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せき【堰】
しおりを挟むせき【堰】「─を切ったように〔=それまでたまりにたまっていたものが、抑えが取れたため、一時に強い勢いで外にあふれ出る形容〕」
座敷にしばし沈黙が流れたあと、女の人の声がして襖が開きました。肇様と女の人が少し話したあと襖は閉まりました。部屋の真ん中に広げられた着物を回り込むように足音がしてすぐ隣に誰かが座りました。『君、おやつにしよう』と肇様が言いました。『おやつ』と聞いて顔を上げるとお盆に乗ったお茶と和菓子を肇様がこちらに差し出しました。いつもならお礼を言うことは欠かさないのですが、どうにも肇様と口をききたくない気がして押し黙ったまま湯呑を手に取りました。熱いお茶を少しすすってから、お行儀がよくないとは思いつつ白くて丸い練りきりを指でつまんで食べました。そんな私を見て肇様は『ははは、拗ねているな』と言って笑いました。その言い方が嫌で私はまた膝の上に顔を伏せました。肇様は自分のお茶を飲みながら『さっきから君は良くないと思ったものばかり選んでいるじゃないか』と言いました。『僕はそれほど難しいことを言っているつもりはない。君が自分で気に入るものを選ばないから終わらんのだ。どこかの誰かさんではない、君自身の着物なのだから』そう言われて私は頭から冷や水を掛けられたような心地になりました。肇様に私が偽物の紗世様だとばれてしまったと思ったからです。思い返せば、この人はただの一度だって私を紗世と呼んだことが無いのです。心臓がばくばくとして顔が上げられませんでした。しかし肇様は私の様子に気が付いていないのかさらさらとお話を続けました。『これなんか気にしていなかったか? 灰色のぼかしと子どもが遊んでいる柄か。たまに見かけるな。まるまるとしていていいじゃないか。こちらは雲取だな。水墨画のようで風流だ。雲は古くからズイチョウ、良いことの前触れとされているからな、縁起がいい。そうだ、店主が勧めたコイアイのツケサゲも気にしていたろう。藍染めは濃淡によって何十通りもの呼び名を持つ。濃い藍色、濃藍は二番目か三番目に濃く染めた色だったか。当たる光の強さによって青っぽくも黒っぽくも見えるのが面白い。柄は蛍ぼかしに蔦かずらかな。控えめで上品だ』と肇様はまったくいつも通りに話すので、私は顔を上げて肇様の手の中にある着物の柄を指さしました。『ん? なんだ? ああ! ははは、蝶も描いてあるじゃないか! これはとってもいい着物だ。ほら立って、合わせてみよう』と言って肇様は私の手を取って引っ張りました。私が姿見の前に立つと後ろから濃藍の着物を羽織らせました。後ろから手を伸ばして合わせを整えている肇様と鏡越しに目が合うと、肇様はにこりと笑って私の腹の前で手を組んで『どうだい?』とだけ問いました。肇様が『蛍ぼかし』と呼んでいた丸いぼかし模様は夏の夜空のような濃藍色の着物の上を本当に蛍が飛んでいるように見えましたし、蔦の葉に隠れるように描かれた小さい蝶の柄は先日教えてもらったシジミチョウが羽を休めているようでした。綺麗な着物だと思ったので私は頷きました。すると肇様は『自分の好きを選べたじゃないか』と言って一瞬私を抱き締めて離れてゆきました。そして少し私から離れたところで着物を眺めながら『うん、濃い色が肌に映えてより色白に見えるな。早くきちんと着付けしたところが見たい。帯や小物は女将に選んでもらおう。あの人は僕の母が着物選びにおいて一番信頼している人物なんだ。君も信頼するといい。すまない、誰かいないか!』と好き勝手まくし立てたあと、襖を開けて人を呼びに行ってしまいました。残された私の頭の中では先ほどの肇様の言葉がぐるぐると回り続けていました。『自分の好きを選べたじゃないか』──まるで胸の真ん中をぐさりと刺されてしまったみたいにうまく抜けなくて、喉の奥が痛み目が熱くなりました。我慢しなければいけないと思ったのですが、到底こらえきれない波にさらわれるみたいに涙が溢れてきてしまいました。着物を汚してはいけないと咄嗟に両手で顔を押さえましたが、堰を切った涙は嗚咽をも連れてきてしまいました。肇様たちが戻るまでに泣き止まなければと思いましたが、無情にも襖は開いてしまいました。肇様と女将さんの会話が不自然に途切れたかと思うと『あらあらあらあら、どうなさったの……?!』と女将さんが驚くほどの早足でこちらへ近付いてきて肩を抱かれました。女将さんは『悲しくなっちゃったのね。大丈夫ですよ、大丈夫だからねえ』としきりに私の肩や二の腕をさすりました。部屋の入口の方から『僕のせいか? いや、確かに多少厳しいことも言ったがそんな、いや僕のせいだな! 直前まで話していたのは僕だものな! すまない、君をいじめるつもりは毛頭なかったのだが、結果的にはほぼいじめているような状況になって──』まで肇様の声で聞こえましたが、女将さんが『肇ぼっちゃんは外に出ていてください! うるさいです!』と一喝したきり聞こえなくなりました。女将さんは私が泣き止むまでずっと私を宥めて続けてくれました。ようやく落ち着くと『私にも奥様くらいの娘がいるものですからつい身体が動いてしまって。ご無礼をお許しくださいませ』と頭を下げられたので必死に首を横に振りました。着物を一枚だけだけれど選べたことを話すと、裾の丈を直して家に持って来てくれるときに一緒に帯や小物を選ぼうという話になりました。それから崩れたお化粧も女将さんに直してもらって部屋を出ると、店内の上がり口の端で足を組んで座っていた肇様が弾かれたように立ち上がりました。見るからにおろおろと私を見るので、私は女将さんと店主さんにご挨拶をして一人でさっさと車に戻りました。遅れて乗り込んできた肇様が『ああ』とか『うう』とか言葉にならない呻き声しか出さないので『泣いたらおなかが空きました』と言ってみたら肇様は何度も頷いて運転手に車を出すように言いました。そのあと初めて食べたすき焼きという食べ物は世にも美味しい代物でした。食べる前は肇様のことを嫌いだと思っていましたが、すき焼きを食べに連れてきてくれたことを考えてちょっと嫌いくらいで落ち着きました。
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