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1巻 寮長になったつもりが2人のイケメン騎士の伴侶になってしまいました
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「あの、筆記用具を貸してもらえますか?」
「もちろん。手紙でも書くのか?」
リア副団長が机から取ってきてくれたメモ帳と羽根ペンを借りる。羽根ペンなんて使うのは初めてだったけれど案外ちゃんと書けた。
さてと、やることリストの最初だけど、やっぱり住まいだよね。異世界でいきなり野宿は厳しい。僕は一行目に『下宿先を見つける』と書いた。
僕が紙にペンを走らせていると両脇から興味津々で二人が覗き込んでくる。
「下宿先……?」
「はい。まずは住むところを探そうと思います。安いところがいいなぁ」
そういえば、この人たち街の治安を守る騎士団なんだから、パトロールとかもしてるはずだよね。ひょっとして不動産屋さんと知り合いだったりしないかな。
住む場所の次は仕事だ。僕は次に『仕事を探す』と書いた。仕事はとにかくなんでもいい。早く見つけて生活できるだけのお金を稼がなくちゃ。
その次は『必要な日用品の用意』。服とか靴とかタオルとか。食器も必要だ。日用品を一から揃えるとなると、一体いくらになることやら。不用品をタダで譲ってもらえるところがないか探してみよう。
――ググゥーッ。
やることリストを書きながら色々考えていたら、いきなり僕のお腹が盛大に鳴ってしまった。
は、恥ずかしい……!
「ははっ、デケェ音で鳴ったなぁ」
「よし、ソウタ。食堂で何か食べよう」
「う、はい……じゃあ、お言葉に甘えて」
真っ赤になる僕をからかう二人と一緒に、玄関ホールを挟んで右側にあるという食堂に向かった。
二人に案内されて入った食堂はとっても広かった。十人は座れそうな木製の長椅子に、同じ長さの机。それが十セットはある。食堂の奥のほうにはオープンキッチンと一際大きなテーブルがあった。
テーブルの上には、大皿にこんもりと盛られたお肉や野菜、パン、果物などがぎっしりと並べられている。どうやら食事はビュッフェスタイルのようだ。
僕たちが食堂に入った時には団員さんが十人ほど食事をしていた。みんなは僕がこの騎士団寮に運び込まれたことをすでに知っていたようだ。僕と目が合うと笑顔で駆け寄ってきた。
「ソウタ、傷の具合はどうだ?」
「団長も副団長も、ソウタのこといじめてないでしょうね?」
「……はい、お皿。いっぱい食べな」
ワイワイと群がってくる団員さんたちに、団長と副団長も苦笑気味だ。
「お前ら、飯ぐらい静かに食え」
「私たちがいじめるわけがないだろう。ソウタ、どれでも好きなだけ食べていいからね」
「は、はい、ありがとうございます……」
副団長にお礼を言ったが、その時にはすでに僕の手には木のお皿が握られていた。お皿の中には団員さんたちが勝手に肉やら野菜やらをたんまりと盛ってくれている。みんなすごく親切だ。
若干、子供扱いなのが気になるけども……!!
目の前に山と盛られた料理の中から、とりあえず黄色い野菜を恐る恐る口に入れてみた。見た目はブロッコリーだけど、味はどうだろうか。
「……んっ、美味しい!」
茹でられた黄色いそれは、味もちゃんとブロッコリーだった。よかった、海外に来て一番困るのが食事だよね。いや、海外っていうか異世界だけど!
お腹が空いていた僕は、次から次に料理を口に入れていった。
緑のトマトに赤い玉ねぎ。お肉の塊はナイフで小さく切ってもらった。全体的にどれも塩味だけれど、大丈夫、ちゃんと美味しい。
パンも日本の食パンに慣れた僕の顎では硬かったけど、ちゃんと小麦の味がして美味しかった。
お皿に盛られた料理を四分の一くらい食べたところで、僕のお腹ははちきれんばかりにパンパンになった。
「ごちそうさまでした! とっても美味しかったです!」
そう言うと、みんな嘘だろう? みたいな目で見つめてくる。
「まだ全然食ってねえじゃねえか。遠慮しないで食え」
「いえ、レオナード団長、遠慮とかじゃなくて僕もう本当にお腹いっぱいで……」
「これしか食わねえの?」
「はい。というか、僕いつもはお昼ご飯食べないので、いつもよりいっぱい食べてます」
そう笑顔で言うと、団員さんの手が一斉に止まった。中には啜り泣きを始める人までいる。なんで泣いているんだろう。
「お前みたいな成長期の子供が昼飯抜きなんて……。さぞかし苦労したんだなぁ」
「俺たちのところに来たからには、もう安心だ! 今日からいっぱい食って俺たちみたいに大きくなれよ」
たしかに貧乏生活で食は細いけど、さすがにもうみんなみたいに大きくはなれそうもない。
「ありがとうございます、でも僕もう二十歳なのでこれ以上大きくはなれないかも……」
そう言った瞬間、ブブーッと周りに座っていた三人くらいが、飲んでいたスープを一斉に口から噴いた。ちょっと、汚い!
「あの、だ、大丈夫ですか!?」
見回すと、みんな僕を見て呆然としている。
「ソウタ、君、二十歳なのか?」
リア副団長に真顔で聞かれてしまった。そういえば歳のことはまだ伝えてなかった。
「はい、二十歳です」
「こんな細くて小さいのに?」
「う、は、はい……」
そりゃ副団長に比べたらガリガリのヒョロヒョロだろうけど、日本人の平均よりちょっと細いくらいのはずだ。納得いかない僕を尻目に、団員さんたちがザワザワと騒ぎ始めた。
「俺てっきり十二、三歳くらいかと思ってたぜ。まさか成人していたとは驚きだ」
「……同い年」
「ジョシュアと同い年か! こいつはまた驚きだな……」
僕と同じ歳らしいジョシュアさんは顔に幼さはあるけれど、ガッチリとした体格をしている。というか、ここ騎士団なんだから、僕より筋肉質のガッチリ体形なのは当たり前なんじゃない?
……僕だって、僕だって……!
「僕だって鍛えればジョシュアさんくらいには……」
「いやあ、無理無理」
即座に否定されてしまった……
「成人してるっつうなら、ちゃんとした仕事を紹介してやれるぜ」
レオナード団長がお肉をナイフで切りながらぼそっと言った。
「本当ですか、レオナード団長! 紹介していただけますか?」
「いちいち『団長』はつけなくていい。敬語もよせ。柄じゃねえよ」
「えっと、じゃあレオナードさん……?」
「……」
「レ、レオナード……」
団長――もといレオナードはニヤッと笑って先を続けてくれた。
「住み込み。三食飯あり。家賃、食費、負担なし。制服支給。仕事内容は掃除、洗濯、料理、事務補助、備品管理……、あとは俺とリアの世話だな。給料は応相談だが一万デールは間違いない」
「……一万デールってどのくらいですか?」
「んー、このパンが一デールちょっとくらいか。あと敬語はよせって」
レオナードがお皿の上にある小さなパンを手に取る。ということは、だいたい一デール百円くらいかな。だとすると一万デールは……ひ、ひひ、百万円!?
しかもレオナードの話によると、生活に必要なものは全部タダ。
う、胡散臭い。めちゃくちゃに怪しいよ、その仕事。うまい話には裏があるって言うけど、事実、レオナードと副団長、団員さんたちもなぜだかニヤニヤしながら僕を見ている……
でも、こんな待遇って絶対他にはない。ぼけっとしていたら他の人に取られちゃうだろうから、迷ってる暇なんてない!
