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第6章 新しい物語
最後の夜・1
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「うわぁ……」
真下に広がる懐かしい下界の風景に、シェリルは思わず声を漏らして体を前に乗り出した。放っておけばそのまま落下しそうな体は、身を乗り出すと同時に強引に引き戻され、シェリルは少し残念そうに唇を噛みながら自分を抱き支える腕を見つめた。
「はしゃぎすぎだ。落すぞ」
言葉は乱暴でも、その顔に浮かぶ笑みはひどく優しい。シェリルを抱える腕に力を込めて、カインは青い空の下をゆっくりと飛んでいく。
「だって、久しぶりなんだもの。嬉しくって」
「ずっと宮殿に閉じこもってばっかりだったからな」
「……それもあるけど」
言葉を切って、カインを見上げたシェリルの瞳に、懐かしい色彩が映し出される。風に流れ、光の糸を思わせる紫銀の髪に、どこまでも澄んだ淡いブルーの瞳。共に空を駆け、旅をしたのはそう遠くない過去なのに、離れていた時間が随分と長かったような気がする。
「やっと……二人きりになれたなぁって」
小さく呟いて、赤くなる頬を見られまいと、シェリルがカインの胸に素早く顔を埋める。そんなシェリルを愛しいと感じながら、カインも抱き締める腕に力を込めてシェリルの髪を優しく撫で下ろした。
「あいつを説得するのに時間はかかったけどな」
「ルーヴァ、何て言ってたの?」
シェリルの外出許可の代わりにルーヴァが出した条件、それを思い出して意地悪く笑ったカインがシェリルの耳元に唇を寄せて、息を吹きかけるように甘く囁いた。
「激しい運動は控えろってさ」
「っ……!」
予想通り言葉をなくして固まったシェリルを面白そうに見ながら、カインは必要以上に顔を近づけて色っぽく笑う。呼吸さえ奪う魅惑的な微笑みにそのまま目を閉じかけたシェリルだったが、寸前のところで理性が働いてカインから勢いよく体を引き剥がした。抱き締めた腕の中でこれでもかと言うほど距離を取るシェリルを見て、カインが残念そうに重く長い溜息をつく。
「何だよ。これくらい激しくも何ともないだろ」
「生々しい言い方しないでよっ」
そう言って更に顔を赤くさせるシェリルを両腕にぎゅっと抱いて、カインがどこか楽しそうに声を漏らして笑った。
「分かったよ。お前が元気になってからにするさ」
「何をっ?」
「そこまで聞きたいのか?」
「……やっぱりいい」
そんな会話を続けながら、二人は冬の青空をどこまでも遠く飛んで行った。
『お前について来てほしいところがあるんだ』
カインがそう言いに来たのは数時間前のことだった。診察の為部屋を訪れたルーヴァを説得し、そのまま宮殿から連れ出されるまで、シェリルは自分がどこに連れて行かれるのか聞く事も出来なかった。風の回廊へと続く魔法陣の上でどこに行くのかを訊ねたシェリルに、カインは「すぐに分かる」とだけ口にして下界の空へと降りて行った。
「ねぇ、カイン。どこへ向かってるの?」
行き先に多少なりとも疑問を抱き、シェリルはカインを窺うようにちらりと視線を上に向けて訊ねてみた。シェリルの視線に気付いていながら返事はせず、代わりに高度をぐんと下げたカインが真下に広がるのどかな田舎の風景を見回して小さく息を吐いた。
「見覚えないか?」
逆に問われて、シェリルが眼下に目を向けた。
北の方角に山が連なり、その麓に小さな村があった。山から流れ出る水が小川を作り、村の中を横切っていて、ずっと南の方で別の大きな川と繋がりひとつの流れになっている。その村からほんの少しだけ離れた場所に、広大な草原が枯れた緑の波を泳がせていた。春になればそれは美しい若草色の海が見られるのだろう。
