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むちゅう【夢中】
しおりを挟むむちゅう【夢中】何か一つの事に心を奪われて、それ以外の事には全く関心を示さない様子だ。
長い長い移動時間を終えて、ようやく別荘の最寄りの駅に到着しました。汽車を下りた瞬間から涼しい風が吹き抜け、まるで別世界のようだと思いました。駅の外には別荘の管理人だという男の人が車で迎えに来てくれていて、その人の奥様も肇様と私がやって来るのを楽しみにしていたと言っていました。開けた駅前からしばらく走り、林の中の細い道の途中で車は左に曲がりました。車から降りると、木々の向こう側に建物がありました。『玄関までは車で入れないから少し歩くよ』と言った肇様の腕にほとんど反射的に腕を絡め、私は初めて森の中というものを見ました。うるさいくらいに鳴く蝉、どこからか聞こえてくる知らない鳥の声、真夏なのに少し肌寒さを感じる気温、土みたいな木みたいな不思議な匂い、晴天なのに湿った地面、苔や見たことない形の大きな草。転ばないように肇様にしがみついて歩く間も一歩進むごとに知らないものがあって耳も目も足りないと思いました。肇様は玄関までの道をゆっくりと歩きつつ、しきりにくすくす笑っていました。時間をかけて玄関までたどり着くと出迎えてくれた管理人さんの奥様にご挨拶をして、別荘の中を端から見て回りました。和室も洋室も何部屋かあってお風呂も大小二か所ありました。大きい方のお風呂は湯船からお湯が溢れっぱなしになっていて慌てて管理人さんに知らせに行こうとしたところ、温泉はそういうものなのだと一緒に回っていた松田さんが教えてくれました。ゲンセンカケナガシという仕組みらしいです。そしてなによりも素晴らしかったのは、居間にラジオが置いてあったことです。斎明寺家のお屋敷を出て行ってからずっと聞きたいと思っていたラジオに私は思わず飛び跳ねそうになりました。さっそく居間のソファに寝転んでいた肇様にラジオを使っていいか尋ねると『ラジオ? 別に好きに聞いていいが、使い方はわかるのかい?』と言われたので適当に頷いてラジオの前に椅子を据えてチューニングを始めました。そしてスピーカーから聞こえてきたくぐもって罅割れた音に心底安心して目を瞑りました。絶え間なく続く平坦で感情の無い声に時間を忘れて聞き入っていました。恐らく一時間ほど経った頃に『起きてる?』と頭の上から肇様の声がしました。私が目を開くと肇様はラジオの左右に手をついて後ろから私に覆いかぶさるようにして立っていました。『少し休めたし庭でも歩こう』と言われたので私は首を横に振りました。ラジオを聞いていたからです。肇様は小さな声で『そう』と言って居間を出て行きました。邪魔もなくなったので私はまたラジオに集中しました。そうしているうちに夕食の時間になったようで松田さんが私を呼びに来ました。肇様は夕食中に明日はどこそこに行こうとかなにかれをしようなどと話していましたが、私は首を横に振ってラジオを聞いていると答えました。夕食を終えると肇様の次にお風呂に入りました。肇様は『温泉はすごいぞ、普通の湯とは全然違う』と言っていましたが、私にはあまりよくわかりませんでした。それよりも家のお風呂の何倍も大きな湯船に一人で浸かれることに驚いてしまいました。湯から上り用意されていた浴衣に着替えながら、そういえば滞在中にどこの部屋を使っていいか聞くのを忘れていたことを思い出しました。肇様に聞かなければと考えつつ脱衣所を出るとその肇様が戸の前で仁王立ちをして私を待ち構えていました。
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