「や、やりま……やる! レオナード、僕にその仕事紹介して!」
「いいぜ、でも重労働だぞ? ちゃんとできそうか?」
「大丈夫! 一万デール分、ちゃんと働くよ!」
「じゃ、決まりだな。お前らもそれでいいよな」
団員さんたちの同意を求めるレオナードに、みんなはもちろんですと声を揃えた。副団長もニッコリしている。レオナードはニヤニヤしたまま、僕に言った。
「それじゃあソウタ、この王立第二騎士団寮の寮長に決定だ。よろしく頼むぜ」
「りょ、寮長!?」
「そもそもお前は黒の旗手だからな。この騎士団寮の寮長以外の仕事なんてねえよ」
「あっ、その黒の旗手って一体なんなの? ずっと気になってて……」
「黒の旗手はな、この王立第二騎士団の寮長を務めることになる奴のことだ。つむじ風に乗って舞い降りてくると予言されていた」
「予言……? じゃあ、僕はその予言通りにさっき木から落ちてきたってこと?」
「そういうこと。黒の旗手が現れるまで寮長は不在だったから、みんなお前が来るのを心待ちにしていたのさ」
世の中不思議なことがあるもんだ、というのが予言の話を聞いた僕の感想だった。
予言通り僕が木から落ちてきて、やっと騎士団寮に寮長が来たから、みんな驚いたり喜んだりしていたんだ。
「じゃ、まあそういうことで一件落着だな。俺は寝る。リア、後はよろしくな」
レオナードはふぁあと大きなあくびを一つすると、席を立とうとする。
なんだかレオナードってあくびばっかりしているけど、どんだけ眠いんだろう。もし悪い奴が街で暴れてる時にお昼寝なんてしていたら、団長としてはかなりの失態だ。僕は寮長就任一分で団長のスケジュール管理を仕事に加えることを決めた。
「あっ、おい待てレオナード! ソウタを寮長にするならギヨーム殿に許可申請の書類を出さないと駄目だぞ」
リア副団長が慌ててレオナードを椅子に座らせる。ギヨーム殿とは一体誰だろう。話の流れ的に人事担当の人だろうか。もしそうなら、たしかにそのギヨーム殿に話を通しておかないと僕、最悪お給料もらえない可能性があるんじゃ……
ダメダメ、それは絶対ダメ! 仕事の契約はちゃんとしないとね! でも、そんな僕の心配をよそに、レオナードは全然乗り気じゃないみたいだ。すごく嫌そうな顔をしている。
「んあ? 面倒くせえよ。あのオヤジにはお前が言っとけって」
「……おい、私はお前の子守か何かか」
リア副団長の顔からスッと表情が抜け落ちた。冷凍庫を開けた時みたいな冷気が副団長を包んでいく気がする。あ、これは副団長、相当お怒りのようで……
チラッと周りに視線をやるとレオナードや団員さんたちもギクッと身体を強張らせている。
「……あ、やべぇ……」
「ほおー、なるほどなるほど。お前は私に子守をさせるつもりで副団長に任命したのか」
「いや、そういうわけじゃ……」
「しかもレオナード。お前は王立第二騎士団の団長でありながら、大事な人事に関する全権を副団長の私に譲ると、そう言っているわけだな」
にっこりと笑顔のリア副団長がめちゃくちゃ怖い。レオナードもしまったという顔をしながら必死で宥めようとしているけれど、副団長の怒りは収まりそうになかった。
「つまり、私が実質この騎士団の団長だと思って差し支えないよな。であれば、いいだろう。ソウタの寮長採用申請の折に、ギヨーム殿に子細を話すとしよう」
「え、あ、おいリア……」
「いやいや、遠慮するなよレオナード。心の底ではお前はギヨーム殿のおそばにお仕えしたいと願っていたわけだ。団長から降りた可哀想なレオナードを見ればすぐさま手元に呼び寄せて王宮で……」
「だあーっ、分かった、分かったから! 俺がちゃんと申請書類を書きゃいいんだろう」
「そうかそうか、人事に関する許可申請だけは団長が作成しないとな。分かればいいんだ。分かれば、な」
レオナードの返事を聞いたリア副団長は、ニコッと笑顔で頷いている。
――今後どんなことがあっても副団長は絶っ対に怒らせないって、誓おう。
「三日後にギヨーム殿が定期視察でこちらに来られるだろう。その際にお渡しするんだな。私も一緒に行ってやるから安心しろ」
「チッ、書類作成の下準備は任せたぜ」
「ああ、任せておけ」
レオナードは自分の髪の毛をくしゃくしゃかきながら、食堂を後にした。その背中を見送った副団長が僕に話しかけてきた。
「それじゃあ、ソウタ」
「は、はひぃ!」
まずい。さっきの迫力が尾を引いて、つい声が裏返ってしまった。
「疲れただろう? ひとまず君の部屋に案内しよう」
副団長はいったん中央の玄関ホールに戻ると階段を上る。
「玄関から見て一階左は応接室に救護室、さっき君がいたところだね。それに武具庫。右側は食堂に食料保管庫だ。二階が団員たちの部屋になっていて全部で三十部屋ある。ここには独身者が入寮していて、既婚者は街に家を持っているんだ。私とレオナード、ソウタの部屋は三階だ」
「お二人のお部屋ってことは、レオナードと副団長も独身なんですか?」
「もちろん」
「へぇ……意外……」
こんなイケメンなのだから、世間の女性たちが放っておくはずがない気がする。
「そうかな? レオナードと私は『盟友の誓い』を立てたからね。予言がなくとも伴侶選びはどうしても慎重になる」
「盟友の誓い?」
黒の旗手の意味が分かったばかりだというのに、新たに知らない言葉が出てきた。それに「予言がなくとも」って言っていたけれど、予言と盟友の誓い、伴侶の関係性もさっぱり分からない。
「あ、ひょっとしてソウタの世界にはそういう制度はないのか?」
「はい、初めて聞きました」
「そうか。まあ、この世界のことは少しずつ覚えていけばいいだろう。慌てずゆっくり、ね」
穏やかに語りかけてくれる副団長の言葉が僕の心にスッと染み込んでくる。たしかに彼の言う通りだ。この世界に迷い込んでまだ数時間、知らないことが多いのは当たり前じゃないか。
これから時間をかけて、この世界のことを知っていけばいい。そう思ったら途端に気が抜けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
副団長と二人、二階と三階を繋ぐ階段をゆっくりと上がっていく。窓から差し込む日差しが、一日の終わりを告げるようにあたりをオレンジ色に染め上げていた。
「夕日の色はおんなじだ……」
「そうか。ソウタの世界の夕日もきっと美しいのだろうな」
窓から空を見上げる僕の横に立った副団長と一緒に、沈みゆく夕日にしばらく目を向けた。
一日が終わっていく。
その短い時間に、僕の人生はとんでもないことになってしまった。
明日、目が覚めてもまだこの世界にいるのかな。それとも元の世界に戻っているだろうか。
異世界の夕日は何も言わずに僕をオレンジに染めるだけだ。不意に逆らうことのできない運命の渦に巻き込まれたような気持ちになって、ちょっとだけ恐ろしくなった。
「おいで、ソウタ」
リア副団長は僕の気持ちに気づいたのだろうか、僕の肩を優しく抱いてくれた。人の温もりを感じて、少し安心する。
二人で階段を上りきってすぐ、一際大きな両開きの扉が目の前に現れた。その頑丈そうな木製の扉には、大きな鷲のような鳥が彫り込まれていてかなり重厚だ。
ドアノブも鳥の頭をかたどったものだった。もしかしたらライン王国の国鳥なのかもしれない。扉の重厚さから見て、この部屋は会議室とかホールなのだろう。この扉を掃除するのは結構大変そうだな。
そんなことを考えていたら、副団長がドアノブに手をかけた。
「さあ、ここが君の部屋だよ」
「えっ? 部屋ってまさか、この大きな扉の先ですか?」
いやいや、ご冗談を。
僕のイメージしていた部屋は、屋根裏部屋とか敷地の隅にある小屋みたいなものだったんですけども。こんな見るからにこの寮で一番豪華そうな扉の向こうが寮長の部屋……?
