108 / 114
第6章 新しい物語
最後の夜・2
しおりを挟む
草原を臨む小高い丘。丘の上に聳える凍えた大樹。大樹の脇を通り過ぎた先にあった小さな家は姿を消し、代わりに色褪せた白い石碑がシェリルとカインを静かに出迎えていた。
シェリルの両親の遺体はここではなくアルディナ神殿に埋葬されていたが、石碑の前には今もたくさんの花が二人の魂を弔うように捧げられていた。
この地でシェリルは大切なものを失った。けれど、もう誰かを憎みながら生きる事はしない。本当に必要なものは憎しみなどではない事をシェリルは知ったから。
『復讐こそ無意味だ』
カインがルシエルであると言う事実を知り、絶望に崩れ落ちて行こうとしたシェリルに、彼女の両親は穏やかな声でそう言った。その言葉の意味が、今なら分かる。
「ねぇ、カイン」
石碑の前で目を閉じて祈り続けるカインを見上げ、シェリルは二人が初めて会った時から今までの事を振り返る。
「私たちに必要だったのは……愛する事に怯えず、人を信じる事だったのかもしれないわ」
ゆっくりと顔を上げて自分を見下ろすカインに微笑んで、シェリルはカインから石碑へと視線を移し、一言一言心に刻むように言葉を続けた。
「誰かを大切に思う気持ちは何よりも強いと思うの。だから私もカインも、今生きてここにいられるんだって」
「シェリル……」
「私は誰かを憎むよりも、愛したいわ」
そう言ってはにかんだように微笑むシェリルを、カインは優しく静かに抱き締めていた。何よりも純粋で、嘘偽りのない思いをいつも真っ直ぐにぶつけてくるかけがえのない存在。カインはシェリルを失わなくて本当に良かったと、心の底からそう思った。
抱き締める腕に、消えない熱。触れ合う胸に、確かな鼓動。本来ならこうして抱き締める事すら許されない罪をカインは犯した。けれどその罪を許し、それでも自分を必要としてくれているシェリルを、カインは誰よりも何よりも愛しいと思った。
一度はこの手で奪い去った幸せを、今度はシェリルに返してやりたい。他の誰でもない、自分自身の手で。
「シェリル。……今度こそ、お前を守らせてくれ」
その言葉はシェリルと、そしてカインが殺めてしまった彼女の両親に向けた誓い。もう自分の中にある弱さに負けたりなんかしない。だからもう一度、そばにいる事を許して欲しい。
抱き締める腕に力を込めて、カインは自分の中の思いを心の中で何度も何度も繰り返す。二人の魂に許しを請うかのごとく唇から零れた願いは、草原を駆け巡る冷たい風に攫われて空高くに運ばれて行った。
――――貴方たちに祝福を。
かすかに残る風の余韻に紛れて、声が聞こえたような気がした。
吹き抜ける風。揺れる空気。その間を縫って届く……甘い、花の香り。どこかで嗅いだ事のある匂いにはっと目を見開いたカインの視界が、一瞬だけ白一色に染め上げられた。
草原を臨む丘の上、そこにありえない光景が広がっていた。
「……これは」
淡いブルーの瞳の中で、幾つもの花が舞っていた。枯れていたはずの大樹が瞬く間に甦り、空に広げた枝いっぱいに白い花が咲き乱れている。風で枝が揺れる度に花弁は雪のように乱舞し、夢でも幻でもなくカインの肌に直に触れながら甘い残香を漂わせて落ちていく。その光景は、カインがシェリルの魂を見つけたあの場所とまったく同じだった。
――――どうか幸せに。
頬に触れた花弁が、小さな声で囁いた。その音を、香りを、花弁の乱舞を決して忘れないように、カインは瞳をぎゅっときつく閉じて、夢に似た光景を心にしっかりと刻み付けていく。そんなカインを愛しく包み込んでいく白い花弁は、彼が背負う罪すら許すようにいつまでも降り続いていた。
リスティール村を後にした二人は天界へは戻らず、そのままフィネス村へと向かっていた。呪われた地に染み付いた惨劇は簡単に消える事はなく、未だ荒れ果てた猛毒の大地が遠くの方まで続いていた。
錆付いた剣や白い骨の残骸が、乾いた風に弄ばれている。悲しみに満ちた大地を無言のまま見つめながら、カインがやがて意を決したように深く息を吸い込んだ。カインの腕に支えられたまま上空から荒野を見下ろしていたシェリルは、その僅かな体の揺れに思わずはっと息を飲む。鼓動が、どくんと鳴った。
「この地で、俺は多くの命を奪った」
カインの言葉を肯定するように、白骨がからからと音を立てながら転がっていく。