そう思った瞬間、シェリルの中でかちりと記憶の歯車が音をたてて回り始めた。少しずつ目を覚ます記憶の中で、懐かしい花の匂いがした。
「少し変わってるが覚えてるだろ?」
そう言われて驚いたように目を見開いたシェリルが、眼下から視線を移してカインを真っ直ぐに見上げた。
忘れるはずがなかった。煙突から白い煙を出している小さなパン屋も、木造りの古びた教会も、シェリルが大好きだった花畑も、記憶と変わらない位置に今もしっかりと残っている。
村を流れる小川で遊んだ事があった。行ってはいけない洞窟に初恋の男の子と探検に行って、ひどく叱られた事もあった。優しい両親に連れられて、あの草原にピクニックに行った事も。
「……待って、カイン。……でもここは」
「お前がいたリスティール村だ」
村外れの小高い丘の上に降り立って、カインは強い決心を秘めた迷いのない瞳をシェリルに向ける。
「そしてここにお前の家があった」
呼び戻される記憶の中で、村と丘とを繋ぐ一本道を幼いシェリルが軽快に駆け上ってくる。丘に聳える大樹の脇を通り過ぎ、優しい両親の待つ家を一直線に目指して走る幼いシェリルの幻は、カインの体を通り抜けてその後ろに立てられた石碑の中へと消えていった。
「……カイン。どうして」
「お前にとって辛い記憶を呼び覚ましてしまうかもしれない。……でも、ここに来るべきだと思った。犯した罪を受け止め、それを償う為に。……そのすべてを、お前に見届けてほしい」
十年前この地で起こった惨劇を、鼓膜を突き破るほどの絶叫を、この場所は今もありありとシェリルに伝えてくる。飛び散った鮮血。生前の姿を少しも留めない肉塊。発狂した幼いシェリル。思い出の地は辛い記憶に塗り変えられ、その傷跡は十年経った今でも完全に消える事はない。
けれど。
意識を過去から引き戻し、シェリルはカインの視線を受け止める。
けれど、辛いのはカインも同じだ。カインも同じように己の罪を悔い、その重さに押し潰されているはずだ。それなのに彼は逃げず、犯した罪を正面から受け止めようとしている。
カインの真の強さを知った時、シェリルも過去の枷を外し、しっかりと頷いていた。
真下に広がる懐かしい下界の風景に、シェリルは思わず声を漏らして体を前に乗り出した。放っておけばそのまま落下しそうな体は、身を乗り出すと同時に強引に引き戻され、シェリルは少し残念そうに唇を噛みながら自分を抱き支える腕を見つめた。
「はしゃぎすぎだ。落すぞ」
言葉は乱暴でも、その顔に浮かぶ笑みはひどく優しい。シェリルを抱える腕に力を込めて、カインは青い空の下をゆっくりと飛んでいく。
「だって、久しぶりなんだもの。嬉しくって」
「ずっと宮殿に閉じこもってばっかりだったからな」
「……それもあるけど」
言葉を切って、カインを見上げたシェリルの瞳に、懐かしい色彩が映し出される。風に流れ、光の糸を思わせる紫銀の髪に、どこまでも澄んだ淡いブルーの瞳。共に空を駆け、旅をしたのはそう遠くない過去なのに、離れていた時間が随分と長かったような気がする。
「やっと……二人きりになれたなぁって」
小さく呟いて、赤くなる頬を見られまいと、シェリルがカインの胸に素早く顔を埋める。そんなシェリルを愛しいと感じながら、カインも抱き締める腕に力を込めてシェリルの髪を優しく撫で下ろした。
「あいつを説得するのに時間はかかったけどな」
「ルーヴァ、何て言ってたの?」
シェリルの外出許可の代わりにルーヴァが出した条件、それを思い出して意地悪く笑ったカインがシェリルの耳元に唇を寄せて、息を吹きかけるように甘く囁いた。
「激しい運動は控えろってさ」
「っ……!」
予想通り言葉をなくして固まったシェリルを面白そうに見ながら、カインは必要以上に顔を近づけて色っぽく笑う。呼吸さえ奪う魅惑的な微笑みにそのまま目を閉じかけたシェリルだったが、寸前のところで理性が働いてカインから勢いよく体を引き剥がした。抱き締めた腕の中でこれでもかと言うほど距離を取るシェリルを見て、カインが残念そうに重く長い溜息をつく。