だって寮長って、つまりはお手伝いさんとか雑用係とかそんな感じでしょう? さっきレオナードが説明してくれた仕事内容はまさにそんな感じだったじゃないか。
……あ、ひょっとしてリア副団長は、案外真顔で冗談を言うタイプの人なのかもしれない。
「そうだよ。両隣にレオナードと私の部屋がある。右がレオナードで、左が私だ。さあ、どうぞ」
副団長の冗談を笑って受け流そうとしていた僕は、ひくついた笑顔のまま硬直した。どうやら冗談ではなさそうだ。リア副団長が扉を開けて、棒立ちになった僕の背を優しく押してくる。
扉の先はとてつもなく広かった。僕が住んでいたアパートの部屋の十倍以上はありそうで、思わず足がすくんでしまう。木製の床はピカピカに磨き上げられていて、自分の姿が鏡のように映り込んでいる。
中央に敷かれた大きな絨毯は鮮やかな緑や黄色の模様がとっても綺麗だ。部屋のど真ん中には、木製のローテーブルと金色の猫脚が眩いソファが置かれていた。淡い緑のクッションで、座り心地はよさそうだ。
まさかこの金色の脚、黄金でできてたりしないよね。もしそうなら、僕はあのソファには恐ろしすぎて座れないよ。
「こっちの扉は浴室と手洗いだ。奥にある二つの白い扉はそれぞれレオナードと私の執務室に繋がっているから、何か用事があれば遠慮なく入ってくれ。いつでも鍵は開いているからね」
それからこっちが衣装部屋だよ、とまた別の扉を示される。
その部屋の中にはすでに服がたくさんかけられていた。チラッと見ただけでも全部に細かい刺繍やらボタンやら装飾が付いていて、触るのも怖い。
しばらくは今着ているジーンズとセーターで我慢して、お給料をちょっとだけ前借りさせてもらって街で服を買おう。それか誰かのお古をもらうのでもいい。騎士さんたちの中に僕に近い体格の人がいればいいんだけど……ちょっと絶望的かも。
そういえば、ここに来るまでにすれ違った街の人たちはベージュ色の服を着ていたっけ。あの服なら丈夫そうだし、ちょっと汚れても気にならないはず。
「ソウタの体形に合う服はないかもしれないなあ。もう少し長身だと勝手に思っていたから」
「そういえば初めてお会いした時に、黒の旗手が一騎当千の大騎士だと思ってたって言ってましたもんね」
「そうだね、レオナードも私も勝手にそうだろうと思い込んでいたんだ。旗を振らないといけないから……」
「旗、ですか?」
「詳しく話せば長くなるが……。寮には第二騎士団を象徴する大きな旗があるんだ。寮長は、騎士団が行進するときに先頭に立って旗を振るのも仕事のうちなんだ。旗は大きくて重いから、てっきり屈強な大男が来るとばかり、ね」
副団長が衣装部屋にある服を物色しながら苦笑いをしていて、どことなく歯切れが悪い。
「ああ、これならなんとかなりそうだ。寮内を歩くくらいなら問題ないだろう」
僕の違和感は、リア副団長の声でそのまま頭の片隅に追いやられてしまった。副団長は衣装部屋から着心地のよさそうな長めのシャツを取り出してきた。シャツとして仕立てられているけれど、僕が着たら膝下まで丈がありそうだ。
「今、温かい飲み物を用意してくるから、着替えておいてくれ。寝台に横になっていていいからね。ああ、それから」
ドアノブに手をかけた副団長が振り返る。
「さっきも言ったけど、私のこともレオナード同様リアと呼び捨てにしてくれて構わないよ。敬語も必要ない。ね?」
からかうようにウインクしてから頑丈な扉がパタリと閉まる。完全に閉まりきったのを確認して、思わず僕は絨毯の上にうずくまった。
顔が熱い。リア副団長、いや、リアのウインクは破壊力がものすごかった。真面目なタイプの男が放つ不意打ちウインクを正面から食らってはいけない。
リアがいなくなった部屋は、さっきよりも広々として見えた。扉の正面にある大きな窓から西日が差し込んで、調度品の影が長く床に伸びている。
「本当に知らない世界に来ちゃったんだな」
ポツンと言った独り言が思いのほか大きく響いて、急激に孤独感が襲ってきた。幸いなことにレオナードやリア、騎士団のみんなはとっても親切にしてくれる。初日にして路頭に迷うこともなく住む場所も仕事も見つけられた。
僕にとっては驚くほど幸運な境遇だ。
それでも、知らない世界に一人放り出された孤独感を排除することはできなかった。
「僕、どうなっちゃうのかな」
一人っていうのは本当に怖い。僕は一人ぼっちがどういうことなのか、身に染みて理解している。
一人っていうのは怖くて、寂しくて、寒いんだ。あたりが暗闇に呑み込まれて、僕だけが息をしているような感覚に陥りそうになる。僕は慌てて首を横に振った。
しっかりするんだ、蒼太。一人になるのはこれが初めてじゃないだろう!
対処法はちゃんと分かっているじゃないか。こうなった時にはさっさと寝ちゃうのが一番いいんだ。なるべく幸せなことを考えて目を閉じるのが。
「よし!」
僕はリアが選んでくれた洋服を持って浴室に入った。トイレを確認すると、温水洗浄機能がないだけで日本の洋式トイレと同じ形式のようだ。よかった、トイレが清潔で!
隣にあるお風呂は洗い場と浴槽があってこれも日本と変わらないけど、シャワーはなかった。蛇口を捻ってみると、少しぬるめのお湯しか出ない。ちょっと残念だけど、よく考えたら熱いお湯が蛇口から出るということは結構大変な技術なのかもしれない。
とりあえず着ていた服を全部脱ぐと、近くに置いてあった陶器の大きな器に湯を入れて置いてあったタオルで体を洗う。これだけでも十分さっぱりした。リアが用意してくれた服も着心地がよくて快適だ。
浴室から出ても、まだリアは帰ってきていなかった。あのソファに腰掛けて待っていればいいだろうか。僕は恐る恐るソファに近づいて、クッションに触れてみた。生地はさらさらとしたサテンみたいな感触で、中の綿はふかふかだ。こ、これは高級品に違いない。こんなソファにだらだらと身体を投げ出すのは無理だと悟って、奥に見えている寝台に座ることにした。
間近に見る寝台は本当に大きかった。大人が三、四人寝転んでも問題ないくらいの幅がある。王様とかが寝ていそうな寝台だ。
大きさに一瞬怯んだけど、さっきのソファに比べて装飾も少なく、見た目より寝心地のよさを重視していそうで、幾分、気が楽だ。
僕は寝台の端っこに腰掛けた。寝台は適度な硬さを保ちつつ、僕のお尻を柔らかく包み込む。
「わ、気持ちいい……!」
思わず寝台にダイブした。敷布からお日様の匂いがする。僕はその匂いをたっぷり吸って全身の強張りを解きながら息を吐いた。最高に気持ちがいい。
「あー、疲れたぁ」
思わず漏れた言葉に自分で笑ってしまった。
「そりゃあ疲れるよねぇ、いきなりこんなところに来てさ。初日にしてはよく頑張ったよ、僕」
知らない世界、知らない土地、知らない人々。
海外旅行はおろか国内旅行だってろくにしてこなかった僕にしては上出来だ。英語だって喋れないのに……あれ?