「俺が犯した罪の傷跡は未だ癒える事なく残っていると言うのに、俺だけがお前に救われてここにいる」
「でも、カイン……それは」
苦しげな表情を浮かべるカインに、シェリルが思わず口を挟んだ。そんなシェリルをじっと見下ろして、カインが緩く首を振る。
「最後まで聞いてくれ。……シェリル、俺は――俺は、天界に残って、自分が犯した罪をちゃんと償いたいと思ってる」
「……っ」
「どれだけ時間がかかるか分からない。でもそれは俺がやるべき最後の役目だ。……だから、シェリル……」
辛そうに名を呼ばれ、シェリルの胸が早鐘を打つ。その先を、カインの口から聞きたくなかった。聞かなくても、シェリルには言葉の続きが分かっているから。本当はもう、気付いていたから。カインと一緒にいられない現実を。
「……じゃあ、私も早く戻らなくちゃね」
掠れた声でやっとそれだけの音を紡ぐと、シェリルは顔をカインに向けてにこりと薄い笑みを浮かべた。
「長くいると、かえって辛いじゃない」
「シェリル……」
「うん、平気よ。ひとりでも大丈夫だから心配しないで」
抱き締めた小さな体がかすかに震えていた。それを感じ取っていても、カインにはシェリルにかける言葉が何もない。
天界に残る選択をしたのはカイン。自分に出来る償いをしようと思ったのもカイン。その後で短い命を持つ人間として、シェリルと共に生きていく事を望んだのもカインだったが、それを口にする事は出来なかった。
罪の償いにどれほどの時間がかかるかは分からない。数年かもしれないし、数十年かもしれない。すべてを終えた後にシェリルの元へ行くことを決めてはいたが、その願いがいつ叶うかはカインにも分からなかった。時間の確定が出来ないのなら、シェリルに対しても安易な約束など出来はしない。
気丈に振る舞うシェリルを見つめたまま、カインは自分の思いを上手く言葉に出来ずに唇をきつく噛み締めるだけだった。
シェリルの両親の遺体はここではなくアルディナ神殿に埋葬されていたが、石碑の前には今もたくさんの花が二人の魂を弔うように捧げられていた。
この地でシェリルは大切なものを失った。けれど、もう誰かを憎みながら生きる事はしない。本当に必要なものは憎しみなどではない事をシェリルは知ったから。
『復讐こそ無意味だ』
カインがルシエルであると言う事実を知り、絶望に崩れ落ちて行こうとしたシェリルに、彼女の両親は穏やかな声でそう言った。その言葉の意味が、今なら分かる。
「ねぇ、カイン」
石碑の前で目を閉じて祈り続けるカインを見上げ、シェリルは二人が初めて会った時から今までの事を振り返る。
「私たちに必要だったのは……愛する事に怯えず、人を信じる事だったのかもしれないわ」
ゆっくりと顔を上げて自分を見下ろすカインに微笑んで、シェリルはカインから石碑へと視線を移し、一言一言心に刻むように言葉を続けた。
「誰かを大切に思う気持ちは何よりも強いと思うの。だから私もカインも、今生きてここにいられるんだって」
「シェリル……」
「私は誰かを憎むよりも、愛したいわ」
そう言ってはにかんだように微笑むシェリルを、カインは優しく静かに抱き締めていた。何よりも純粋で、嘘偽りのない思いをいつも真っ直ぐにぶつけてくるかけがえのない存在。カインはシェリルを失わなくて本当に良かったと、心の底からそう思った。
抱き締める腕に、消えない熱。触れ合う胸に、確かな鼓動。本来ならこうして抱き締める事すら許されない罪をカインは犯した。けれどその罪を許し、それでも自分を必要としてくれているシェリルを、カインは誰よりも何よりも愛しいと思った。
一度はこの手で奪い去った幸せを、今度はシェリルに返してやりたい。他の誰でもない、自分自身の手で。
「シェリル。……今度こそ、お前を守らせてくれ」
その言葉はシェリルと、そしてカインが殺めてしまった彼女の両親に向けた誓い。もう自分の中にある弱さに負けたりなんかしない。だからもう一度、そばにいる事を許して欲しい。
抱き締める腕に力を込めて、カインは自分の中の思いを心の中で何度も何度も繰り返す。二人の魂に許しを請うかのごとく唇から零れた願いは、草原を駆け巡る冷たい風に攫われて空高くに運ばれて行った。
――――貴方たちに祝福を。
かすかに残る風の余韻に紛れて、声が聞こえたような気がした。