「何だよ。これくらい激しくも何ともないだろ」
「生々しい言い方しないでよっ」
そう言って更に顔を赤くさせるシェリルを両腕にぎゅっと抱いて、カインがどこか楽しそうに声を漏らして笑った。
「分かったよ。お前が元気になってからにするさ」
「何をっ?」
「そこまで聞きたいのか?」
「……やっぱりいい」
そんな会話を続けながら、二人は冬の青空をどこまでも遠く飛んで行った。
『お前について来てほしいところがあるんだ』
カインがそう言いに来たのは数時間前のことだった。診察の為部屋を訪れたルーヴァを説得し、そのまま宮殿から連れ出されるまで、シェリルは自分がどこに連れて行かれるのか聞く事も出来なかった。風の回廊へと続く魔法陣の上でどこに行くのかを訊ねたシェリルに、カインは「すぐに分かる」とだけ口にして下界の空へと降りて行った。
「ねぇ、カイン。どこへ向かってるの?」
行き先に多少なりとも疑問を抱き、シェリルはカインを窺うようにちらりと視線を上に向けて訊ねてみた。シェリルの視線に気付いていながら返事はせず、代わりに高度をぐんと下げたカインが真下に広がるのどかな田舎の風景を見回して小さく息を吐いた。
「見覚えないか?」
逆に問われて、シェリルが眼下に目を向けた。
北の方角に山が連なり、その麓に小さな村があった。山から流れ出る水が小川を作り、村の中を横切っていて、ずっと南の方で別の大きな川と繋がりひとつの流れになっている。その村からほんの少しだけ離れた場所に、広大な草原が枯れた緑の波を泳がせていた。春になればそれは美しい若草色の海が見られるのだろう。
そう思った瞬間、シェリルの中でかちりと記憶の歯車が音をたてて回り始めた。少しずつ目を覚ます記憶の中で、懐かしい花の匂いがした。
「少し変わってるが覚えてるだろ?」
そう言われて驚いたように目を見開いたシェリルが、眼下から視線を移してカインを真っ直ぐに見上げた。
忘れるはずがなかった。煙突から白い煙を出している小さなパン屋も、木造りの古びた教会も、シェリルが大好きだった花畑も、記憶と変わらない位置に今もしっかりと残っている。
村を流れる小川で遊んだ事があった。行ってはいけない洞窟に初恋の男の子と探検に行って、ひどく叱られた事もあった。優しい両親に連れられて、あの草原にピクニックに行った事も。
「……待って、カイン。……でもここは」
「お前がいたリスティール村だ」
村外れの小高い丘の上に降り立って、カインは強い決心を秘めた迷いのない瞳をシェリルに向ける。
「そしてここにお前の家があった」
呼び戻される記憶の中で、村と丘とを繋ぐ一本道を幼いシェリルが軽快に駆け上ってくる。丘に聳える大樹の脇を通り過ぎ、優しい両親の待つ家を一直線に目指して走る幼いシェリルの幻は、カインの体を通り抜けてその後ろに立てられた石碑の中へと消えていった。
「……カイン。どうして」
「お前にとって辛い記憶を呼び覚ましてしまうかもしれない。……でも、ここに来るべきだと思った。犯した罪を受け止め、それを償う為に。……そのすべてを、お前に見届けてほしい」
十年前この地で起こった惨劇を、鼓膜を突き破るほどの絶叫を、この場所は今もありありとシェリルに伝えてくる。飛び散った鮮血。生前の姿を少しも留めない肉塊。発狂した幼いシェリル。思い出の地は辛い記憶に塗り変えられ、その傷跡は十年経った今でも完全に消える事はない。
けれど。
意識を過去から引き戻し、シェリルはカインの視線を受け止める。
けれど、辛いのはカインも同じだ。カインも同じように己の罪を悔い、その重さに押し潰されているはずだ。それなのに彼は逃げず、犯した罪を正面から受け止めようとしている。
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