「そういえば僕、何語で喋ってるんだ?」
思い返せば、レオナードが僕に話しかけた時から不思議と言葉は理解できていた。
「僕がメモ帳にやることリストを書いた時も、二人は僕の書いた文字読んでたな」
そうなのだ。僕が下宿先を探すってメモ帳に書いた時に、メモを覗き込んだ二人はちゃんと読んで理解していた。
「不思議……」
いや、本当は不思議で片付けてはいけない事象のような気がする。でも、僕の思考は靄がかかったみたいにぼんやりとしてきた。眠たくてまぶたが下りてしまいそうだ。
リアが飲み物を持って帰ってくるから起きて待っていないといけないのに、僕のまぶたは言うことを聞いてくれそうもない。
窓から注がれるオレンジ色に包まれて、僕はそのまま目を閉じると深い眠りに落ちていった。
◇◇◇
黒煙が立ち込める教会で、俺とリアは司教も一緒に逃げてほしいと必死に懇願した。しかし、司教は首を横に振りながら毅然とした態度を崩さなかった。
「私はここに残ります」
六十をとうに過ぎた司教をどう説得すればいいのか、十歳の俺と十三歳のリアには分からない。
魔の手はすぐそこに迫っている。俺たちは説得を諦めて、力尽くで司教を教会から引きずり出そうと彼の手を取って引っ張る。しかし、ひ弱に見えた司教の身体は二人の力ではびくともしなかった。
「レオナード殿、リア。ここでお別れです」
「嫌だ! あなたは私の父も同然です。置いて行くことなどできません!」
リアが泣きそうな顔で叫んだ。俺も必死で言う。
「あなたが亡くなったら、あの子たちはどうなる!」
どこかで爆発音がした。敵は近い。この建物も崩壊寸前だ。
「子らはレオナード殿とリア、二人に任せます。まだみな幼い。ブリュエル家の庇護を受けられればよいが……。さあ、愛しい子らよ、逃げるのです。あなたたちは生きなさい。生きて成すべきことをするのです。さあ、私から二人へ最後の贈り物だ」
司教が手を俺とリアの前にかざして祝詞を唱えると、あたりがふわりと光に包まれた。
「太陽が真上に昇る時、つむじ風に乗り歴史の目撃者から舞い降りる黒の旗手。その者はお前たちの寮長となり、誇り高き栄光の旗を振るだろう。その時こそ、この国を元の持ち主に返す時である。王立第二騎士団に栄光あれ。聖なる大鷲に栄光あれ。正統ライン王国国王に栄光あれ」
司教の言葉はいつだってすぐには理解できない。
「黒の旗手?」
「王立騎士団に第二騎士団なんて存在しない……」
俺たちの疑問に、司教は微笑むばかりで答えてはくれなかった。次の瞬間、すぐそばで轟音が鳴り響き、教会の屋根と壁が崩れてあたりに塊となって落ちてくる。とっさに身を丸くした俺は、突如がばりと誰かに抱きかかえられた。
「レオナード、リア!」
逞しい腕の中に俺とリアを抱き込んだのは、レイル城専任護衛団長で叔父のギヨームだ。
「叔父上! 司教様が瓦礫の中に!」
「ギヨーム殿! お願いです、司教様を助けてください!」
必死にそう叫んだが、叔父は苦しげに首を横に振った。
「……退くぞ」
叔父は俺とリアを抱えたまま、走って教会の外に出た。崩れ落ちる教会施設、激しい炎、禍々しい黒煙の中で響く怒号。叔父の腕の中で、俺たちは声が枯れるまで司教を呼んだが、ついに返事が返ってくることはなかった。
昨晩も眠れない夜を自主訓練でやり過ごし、朝日が上りきらないうちに寮に戻った。朝の鍛錬が始まるまでのわずかな時間を寝台の上で目をつぶって過ごす。
黒の旗手が現れないまま、時間は容赦なく過ぎていく。焦る気持ちが邪魔をして、いつものごとくうまく眠れない。
うつらうつらとした少しの間に、久しぶりに過去の夢を見た。もう十五年も前の話だ。自分の両親と司教の死を招いた、あの忌まわしい出来事の記憶は脳裏にこびりついてなかなか消えることがない。俺は疼く頭をなんとか治めようと、目を固くつぶった。
翌朝、いつものようにリアと二人で『聖木マクシミリアン』のある木漏れ日の丘に来た。リアが薬草を探しに森に入っていった後で、俺は一人、木の根元に寝転ぶ。以前視察に訪れた王都の役人が「訓練に参加もせずに寝転ぶとは何事か」と阿呆のように怒鳴っていたが、この大木の下で黒の旗手を待つことをやめるつもりはない。
王都の奴らの声が頭を駆け巡り、気分が悪い。だが、奴らが権力にあぐらをかいていられるのも今のうちだ。それまでせいぜい吠えるがいいさ。
俺たちは必ず現国王を引きずり降ろして、ライン王国を正当な持ち主に返してみせる。たとえ己の身が屍になろうとも、その決心は変わることはない。そのためには、予言通りに黒の旗手が俺たちのもとに舞い降りねばならない。黒の旗手が舞い降りて第二騎士団の旗を高々と天に突き上げた時こそ、復讐の始まりなのだ。
俺は十歳のあの日から、リアと共に黒の旗手を待ち続けている。太陽が真上に昇る昼時に、歴史の目撃者である樹齢千年の『聖木マクシミリアン』の木の下で――
「早く来い、黒の旗手。俺たちにその力を貸せ」
俺がそう呟くと、そよ風があたりを駆け巡り、小さなつむじ風になって舞い上がる。ざわり、と草木がおかしな音を立てて、虫たちが奇妙にうごめいた。
つむじ風は次第に強くなり、轟々と鳴り響く。丘を包む異様な気配に思わず立ち上がって腰の剣に手をかけた。この気配、たしかに伝え聞いていた異世界の気配に間違いない。
「ついに来たか……、黒の旗手!」
俺が空を見上げた、その時。
「た、た、助けてーっ! 死ぬーっ!」
大声と共に、空から人が降ってきた。とっさに両腕で抱え込む。……軽い。腕の中に落ちてきたのは子供のようだ。その身体は骨と皮と、申し訳程度の肉しかないようだった。
大丈夫か、と声をかけると、死にたくないと懇願された。どこか痛むのだろうかと子供の身体を確認したが、怪我はしていないようだ。そう伝えてやると、大きな目を見開いて驚いていた。びっくりした顔がいかにも純真無垢で子供らしく、思わず笑ってしまった。
それにしても、困ったことになったものだ。俺は腕の中の子供をまじまじと観察した。子供の髪と瞳は見たことがないほど黒い。想像とはだいぶ違うが『空から降ってきた』黒髪黒目という点で、この子供は俺たちが待ち望んだ黒の旗手の条件に完全に当てはまる。
「想像よりずいぶん幼いな」
それにしても、黒い髪に黒い瞳というのはなんと美しいのだろうか。これまで目にしてきた宝飾品の数々も、この艶めく漆黒の前では足元にも及ばないだろう。俺は誘惑に耐えかねて、黒い髪に触れてみた。しっとりと濡れたような黒色の髪は、意外にもさらりと柔らかかった。