吹き抜ける風。揺れる空気。その間を縫って届く……甘い、花の香り。どこかで嗅いだ事のある匂いにはっと目を見開いたカインの視界が、一瞬だけ白一色に染め上げられた。
草原を臨む丘の上、そこにありえない光景が広がっていた。
「……これは」
淡いブルーの瞳の中で、幾つもの花が舞っていた。枯れていたはずの大樹が瞬く間に甦り、空に広げた枝いっぱいに白い花が咲き乱れている。風で枝が揺れる度に花弁は雪のように乱舞し、夢でも幻でもなくカインの肌に直に触れながら甘い残香を漂わせて落ちていく。その光景は、カインがシェリルの魂を見つけたあの場所とまったく同じだった。
――――どうか幸せに。
頬に触れた花弁が、小さな声で囁いた。その音を、香りを、花弁の乱舞を決して忘れないように、カインは瞳をぎゅっときつく閉じて、夢に似た光景を心にしっかりと刻み付けていく。そんなカインを愛しく包み込んでいく白い花弁は、彼が背負う罪すら許すようにいつまでも降り続いていた。
リスティール村を後にした二人は天界へは戻らず、そのままフィネス村へと向かっていた。呪われた地に染み付いた惨劇は簡単に消える事はなく、未だ荒れ果てた猛毒の大地が遠くの方まで続いていた。
錆付いた剣や白い骨の残骸が、乾いた風に弄ばれている。悲しみに満ちた大地を無言のまま見つめながら、カインがやがて意を決したように深く息を吸い込んだ。カインの腕に支えられたまま上空から荒野を見下ろしていたシェリルは、その僅かな体の揺れに思わずはっと息を飲む。鼓動が、どくんと鳴った。
「この地で、俺は多くの命を奪った」
カインの言葉を肯定するように、白骨がからからと音を立てながら転がっていく。
「俺が犯した罪の傷跡は未だ癒える事なく残っていると言うのに、俺だけがお前に救われてここにいる」
「でも、カイン……それは」
苦しげな表情を浮かべるカインに、シェリルが思わず口を挟んだ。そんなシェリルをじっと見下ろして、カインが緩く首を振る。
「最後まで聞いてくれ。……シェリル、俺は――俺は、天界に残って、自分が犯した罪をちゃんと償いたいと思ってる」
「……っ」
「どれだけ時間がかかるか分からない。でもそれは俺がやるべき最後の役目だ。……だから、シェリル……」
辛そうに名を呼ばれ、シェリルの胸が早鐘を打つ。その先を、カインの口から聞きたくなかった。聞かなくても、シェリルには言葉の続きが分かっているから。本当はもう、気付いていたから。カインと一緒にいられない現実を。
「……じゃあ、私も早く戻らなくちゃね」
掠れた声でやっとそれだけの音を紡ぐと、シェリルは顔をカインに向けてにこりと薄い笑みを浮かべた。
「長くいると、かえって辛いじゃない」
「シェリル……」
「うん、平気よ。ひとりでも大丈夫だから心配しないで」
抱き締めた小さな体がかすかに震えていた。それを感じ取っていても、カインにはシェリルにかける言葉が何もない。
天界に残る選択をしたのはカイン。自分に出来る償いをしようと思ったのもカイン。その後で短い命を持つ人間として、シェリルと共に生きていく事を望んだのもカインだったが、それを口にする事は出来なかった。
罪の償いにどれほどの時間がかかるかは分からない。数年かもしれないし、数十年かもしれない。すべてを終えた後にシェリルの元へ行くことを決めてはいたが、その願いがいつ叶うかはカインにも分からなかった。時間の確定が出来ないのなら、シェリルに対しても安易な約束など出来はしない。
気丈に振る舞うシェリルを見つめたまま、カインは自分の思いを上手く言葉に出来ずに唇をきつく噛み締めるだけだった。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?


元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

病弱少年が怪我した小鳥を偶然テイムして、冒険者ギルドの採取系クエストをやらせていたら、知らないうちにLV99になってました。
もう書かないって言ったよね?
ファンタジー
ベッドで寝たきりだった少年が、ある日、家の外で怪我している青い小鳥『ピーちゃん』を助けたことから二人の大冒険の日々が始まった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる