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第6章 新しい物語
最後の夜・4
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夜も更け、暗い夜空にやっと昇った月は獣の爪のように細い三日月だった。それでも小さな星が月の代役を果たしていて、外は夜中とは思えないほど明るかった。
仄かな月明かりをぼんやりと見上げながら、シェリルはついさっき終わりを迎えたパーティーの余韻を静かに楽しんでいた。結局シェリルはルーヴァが特別に用意してくれたあのワインを、ひとりで半分ほど飲んでいた。元々アルコールは低かったのだろう。シェリルは我を忘れるほど酔っている訳ではなく、強いて言えばただ少しだけ頬が紅潮し心がふわりと軽くなる程度であった。
だがそれも、冷たい夜風に当れば一気に醒める。
「飲みすぎたんじゃないのか?」
ふいに声をかけられ、隣を歩くカインへと目を向けたシェリルは、小さく首を振ってまた顔を前に戻した。
「……平気。明日になればお酒も消えてるだろうし」
自分の声がかすかに震えている事に気付いて、シェリルは慌てて言葉を喉の奥に押し込んだ。視線を足元へ落として、深く息を吸い込んでみる。火照った体が内側から冷やされていくのを感じながら、シェリルはもう少しワインを飲んでおけばよかったと後悔した。
酔っていれば、その勢いで胸の奥の思いを口に出来たかもしれない。まだ辛うじて体に残るワインの力を借りて口を開こうとしてみるものの、帰路の先にある月の宮殿が近付くに連れてその勇気は相反するようにしぼんでいく。
二人が一緒にいられるのは、宮殿へ続く道の途中からシェリルの部屋までのたった数十分。その短い距離が二人にとって最後の時間だと分かっていても、シェリルは互いの足を止める言葉を何ひとつ口にする事が出来なかった。
宮殿内はしんと静まり返っていた。
明かりの灯された長い廊下を歩く二人の足音は絨毯に吸い込まれ、聞こえてくるのは自分の呼吸音だけだ。それも部屋が近付く度に途切れ、代わりに狂ったように鳴り響く鼓動がシェリルの耳元で煩いくらいに響いていた。
ルーヴァの家からここまで、結局会話らしいものは何も話さなかった。シェリルに残された最後の時間も、後数歩で確実に終わりを告げる。泣き出してしまいそうな自分を必死に抑え、シェリルは少し前を歩くカインの背中を縋るような眼差しで見つめていた。
言いたい事はたくさんあるのに、シェリルの唇はまるで凍ってしまったかのように少しも動かない。シェリルには、カインの気持ちが分からなかった。
「……――――どうして」
言葉は吐息のように零れ落ちた。瞬時に溶けて消える雪のように儚い声音は、けれど完全に消滅する前にカインの耳にはっきりと届く。開きかけた扉もそのままに後ろを振り返ったカインの前で、シェリルが俯いたまま小さく体を震わせて立ち竦んでいた。
「シェリル……」
「……どうして言ってくれないの」
俯いたシェリルの足元、青い絨毯にぽたぽたと雫が落ちて染みを作っていく。小刻みに動く肩が一段と大きく震えた。
「私を……守るって、言ったくせに……どうして。カインの嘘つき」
「……俺はここでお前を」
カインの言葉を遮って首を激しく左右に振ったシェリルが、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げて目の前のカインを睨みつけた。怒りからではなく、不安と悲しみに濡れた翡翠色の瞳に、カインが切なげに歪んで映る。
「私の孤独は、どこで癒せばいいのっ? ……こんな事ならっ」
言いかけて言葉に詰まる。その先を口に出してはいけないと分かっていても、シェリルはそう思わずにはいられなかった。シェリルがここへ戻ってきたのは別れる為ではなく、カインのそばにいたいと願ったから……だったと言うのに。
「言うな」
はっとして顔を上げたシェリルの体が、一瞬にしてカインの腕の中に引き寄せられた。反射的に逃れようと身を捩ったシェリルを更にきつく抱き締めて、カインはシェリルの自由を完全に奪い去る。
「それ以上は言わないでくれ」
呼吸さえ止まりそうなほど強く抱き締められ、その腕の力にカインの思いを感じ取ったシェリルが、縋るようにカインの両腕をぎゅっと握り締めた。
「だったら……カインが言ってよ。……どうして言ってくれないの」
懇願するように囁く声が、涙で震えていた。
「たった一言でいいの。それだけで……いいの」
「……シェリル」
「お願い……」
それは安易に口に出す事を躊躇われた言葉。その一言だけでシェリルの人生を潰してしまう可能性がある事を、カインは誰よりもよく知っていた。何よりも一番伝えたい言葉なのに、声に出して伝える事が出来なかった。
――――けれど。
シェリルは、それを望んだ。たったそれだけで、先の見えない不安に絡め取られていた言葉が、カインの中で確かな希望へと生まれ変わる。
「……お願い、カイン。……言って」
その言葉は魔法の呪文。二人を結ぶ、確かな絆。
「……――――待ってろ」
唇から音が零れるより先にシェリルの体を強く抱き締めて、カインが再度シェリルと自分に魔法の呪文をかけ直す。
「俺はここで罪を償い……そして、いつか必ずお前の元へ戻る。だから……待ってろ。俺だけを待っててくれ」
「……うん……っ」
小さく、けれど確かに頷いて、シェリルがカインの背中に腕を回す。応えるようにシェリルへ身を屈めたカインが、そのまま少し強引に互いの唇を重ね合わせた。
思いを確かめ合うように深く強く重なり合った二つの影は、いつまでも離れる事がなかった。
仄かな月明かりをぼんやりと見上げながら、シェリルはついさっき終わりを迎えたパーティーの余韻を静かに楽しんでいた。結局シェリルはルーヴァが特別に用意してくれたあのワインを、ひとりで半分ほど飲んでいた。元々アルコールは低かったのだろう。シェリルは我を忘れるほど酔っている訳ではなく、強いて言えばただ少しだけ頬が紅潮し心がふわりと軽くなる程度であった。
だがそれも、冷たい夜風に当れば一気に醒める。
「飲みすぎたんじゃないのか?」
ふいに声をかけられ、隣を歩くカインへと目を向けたシェリルは、小さく首を振ってまた顔を前に戻した。
「……平気。明日になればお酒も消えてるだろうし」
自分の声がかすかに震えている事に気付いて、シェリルは慌てて言葉を喉の奥に押し込んだ。視線を足元へ落として、深く息を吸い込んでみる。火照った体が内側から冷やされていくのを感じながら、シェリルはもう少しワインを飲んでおけばよかったと後悔した。
酔っていれば、その勢いで胸の奥の思いを口に出来たかもしれない。まだ辛うじて体に残るワインの力を借りて口を開こうとしてみるものの、帰路の先にある月の宮殿が近付くに連れてその勇気は相反するようにしぼんでいく。
二人が一緒にいられるのは、宮殿へ続く道の途中からシェリルの部屋までのたった数十分。その短い距離が二人にとって最後の時間だと分かっていても、シェリルは互いの足を止める言葉を何ひとつ口にする事が出来なかった。
宮殿内はしんと静まり返っていた。
明かりの灯された長い廊下を歩く二人の足音は絨毯に吸い込まれ、聞こえてくるのは自分の呼吸音だけだ。それも部屋が近付く度に途切れ、代わりに狂ったように鳴り響く鼓動がシェリルの耳元で煩いくらいに響いていた。
ルーヴァの家からここまで、結局会話らしいものは何も話さなかった。シェリルに残された最後の時間も、後数歩で確実に終わりを告げる。泣き出してしまいそうな自分を必死に抑え、シェリルは少し前を歩くカインの背中を縋るような眼差しで見つめていた。
言いたい事はたくさんあるのに、シェリルの唇はまるで凍ってしまったかのように少しも動かない。シェリルには、カインの気持ちが分からなかった。
「……――――どうして」
言葉は吐息のように零れ落ちた。瞬時に溶けて消える雪のように儚い声音は、けれど完全に消滅する前にカインの耳にはっきりと届く。開きかけた扉もそのままに後ろを振り返ったカインの前で、シェリルが俯いたまま小さく体を震わせて立ち竦んでいた。
「シェリル……」
「……どうして言ってくれないの」
俯いたシェリルの足元、青い絨毯にぽたぽたと雫が落ちて染みを作っていく。小刻みに動く肩が一段と大きく震えた。
「私を……守るって、言ったくせに……どうして。カインの嘘つき」
「……俺はここでお前を」
カインの言葉を遮って首を激しく左右に振ったシェリルが、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げて目の前のカインを睨みつけた。怒りからではなく、不安と悲しみに濡れた翡翠色の瞳に、カインが切なげに歪んで映る。
「私の孤独は、どこで癒せばいいのっ? ……こんな事ならっ」
言いかけて言葉に詰まる。その先を口に出してはいけないと分かっていても、シェリルはそう思わずにはいられなかった。シェリルがここへ戻ってきたのは別れる為ではなく、カインのそばにいたいと願ったから……だったと言うのに。
「言うな」
はっとして顔を上げたシェリルの体が、一瞬にしてカインの腕の中に引き寄せられた。反射的に逃れようと身を捩ったシェリルを更にきつく抱き締めて、カインはシェリルの自由を完全に奪い去る。
「それ以上は言わないでくれ」
呼吸さえ止まりそうなほど強く抱き締められ、その腕の力にカインの思いを感じ取ったシェリルが、縋るようにカインの両腕をぎゅっと握り締めた。
「だったら……カインが言ってよ。……どうして言ってくれないの」
懇願するように囁く声が、涙で震えていた。
「たった一言でいいの。それだけで……いいの」
「……シェリル」
「お願い……」
それは安易に口に出す事を躊躇われた言葉。その一言だけでシェリルの人生を潰してしまう可能性がある事を、カインは誰よりもよく知っていた。何よりも一番伝えたい言葉なのに、声に出して伝える事が出来なかった。
――――けれど。
シェリルは、それを望んだ。たったそれだけで、先の見えない不安に絡め取られていた言葉が、カインの中で確かな希望へと生まれ変わる。
「……お願い、カイン。……言って」
その言葉は魔法の呪文。二人を結ぶ、確かな絆。
「……――――待ってろ」
唇から音が零れるより先にシェリルの体を強く抱き締めて、カインが再度シェリルと自分に魔法の呪文をかけ直す。
「俺はここで罪を償い……そして、いつか必ずお前の元へ戻る。だから……待ってろ。俺だけを待っててくれ」
「……うん……っ」
小さく、けれど確かに頷いて、シェリルがカインの背中に腕を回す。応えるようにシェリルへ身を屈めたカインが、そのまま少し強引に互いの唇を重ね合わせた。
思いを確かめ合うように深く強く重なり合った二つの影は、いつまでも離れる事がなかった。
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