なんという心地よさだ。困惑したように俺を見上げる瞳は湖に映り込んだ冬の夜のように深く、吸い込まれそうだ。
とはいえ、てっきり筋骨隆々とした大男が来るとばかり思っていた。こんな、華奢でぽきりと折れてしまいそうな小さな者が遣わされるとは。名前を聞くと、ソウタ、と名乗った。この国にはない珍しい名前だ
俺はソウタを寮に連れて帰ることにした。というより、連れて帰る以外の選択肢などもちろんない。ソウタが泣いても喚いても、俺たちのそばにいてもらわなければ困る。
寮へ帰ると、団員たちが興味津々でソウタを質問攻めにしている。こいつらはいつだってのんきだ。だから、やらなくてはいけない。
こいつらの笑顔がもう二度と失われないように。
この、誇り高きライン王国の未来のために。
俺はソウタを抱える両腕に少しだけ力を込めた。
「もちろん。手紙でも書くのか?」
リア副団長が机から取ってきてくれたメモ帳と羽根ペンを借りる。羽根ペンなんて使うのは初めてだったけれど案外ちゃんと書けた。
さてと、やることリストの最初だけど、やっぱり住まいだよね。異世界でいきなり野宿は厳しい。僕は一行目に『下宿先を見つける』と書いた。
僕が紙にペンを走らせていると両脇から興味津々で二人が覗き込んでくる。
「下宿先……?」
「はい。まずは住むところを探そうと思います。安いところがいいなぁ」
そういえば、この人たち街の治安を守る騎士団なんだから、パトロールとかもしてるはずだよね。ひょっとして不動産屋さんと知り合いだったりしないかな。
住む場所の次は仕事だ。僕は次に『仕事を探す』と書いた。仕事はとにかくなんでもいい。早く見つけて生活できるだけのお金を稼がなくちゃ。
その次は『必要な日用品の用意』。服とか靴とかタオルとか。食器も必要だ。日用品を一から揃えるとなると、一体いくらになることやら。不用品をタダで譲ってもらえるところがないか探してみよう。
――ググゥーッ。
やることリストを書きながら色々考えていたら、いきなり僕のお腹が盛大に鳴ってしまった。
は、恥ずかしい……!
「ははっ、デケェ音で鳴ったなぁ」
「よし、ソウタ。食堂で何か食べよう」
「う、はい……じゃあ、お言葉に甘えて」
真っ赤になる僕をからかう二人と一緒に、玄関ホールを挟んで右側にあるという食堂に向かった。
二人に案内されて入った食堂はとっても広かった。十人は座れそうな木製の長椅子に、同じ長さの机。それが十セットはある。食堂の奥のほうにはオープンキッチンと一際大きなテーブルがあった。
テーブルの上には、大皿にこんもりと盛られたお肉や野菜、パン、果物などがぎっしりと並べられている。どうやら食事はビュッフェスタイルのようだ。
僕たちが食堂に入った時には団員さんが十人ほど食事をしていた。みんなは僕がこの騎士団寮に運び込まれたことをすでに知っていたようだ。僕と目が合うと笑顔で駆け寄ってきた。
「ソウタ、傷の具合はどうだ?」
「団長も副団長も、ソウタのこといじめてないでしょうね?」
「……はい、お皿。いっぱい食べな」
ワイワイと群がってくる団員さんたちに、団長と副団長も苦笑気味だ。
「お前ら、飯ぐらい静かに食え」
「私たちがいじめるわけがないだろう。ソウタ、どれでも好きなだけ食べていいからね」
「は、はい、ありがとうございます……」
副団長にお礼を言ったが、その時にはすでに僕の手には木のお皿が握られていた。お皿の中には団員さんたちが勝手に肉やら野菜やらをたんまりと盛ってくれている。みんなすごく親切だ。
若干、子供扱いなのが気になるけども……!!
目の前に山と盛られた料理の中から、とりあえず黄色い野菜を恐る恐る口に入れてみた。見た目はブロッコリーだけど、味はどうだろうか。
「……んっ、美味しい!」
茹でられた黄色いそれは、味もちゃんとブロッコリーだった。よかった、海外に来て一番困るのが食事だよね。いや、海外っていうか異世界だけど!
お腹が空いていた僕は、次から次に料理を口に入れていった。
緑のトマトに赤い玉ねぎ。お肉の塊はナイフで小さく切ってもらった。全体的にどれも塩味だけれど、大丈夫、ちゃんと美味しい。
パンも日本の食パンに慣れた僕の顎では硬かったけど、ちゃんと小麦の味がして美味しかった。
お皿に盛られた料理を四分の一くらい食べたところで、僕のお腹ははちきれんばかりにパンパンになった。
「ごちそうさまでした! とっても美味しかったです!」
そう言うと、みんな嘘だろう? みたいな目で見つめてくる。
「まだ全然食ってねえじゃねえか。遠慮しないで食え」
「いえ、レオナード団長、遠慮とかじゃなくて僕もう本当にお腹いっぱいで……」
「これしか食わねえの?」
「はい。というか、僕いつもはお昼ご飯食べないので、いつもよりいっぱい食べてます」
そう笑顔で言うと、団員さんの手が一斉に止まった。中には啜り泣きを始める人までいる。なんで泣いているんだろう。
「お前みたいな成長期の子供が昼飯抜きなんて……。さぞかし苦労したんだなぁ」
「俺たちのところに来たからには、もう安心だ! 今日からいっぱい食って俺たちみたいに大きくなれよ」
たしかに貧乏生活で食は細いけど、さすがにもうみんなみたいに大きくはなれそうもない。
「ありがとうございます、でも僕もう二十歳なのでこれ以上大きくはなれないかも……」
そう言った瞬間、ブブーッと周りに座っていた三人くらいが、飲んでいたスープを一斉に口から噴いた。ちょっと、汚い!
「あの、だ、大丈夫ですか!?」
見回すと、みんな僕を見て呆然としている。
「ソウタ、君、二十歳なのか?」
リア副団長に真顔で聞かれてしまった。そういえば歳のことはまだ伝えてなかった。
「はい、二十歳です」
「こんな細くて小さいのに?」
「う、は、はい……」
そりゃ副団長に比べたらガリガリのヒョロヒョロだろうけど、日本人の平均よりちょっと細いくらいのはずだ。納得いかない僕を尻目に、団員さんたちがザワザワと騒ぎ始めた。
「俺てっきり十二、三歳くらいかと思ってたぜ。まさか成人していたとは驚きだ」
「……同い年」
「ジョシュアと同い年か! こいつはまた驚きだな……」
僕と同じ歳らしいジョシュアさんは顔に幼さはあるけれど、ガッチリとした体格をしている。というか、ここ騎士団なんだから、僕より筋肉質のガッチリ体形なのは当たり前なんじゃない?
……僕だって、僕だって……!
