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にくらし・い【憎らしい】

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にくらし・い【憎らしい】自分や自分の側の者に何らかの物質的・精神的な損傷を与えた相手に対して憎いと思う気持をいだく様子だ。



 突然目の前に現れた肇様に私はいたく驚いて後ろにひっくり返りそうになりました。危ういところを原因である肇様に腕を掴まれて事なきを得ました。肇様は口元をぐにっと曲げて『寝室は僕と一緒だから』と早口で言いました。まだ驚いている私の身体を引き寄せると腰に両手を回して至近距離で『あと夕飯の後はラジオ禁止。蛍が逃げる』と言われました。私が頷くと肇様はフンと鼻を鳴らして身体を離してくれました。でも手は握ったまま『蛍、もう飛び始めてるよ』と言って階段を上がり二階の一番大きい和室に入りました。小さい明かりが一つだけの薄暗い部屋に布団が二つ並べて敷いてありましたが、それを素通りして広縁に置かれた籐の椅子に座るように言われました。大人しく腰掛けると『麦茶とサイダーどっちがいい?』と聞かれたので麦茶と答えると肇様は無言で頷いて部屋を出てゆきました。閉じた襖をしばらく眺めていましたが、開け放たれた窓の向こうへ顔を向けると、別荘の生け垣のあたりにぽつぽつと緑色の光が点滅しているのが見えました。蛍と思しき光をもっとよく見ようと窓から身を乗り出していると襖が滑る音がして肇様が戻ってきました。『見えただろう? もう少ししたらたくさん飛び始めるから座って待つといい』と私に言って氷の入った麦茶を二つ机に置くと、肇様は向かいの椅子に座って窓の外に視線を投げました。『蛍は光る虫という印象が強いが実際は光らない蛍の方がずっと多い。本土で観察できるのは十種類いないくらいで南の島なんかではもっと種類がいるらしい。僕らが一般的に想像する蛍はゲンジボタルがほとんどで、あそこで光っているのもそう。幼虫はスイセイで川の中で暮らす。肉食でカワニナなんかを主に食べて次の夏にさなぎから成虫に孵る。ちなみに卵で産み落とされた時点でハッコウキカンを備えているから卵も光るよ』とさらさらと教えてくださいました。蛍を見るのを忘れてへえ、と感心していると肇様は『蛍が光る理由は敵を驚かせるためとか警戒色といって毒を持っていることを主張するためとか言われているが明確にはわかっていない。一番有力とされているのは、ハンショクコウドウに利用しているという説だ。つまりオスとメスがそれぞれ光ることによって自分の居場所を相手に伝え、つがいとなる個体を探すのに役立てているのだ。あそこの川辺はさしずめ見合い会場というわけだな』と続けました。肇様のお話の続きを待っていましたが急に黙り込んでしまったのでそちらを向いて首を傾げると肇様は『ラジオが好きなのか?』と問いました。私が頷くと『平日は延々とカブシキソウバを放送しているばかりだがそれでも面白い?』と重ねて問われたので私も同じように頷きました。肇様は私の顔をじっと見た後、顔を背けて窓の外を見ました。お話は終わりのようです。私も数が増えてきた蛍を眺めていると『僕は面白くなかった』と肇様が小さい声で言いました。驚いて肇様に顔を向けると頬杖をついていて顔がよく見えませんでした。『せっかく旅行に来たのに君はずっとラジオを聞いていたから僕は面白くなかった。明日もどこへも出かけずにラジオを聞く予定だから、明日も僕は面白くない』と言って視線だけをこちらへ向けました。『ここには君が聞いたことのない音も見たことのない物も山ほどある。今日は朝からずっと知らないことばかりで楽しかっただろう? もちろんカブシキソウバにだって日々変化する目新しさがあるだろうからラジオを聞くなとは言わない』と肇様は一旦言葉を切って椅子に座り直すと、私の方へ身体を向けました。『けれどラジオ以外のものと君を引き合わせる時間も作って欲しい。もっと言えば初めての物にはしゃいでいる君がかわいいからもっと見たい。あと蝶の採集も一緒に行きたい』と言ってぐにっと口元を曲げました。私は肇様の言ったことを頭の中で繰り返して、頷くことを躊躇いました。ラジオを聞いている時間が私にとって最も心安らぐ時間なのです。肇様の提案はその絶対的な安寧をひっくり返そうとするものに思えてならなかったのです。ラジオより価値のあるものはどんなものであれ私には必要ないのです。私は押し黙って俯きました。思った通りに動かない私に肇様が呆れてくれればいいと思いました。お前なんか要らないと言ってくれればいいと思いました。そしたらまた明日から部屋の隅でじっとしてラジオを聞いていられるのですから。目を瞑ってただじっとしていると『うわ、手つめたいな』とすぐそばで声がして膝の上に置いていた両手を掴まれました。反射的に身体を引きましたが、背もたれのせいでいくらも距離を取ることが出来ませんでした。肇様は私の足元にしゃがみ込み両手をしっかりと捕まえたまま『そんなに思い詰めないでくれ。いや、僕がいろいろと無神経なんだろうなあ。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ、すまない』と謝りました。そのまま肇様は横を向いて『しかし二週間ずっとラジオに負け続けるのは癪だ』『蝶の採集は絶対一緒に行きたい』『かわいい顔も絶対見たい』とぼそぼそと呟いたあと、ぱっと私の顔を見上げました。『出かけている間は僕がラジオ代わりになるのはどうだ? こう見えて口から先に生まれてきたとあらゆる人間から言われてきたからな。あんなぼそぼそ喋る顔もわからん男の声より楽しいと思うぞ』と興奮気味に言いました。にこにことこちらを見上げる肇様を見て、私は心底この人が嫌いだと思いました。肇様がラジオみたいな人だなんて初めて会った日からそう思っていたのです。好き勝手に振る舞って私の安寧をめちゃくちゃにするこの人が憎たらしくて仕方ありませんでした。そう思うのに私は己の意志に反して小さく頷いていました。こちらの心中など気にも留めず肇様は満足そうに『決まりだな』と言うと、立ち上がって私の手を引きました。『すっかり湯冷めしてしまったな。風邪をひいたら大変だ』と言って私に布団に入るよう促しました。私は先に布団に横になって肇様が窓と広縁の障子を閉めるのを眺めていました。『移動が長いとさすがに疲れるな。君も疲れたろう?』などと呑気なことを言いながら布団を被る肇様に私は段々と腹が立ってきました。私ばかり振り回されている気がして、肇様を困らせてやりたいという対抗心がめらめらと湧き立ちました。私は布団の中をもぞもぞと移動しぴったりくっついた肇様の布団にもぐりこみました。そして一緒に歩くときのように肘のあたりに両腕を絡めて肩口に顔を寄せました。『どうぇっ! えっ! いや君なにを、そういうのは君が、僕はやぶさかではないが君が』としどろもどろになっている肇様に『ラジオの代わりにお話をしてください』と言えば、肇様は一瞬動きを止めて長々とした溜め息をついたあと、ヒョウモンチョウのハンモンによるシュとシユウのドウテイについて話してくれました。ですが話が難しかったので私は十分と持たずに眠ってしまったのでした。




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