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やくそく【約束】
しおりを挟むやくそく【約束】必ずその通りのことを実行すると相手方に伝え、了承を得る(相互に取り決める)こと。また、その内容。
交番に着くと中には同じ詰襟姿のもう少し若い男の人がいました。私を連れてきた年配の男の人が何か耳打ちをするとその人は敬礼をして足早に交番から出て行きました。そちらを目で追っていると『巡回の交代を頼んだのです。あれは手先が不器用ですから』と答えてくれました。納得して私は怪我をしている方の足袋を脱いでみると、表に滲んでいるよりも血がたくさん出ていたようでした。男の人がもう一つ椅子を用意して足を置くよう言われたので両足を伸ばす格好で乗せました。手当てをする間、男の人は最近朝夜は涼しくなったとか風鈴をしまう時期を悩んでいるとか他愛もない話を続けていました。手当てが終わったので出発する前に道順を聞くと男の人は『うーん、どの道で行くんだったか。ちょいとお待ちください。ああ、お茶でもお飲みになって』と言って麦茶を出してくれました。私が麦茶を飲んでいる横で大きな地図を広げているのを見守っていると車の音が近づいてきて交番のすぐ外で停まりました。嫌な予感がしてそちらを見ると今まさに怖い顔をした肇様がその車から降りてくるところでした。物凄く大きな音を立ててドアを閉め、つかつかとこちらに歩いてくる肇様から目を逸らし、眼鏡をつけたり外したりしながら地図を見ていた男の人を振り返ると、彼は肇様の方を見て『おやおや当たりだったようですなあ』とのんびりした声で言いました。『君なあ! 心配したんだぞ、家の中にも外にもどこにもいないと松田さんからいきなり連絡があって! 急いで帰ってみれば部屋も荒れた様子だし、拐われたとか事故にでも遭ったんじゃないかとか、あちこち探し回って──』と大きな声を出す肇様を男の人が間に入ってまあまあと宥めました。肇様がお仕事を途中でやめてまで私を探すとは、いえそもそも私を探さないだろうと思っていたのでこんな事態になるとは考えていませんでした。私は脱いでいた草履を裸足のまま履き、肇様の前まで行って深くお辞儀をしたあと、その横をすり抜けて交番から出ようとしました。しかし肇様は『いやいやいやいや、待て待て!』と言って私の腕を掴みました。『なんのお辞儀なんだ?! はいどうぞと行かせるわけがないだろう!』と怒鳴るので私もむっとして掴まれた腕を思い切り振りました。九条様に肇様には何も言うなと言われているので事情をお話しすることはできません。しかし何も言わないままでは肇様は私の腕を離してくれないし、肇様の方が力が強いので振り解くこともできません。『とにかくもう夜も遅いから一回家に帰ろう。事情なり不満なり落ち着いてから聞くから』と言って腕を引き寄せ肩を抱かれそうになったので私は咄嗟に『レンゲショウマ!』と叫びました。肇様は驚いた様子で私から手を離すと『い、今それを言うのか、それは反則だろう』と言いました。反則もなにも使う場面は決められていません。私は片足を庇いながらできるだけ早く走って交番を飛び出しました。後ろの方で『いいんですか?』『いいわけないでしょう! ジュンサドノも一緒に来て間に入ってください!』という会話とともに肇様と男の人が追いかけてきました。あっという間に追いついてきた肇様が私の横に並んで『なあ、頼むから何か言ってくれないか? 何も言わないまま出て行ったり、ようやっと見つけても必死で逃げたりされるとさすがの僕も参る』と言いました。私は足を動かすのをやめないまま考えて、家に帰るとだけ答えました。『それは僕も賛成だ。君は五キロ以上歩いているし、僕も夕方から動き通しで疲れた。家に帰って風呂に入って夕飯を食べたらきっと冷静になれる。人間は疲れている時と空腹の時は冷静な判断ができない』とこんな時でもさらさらと澱みなく言いました。私は帰るのは肇様の家ではなくて自分の家だと答えました。おそらく九条様に口止めされている範囲をやや超えていますがそれくらい言わないと納得してくれない気がしたのです。『君の家って斎明寺家のことか? 行きたいならこっちの方向ではないし、車で行ったらいいじゃないか』と返され私は足を止めました。そして後をついてきていたジュンサドノさんにもう一度町の方向を尋ねました。ジュンサドノさんは息を弾ませながら『方向自体はこちらであっていますが、本当に歩いて行かれるのですか?』と言ったので私は頷きました。ジュンサドノさんはそれ以上何も言わず肇様を見上げました。肇様は頭をがりがりと掻き『もうここまで来たら君の気の済むようにしたらいい! ジュンサドノは彼女についていてください! 夜道は危険ですから!』と言ってくるりと背を向けると来た道を帰ってゆきました。私は両手を握りしめ唇を噛んで人もまばらになり始めた道を進みました。隣をジュンサドノさんが歩きながら『ご主人と喧嘩でもしたんですか? 篠花さん、すごい剣幕で本署にやって来てあなたが突然行方をくらましたから捜索しろって現場指揮まで始めたって話ですよ。華族様だからってのもあるだろうけど、宥めようとした人全員言いくるめられちゃって署長も何も言えなかったそうな』と言って笑いました。『確かに口喧嘩になったら負けちゃいそうですもんねえ。モクヒでショウモウセンの方が勝機がありますわ』と続けました。私は何も言わずに黙々と歩きました。すると後ろから車の音が聞こえて来て真横で停まりました。また車から肇様が降りて来て『歩いていたら朝になる! 車で行くぞ!』と言って後部座席のドアを開きました。私が乗るのを躊躇っていると『君の気の済むようにしろと言ったろ。僕も最後まで付き合う。しかし、運転手の雇い主は僕で知らぬ間に僕の家に帰るのではないかと言う君の疑念はもっともだ。ジュンサドノ、運転はできますか?』と車の横で腕を組み仁王立ちをして言った肇様にジュンサドノさんは『はっはっ! 良いですよ。これから夜勤でしたから、朝までお付き合いしましょう』と笑って運転席に回り込みました。『これで公平だろう。ジュンサドノは誰の味方でもないが、警官はどちらかと言うと女子供老人の味方だ』と言ってもう一度私に車に乗り込むよう促しました。私は俯いて唇を噛んだまま運転席側に回り込んで自分で後部座席に乗り込みました。そして隣に肇様、助手席には運転手、運転席にジュンサドノさんを乗せて車は走り出しました。
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