「僕だって鍛えればジョシュアさんくらいには……」
「いやあ、無理無理」
即座に否定されてしまった……
「成人してるっつうなら、ちゃんとした仕事を紹介してやれるぜ」
レオナード団長がお肉をナイフで切りながらぼそっと言った。
「本当ですか、レオナード団長! 紹介していただけますか?」
「いちいち『団長』はつけなくていい。敬語もよせ。柄じゃねえよ」
「えっと、じゃあレオナードさん……?」
「……」
「レ、レオナード……」
団長――もといレオナードはニヤッと笑って先を続けてくれた。
「住み込み。三食飯あり。家賃、食費、負担なし。制服支給。仕事内容は掃除、洗濯、料理、事務補助、備品管理……、あとは俺とリアの世話だな。給料は応相談だが一万デールは間違いない」
「……一万デールってどのくらいですか?」
「んー、このパンが一デールちょっとくらいか。あと敬語はよせって」
レオナードがお皿の上にある小さなパンを手に取る。ということは、だいたい一デール百円くらいかな。だとすると一万デールは……ひ、ひひ、百万円!?
しかもレオナードの話によると、生活に必要なものは全部タダ。
う、胡散臭い。めちゃくちゃに怪しいよ、その仕事。うまい話には裏があるって言うけど、事実、レオナードと副団長、団員さんたちもなぜだかニヤニヤしながら僕を見ている……
でも、こんな待遇って絶対他にはない。ぼけっとしていたら他の人に取られちゃうだろうから、迷ってる暇なんてない!
「や、やりま……やる! レオナード、僕にその仕事紹介して!」
「いいぜ、でも重労働だぞ? ちゃんとできそうか?」
「大丈夫! 一万デール分、ちゃんと働くよ!」
「じゃ、決まりだな。お前らもそれでいいよな」
団員さんたちの同意を求めるレオナードに、みんなはもちろんですと声を揃えた。副団長もニッコリしている。レオナードはニヤニヤしたまま、僕に言った。
「それじゃあソウタ、この王立第二騎士団寮の寮長に決定だ。よろしく頼むぜ」
「りょ、寮長!?」
「そもそもお前は黒の旗手だからな。この騎士団寮の寮長以外の仕事なんてねえよ」
「あっ、その黒の旗手って一体なんなの? ずっと気になってて……」
「黒の旗手はな、この王立第二騎士団の寮長を務めることになる奴のことだ。つむじ風に乗って舞い降りてくると予言されていた」
「予言……? じゃあ、僕はその予言通りにさっき木から落ちてきたってこと?」
「そういうこと。黒の旗手が現れるまで寮長は不在だったから、みんなお前が来るのを心待ちにしていたのさ」
世の中不思議なことがあるもんだ、というのが予言の話を聞いた僕の感想だった。
予言通り僕が木から落ちてきて、やっと騎士団寮に寮長が来たから、みんな驚いたり喜んだりしていたんだ。
「じゃ、まあそういうことで一件落着だな。俺は寝る。リア、後はよろしくな」
レオナードはふぁあと大きなあくびを一つすると、席を立とうとする。
なんだかレオナードってあくびばっかりしているけど、どんだけ眠いんだろう。もし悪い奴が街で暴れてる時にお昼寝なんてしていたら、団長としてはかなりの失態だ。僕は寮長就任一分で団長のスケジュール管理を仕事に加えることを決めた。
「あっ、おい待てレオナード! ソウタを寮長にするならギヨーム殿に許可申請の書類を出さないと駄目だぞ」
リア副団長が慌ててレオナードを椅子に座らせる。ギヨーム殿とは一体誰だろう。話の流れ的に人事担当の人だろうか。もしそうなら、たしかにそのギヨーム殿に話を通しておかないと僕、最悪お給料もらえない可能性があるんじゃ……
ダメダメ、それは絶対ダメ! 仕事の契約はちゃんとしないとね! でも、そんな僕の心配をよそに、レオナードは全然乗り気じゃないみたいだ。すごく嫌そうな顔をしている。
「んあ? 面倒くせえよ。あのオヤジにはお前が言っとけって」
「……おい、私はお前の子守か何かか」
リア副団長の顔からスッと表情が抜け落ちた。冷凍庫を開けた時みたいな冷気が副団長を包んでいく気がする。あ、これは副団長、相当お怒りのようで……
チラッと周りに視線をやるとレオナードや団員さんたちもギクッと身体を強張らせている。
「……あ、やべぇ……」
「ほおー、なるほどなるほど。お前は私に子守をさせるつもりで副団長に任命したのか」
「いや、そういうわけじゃ……」
「しかもレオナード。お前は王立第二騎士団の団長でありながら、大事な人事に関する全権を副団長の私に譲ると、そう言っているわけだな」
にっこりと笑顔のリア副団長がめちゃくちゃ怖い。レオナードもしまったという顔をしながら必死で宥めようとしているけれど、副団長の怒りは収まりそうになかった。
「つまり、私が実質この騎士団の団長だと思って差し支えないよな。であれば、いいだろう。ソウタの寮長採用申請の折に、ギヨーム殿に子細を話すとしよう」
「え、あ、おいリア……」
「いやいや、遠慮するなよレオナード。心の底ではお前はギヨーム殿のおそばにお仕えしたいと願っていたわけだ。団長から降りた可哀想なレオナードを見ればすぐさま手元に呼び寄せて王宮で……」
「だあーっ、分かった、分かったから! 俺がちゃんと申請書類を書きゃいいんだろう」
「そうかそうか、人事に関する許可申請だけは団長が作成しないとな。分かればいいんだ。分かれば、な」
レオナードの返事を聞いたリア副団長は、ニコッと笑顔で頷いている。
――今後どんなことがあっても副団長は絶っ対に怒らせないって、誓おう。
「三日後にギヨーム殿が定期視察でこちらに来られるだろう。その際にお渡しするんだな。私も一緒に行ってやるから安心しろ」
「チッ、書類作成の下準備は任せたぜ」
「ああ、任せておけ」
レオナードは自分の髪の毛をくしゃくしゃかきながら、食堂を後にした。その背中を見送った副団長が僕に話しかけてきた。
「それじゃあ、ソウタ」
「は、はひぃ!」
まずい。さっきの迫力が尾を引いて、つい声が裏返ってしまった。
「疲れただろう? ひとまず君の部屋に案内しよう」
副団長はいったん中央の玄関ホールに戻ると階段を上る。
「玄関から見て一階左は応接室に救護室、さっき君がいたところだね。それに武具庫。右側は食堂に食料保管庫だ。二階が団員たちの部屋になっていて全部で三十部屋ある。ここには独身者が入寮していて、既婚者は街に家を持っているんだ。私とレオナード、ソウタの部屋は三階だ」
「お二人のお部屋ってことは、レオナードと副団長も独身なんですか?」
「もちろん」
「へぇ……意外……」
こんなイケメンなのだから、世間の女性たちが放っておくはずがない気がする。
「そうかな? レオナードと私は『盟友の誓い』を立てたからね。予言がなくとも伴侶選びはどうしても慎重になる」
「盟友の誓い?」
黒の旗手の意味が分かったばかりだというのに、新たに知らない言葉が出てきた。それに「予言がなくとも」って言っていたけれど、予言と盟友の誓い、伴侶の関係性もさっぱり分からない。
「あ、ひょっとしてソウタの世界にはそういう制度はないのか?」
「はい、初めて聞きました」
「そうか。まあ、この世界のことは少しずつ覚えていけばいいだろう。慌てずゆっくり、ね」
穏やかに語りかけてくれる副団長の言葉が僕の心にスッと染み込んでくる。たしかに彼の言う通りだ。この世界に迷い込んでまだ数時間、知らないことが多いのは当たり前じゃないか。
これから時間をかけて、この世界のことを知っていけばいい。そう思ったら途端に気が抜けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
副団長と二人、二階と三階を繋ぐ階段をゆっくりと上がっていく。窓から差し込む日差しが、一日の終わりを告げるようにあたりをオレンジ色に染め上げていた。
「夕日の色はおんなじだ……」
「そうか。ソウタの世界の夕日もきっと美しいのだろうな」
窓から空を見上げる僕の横に立った副団長と一緒に、沈みゆく夕日にしばらく目を向けた。
一日が終わっていく。
その短い時間に、僕の人生はとんでもないことになってしまった。
明日、目が覚めてもまだこの世界にいるのかな。それとも元の世界に戻っているだろうか。
異世界の夕日は何も言わずに僕をオレンジに染めるだけだ。不意に逆らうことのできない運命の渦に巻き込まれたような気持ちになって、ちょっとだけ恐ろしくなった。
「おいで、ソウタ」
リア副団長は僕の気持ちに気づいたのだろうか、僕の肩を優しく抱いてくれた。人の温もりを感じて、少し安心する。
二人で階段を上りきってすぐ、一際大きな両開きの扉が目の前に現れた。その頑丈そうな木製の扉には、大きな鷲のような鳥が彫り込まれていてかなり重厚だ。
ドアノブも鳥の頭をかたどったものだった。もしかしたらライン王国の国鳥なのかもしれない。扉の重厚さから見て、この部屋は会議室とかホールなのだろう。この扉を掃除するのは結構大変そうだな。
そんなことを考えていたら、副団長がドアノブに手をかけた。
「さあ、ここが君の部屋だよ」
「えっ? 部屋ってまさか、この大きな扉の先ですか?」
いやいや、ご冗談を。
僕のイメージしていた部屋は、屋根裏部屋とか敷地の隅にある小屋みたいなものだったんですけども。こんな見るからにこの寮で一番豪華そうな扉の向こうが寮長の部屋……?
