなければと小さく名前を呼ぶと、佐倉はすぐに上体を起こしてにこりと笑った。
「佐倉、ごめん。驚かせたよね」
「んにゃ、平気。……お願いされたし合格だったってことかね」
「え?」
ぼそりと何か聞こえたので問い返すと、佐倉はなんでもないというふうに首を横に振った。
「おしゃれしてんね」
「へ、変じゃない?」
「ふふっ、なんでよ? おしゃれって言ったじゃん」
「さっ、佐倉は私服も黒だね」
佐倉はTシャツの上にスポーツブランドの上着を羽織り、ジーンズを履いていた。深めのバケットハットをかぶり指にはいくつも指輪をはめている。良く似合っているが佐倉以外の人が同じ格好をしていたら少し怖くて近付かないと思う。春乃がそんなふうに考えていることなど露知らず、佐倉は帽子を外すとぽすんと春乃にかぶせた。
「被っておきな。じろじろ見られるの嫌いだろ」
「いやでも、顔が見えなかったらわざわざ僕を連れ歩く意味がないじゃん」
気を遣ってくれるのは嬉しいが、春乃の役割を放棄するわけにはいかない。すぐに帽子を脱ぐとつま先立ちで佐倉の頭に戻した。佐倉は無言のまま片眉をくっと上げると、そのまま横を通り過ぎる人の流れへ視線を投げた。そしてどういう訳か、先ほどよりもしっかりと帽子をかぶせ直してきた。
「ちょっと……!」
「俺、恋人を見せびらかしたくないタイプなの」
至近距離で顔を覗き込まれた。真っ黒な瞳がいやに真剣で、少し怒っているようにさえ感じられて春乃は抵抗するのをやめた。
佐倉は小さく息を吐くと帽子のつばに触れていた春乃の指を絡め取って解けないくらいしっかりと手をつないだ。
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