だって寮長って、つまりはお手伝いさんとか雑用係とかそんな感じでしょう? さっきレオナードが説明してくれた仕事内容はまさにそんな感じだったじゃないか。
……あ、ひょっとしてリア副団長は、案外真顔で冗談を言うタイプの人なのかもしれない。
「そうだよ。両隣にレオナードと私の部屋がある。右がレオナードで、左が私だ。さあ、どうぞ」
副団長の冗談を笑って受け流そうとしていた僕は、ひくついた笑顔のまま硬直した。どうやら冗談ではなさそうだ。リア副団長が扉を開けて、棒立ちになった僕の背を優しく押してくる。
扉の先はとてつもなく広かった。僕が住んでいたアパートの部屋の十倍以上はありそうで、思わず足がすくんでしまう。木製の床はピカピカに磨き上げられていて、自分の姿が鏡のように映り込んでいる。
中央に敷かれた大きな絨毯は鮮やかな緑や黄色の模様がとっても綺麗だ。部屋のど真ん中には、木製のローテーブルと金色の猫脚が眩いソファが置かれていた。淡い緑のクッションで、座り心地はよさそうだ。
まさかこの金色の脚、黄金でできてたりしないよね。もしそうなら、僕はあのソファには恐ろしすぎて座れないよ。
「こっちの扉は浴室と手洗いだ。奥にある二つの白い扉はそれぞれレオナードと私の執務室に繋がっているから、何か用事があれば遠慮なく入ってくれ。いつでも鍵は開いているからね」
それからこっちが衣装部屋だよ、とまた別の扉を示される。
その部屋の中にはすでに服がたくさんかけられていた。チラッと見ただけでも全部に細かい刺繍やらボタンやら装飾が付いていて、触るのも怖い。
しばらくは今着ているジーンズとセーターで我慢して、お給料をちょっとだけ前借りさせてもらって街で服を買おう。それか誰かのお古をもらうのでもいい。騎士さんたちの中に僕に近い体格の人がいればいいんだけど……ちょっと絶望的かも。
そういえば、ここに来るまでにすれ違った街の人たちはベージュ色の服を着ていたっけ。あの服なら丈夫そうだし、ちょっと汚れても気にならないはず。
「ソウタの体形に合う服はないかもしれないなあ。もう少し長身だと勝手に思っていたから」
「そういえば初めてお会いした時に、黒の旗手が一騎当千の大騎士だと思ってたって言ってましたもんね」
「そうだね、レオナードも私も勝手にそうだろうと思い込んでいたんだ。旗を振らないといけないから……」
「旗、ですか?」
「詳しく話せば長くなるが……。寮には第二騎士団を象徴する大きな旗があるんだ。寮長は、騎士団が行進するときに先頭に立って旗を振るのも仕事のうちなんだ。旗は大きくて重いから、てっきり屈強な大男が来るとばかり、ね」
副団長が衣装部屋にある服を物色しながら苦笑いをしていて、どことなく歯切れが悪い。
「ああ、これならなんとかなりそうだ。寮内を歩くくらいなら問題ないだろう」
僕の違和感は、リア副団長の声でそのまま頭の片隅に追いやられてしまった。副団長は衣装部屋から着心地のよさそうな長めのシャツを取り出してきた。シャツとして仕立てられているけれど、僕が着たら膝下まで丈がありそうだ。
「今、温かい飲み物を用意してくるから、着替えておいてくれ。寝台に横になっていていいからね。ああ、それから」
ドアノブに手をかけた副団長が振り返る。
「さっきも言ったけど、私のこともレオナード同様リアと呼び捨てにしてくれて構わないよ。敬語も必要ない。ね?」
からかうようにウインクしてから頑丈な扉がパタリと閉まる。完全に閉まりきったのを確認して、思わず僕は絨毯の上にうずくまった。
顔が熱い。リア副団長、いや、リアのウインクは破壊力がものすごかった。真面目なタイプの男が放つ不意打ちウインクを正面から食らってはいけない。
リアがいなくなった部屋は、さっきよりも広々として見えた。扉の正面にある大きな窓から西日が差し込んで、調度品の影が長く床に伸びている。
「本当に知らない世界に来ちゃったんだな」
ポツンと言った独り言が思いのほか大きく響いて、急激に孤独感が襲ってきた。幸いなことにレオナードやリア、騎士団のみんなはとっても親切にしてくれる。初日にして路頭に迷うこともなく住む場所も仕事も見つけられた。
僕にとっては驚くほど幸運な境遇だ。
それでも、知らない世界に一人放り出された孤独感を排除することはできなかった。
「僕、どうなっちゃうのかな」
一人っていうのは本当に怖い。僕は一人ぼっちがどういうことなのか、身に染みて理解している。
一人っていうのは怖くて、寂しくて、寒いんだ。あたりが暗闇に呑み込まれて、僕だけが息をしているような感覚に陥りそうになる。僕は慌てて首を横に振った。
しっかりするんだ、蒼太。一人になるのはこれが初めてじゃないだろう!
対処法はちゃんと分かっているじゃないか。こうなった時にはさっさと寝ちゃうのが一番いいんだ。なるべく幸せなことを考えて目を閉じるのが。
「よし!」
僕はリアが選んでくれた洋服を持って浴室に入った。トイレを確認すると、温水洗浄機能がないだけで日本の洋式トイレと同じ形式のようだ。よかった、トイレが清潔で!
隣にあるお風呂は洗い場と浴槽があってこれも日本と変わらないけど、シャワーはなかった。蛇口を捻ってみると、少しぬるめのお湯しか出ない。ちょっと残念だけど、よく考えたら熱いお湯が蛇口から出るということは結構大変な技術なのかもしれない。
とりあえず着ていた服を全部脱ぐと、近くに置いてあった陶器の大きな器に湯を入れて置いてあったタオルで体を洗う。これだけでも十分さっぱりした。リアが用意してくれた服も着心地がよくて快適だ。
浴室から出ても、まだリアは帰ってきていなかった。あのソファに腰掛けて待っていればいいだろうか。僕は恐る恐るソファに近づいて、クッションに触れてみた。生地はさらさらとしたサテンみたいな感触で、中の綿はふかふかだ。こ、これは高級品に違いない。こんなソファにだらだらと身体を投げ出すのは無理だと悟って、奥に見えている寝台に座ることにした。
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「わ、気持ちいい……!」
思わず寝台にダイブした。敷布からお日様の匂いがする。僕はその匂いをたっぷり吸って全身の強張りを解きながら息を吐いた。最高に気持ちがいい。
「あー、疲れたぁ」
思わず漏れた言葉に自分で笑ってしまった。
「そりゃあ疲れるよねぇ、いきなりこんなところに来てさ。初日にしてはよく頑張ったよ、僕」
知らない世界、知らない土地、知らない人々。
海外旅行はおろか国内旅行だってろくにしてこなかった僕にしては上出来だ。英語だって喋れないのに……あれ?
「そういえば僕、何語で喋ってるんだ?」
思い返せば、レオナードが僕に話しかけた時から不思議と言葉は理解できていた。
「僕がメモ帳にやることリストを書いた時も、二人は僕の書いた文字読んでたな」
そうなのだ。僕が下宿先を探すってメモ帳に書いた時に、メモを覗き込んだ二人はちゃんと読んで理解していた。
「不思議……」
いや、本当は不思議で片付けてはいけない事象のような気がする。でも、僕の思考は靄がかかったみたいにぼんやりとしてきた。眠たくてまぶたが下りてしまいそうだ。
リアが飲み物を持って帰ってくるから起きて待っていないといけないのに、僕のまぶたは言うことを聞いてくれそうもない。
窓から注がれるオレンジ色に包まれて、僕はそのまま目を閉じると深い眠りに落ちていった。
◇◇◇
黒煙が立ち込める教会で、俺とリアは司教も一緒に逃げてほしいと必死に懇願した。しかし、司教は首を横に振りながら毅然とした態度を崩さなかった。
「私はここに残ります」
六十をとうに過ぎた司教をどう説得すればいいのか、十歳の俺と十三歳のリアには分からない。
魔の手はすぐそこに迫っている。俺たちは説得を諦めて、力尽くで司教を教会から引きずり出そうと彼の手を取って引っ張る。しかし、ひ弱に見えた司教の身体は二人の力ではびくともしなかった。
「レオナード殿、リア。ここでお別れです」
「嫌だ! あなたは私の父も同然です。置いて行くことなどできません!」
リアが泣きそうな顔で叫んだ。俺も必死で言う。
「あなたが亡くなったら、あの子たちはどうなる!」
どこかで爆発音がした。敵は近い。この建物も崩壊寸前だ。
「子らはレオナード殿とリア、二人に任せます。まだみな幼い。ブリュエル家の庇護を受けられればよいが……。さあ、愛しい子らよ、逃げるのです。あなたたちは生きなさい。生きて成すべきことをするのです。さあ、私から二人へ最後の贈り物だ」
司教が手を俺とリアの前にかざして祝詞を唱えると、あたりがふわりと光に包まれた。
「太陽が真上に昇る時、つむじ風に乗り歴史の目撃者から舞い降りる黒の旗手。その者はお前たちの寮長となり、誇り高き栄光の旗を振るだろう。その時こそ、この国を元の持ち主に返す時である。王立第二騎士団に栄光あれ。聖なる大鷲に栄光あれ。正統ライン王国国王に栄光あれ」
司教の言葉はいつだってすぐには理解できない。
「黒の旗手?」
「王立騎士団に第二騎士団なんて存在しない……」
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「レオナード、リア!」
逞しい腕の中に俺とリアを抱き込んだのは、レイル城専任護衛団長で叔父のギヨームだ。
「叔父上! 司教様が瓦礫の中に!」
「ギヨーム殿! お願いです、司教様を助けてください!」
必死にそう叫んだが、叔父は苦しげに首を横に振った。
「……退くぞ」
叔父は俺とリアを抱えたまま、走って教会の外に出た。崩れ落ちる教会施設、激しい炎、禍々しい黒煙の中で響く怒号。叔父の腕の中で、俺たちは声が枯れるまで司教を呼んだが、ついに返事が返ってくることはなかった。
昨晩も眠れない夜を自主訓練でやり過ごし、朝日が上りきらないうちに寮に戻った。朝の鍛錬が始まるまでのわずかな時間を寝台の上で目をつぶって過ごす。
黒の旗手が現れないまま、時間は容赦なく過ぎていく。焦る気持ちが邪魔をして、いつものごとくうまく眠れない。
うつらうつらとした少しの間に、久しぶりに過去の夢を見た。もう十五年も前の話だ。自分の両親と司教の死を招いた、あの忌まわしい出来事の記憶は脳裏にこびりついてなかなか消えることがない。俺は疼く頭をなんとか治めようと、目を固くつぶった。
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「想像よりずいぶん幼いな」
それにしても、黒い髪に黒い瞳というのはなんと美しいのだろうか。これまで目にしてきた宝飾品の数々も、この艶めく漆黒の前では足元にも及ばないだろう。俺は誘惑に耐えかねて、黒い髪に触れてみた。しっとりと濡れたような黒色の髪は、意外にもさらりと柔らかかった。
なんという心地よさだ。困惑したように俺を見上げる瞳は湖に映り込んだ冬の夜のように深く、吸い込まれそうだ。
とはいえ、てっきり筋骨隆々とした大男が来るとばかり思っていた。こんな、華奢でぽきりと折れてしまいそうな小さな者が遣わされるとは。名前を聞くと、ソウタ、と名乗った。この国にはない珍しい名前だ
俺はソウタを寮に連れて帰ることにした。というより、連れて帰る以外の選択肢などもちろんない。ソウタが泣いても喚いても、俺たちのそばにいてもらわなければ困る。
寮へ帰ると、団員たちが興味津々でソウタを質問攻めにしている。こいつらはいつだってのんきだ。だから、やらなくてはいけない。
こいつらの笑顔がもう二度と失われないように。
この、誇り高きライン王国の未来のために。
俺はソウタを抱える両腕に少しだけ力を込めた。
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旧題:悪役令嬢のポチは第一王子に囲われて溺愛されてます!?
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公爵令嬢ベアトリーチェの幼馴染兼従者として生まれ育ったヴィンセント。ベアトリーチェの婚約者が他の女に現を抜かすため、彼女が不幸な結婚をする前に何とか婚約を解消できないかと考えていると、彼女の婚約者の兄であり第一王子であるエドワードが現れる。「自分がベアトリーチェの婚約について、『ベアトリーチェにとって不幸な結末』にならないよう取り計らう」「その代わり、ヴィンセントが欲しい」と取引を持ち掛けられ、不審に思いつつも受け入れることに。警戒を解かないヴィンセントに対し、エドワードは甘く溺愛してきて……
❁❀花籠の泥人形編 更新中✿ 残4話予定✾
❀小話を番外編にまとめました❀
✿背後注意話✿
✾Twitter → @yuki_cat8 (作業過程や裏話など)
❀書籍化記念IFSSを番外編に追加しました!(23.1.11)❀
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