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第6章 新しい物語
彷徨う心・3
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朽ち果てていくだけの大地に身を委ね、共に終わりを迎えようとしていたフィネス村に、その影はひっそりと佇んでいた。
この村唯一の医者の家、その奥の埃にまみれた白い部屋にゆらりと流れ、村の命を繋いできた小さな井戸の側をゆらり通り過ぎて。血に汚れた赤黒い祭壇の前でぴたりと止まる。はるか昔に染み付いた血の匂いが、未だ生々しく鼻の奥を突き抜けていった。
『死ぬな。ルシエル』
『殺せっ。我を殺してくれ!』
届かない思いと。
『お前は要らない子』
『お母さん。僕を愛して』
残酷すぎる鮮血と。
『シェリルから離れろっ!』
『君がそれを望むの?』
交差する人格。
動かない意識の中で、この地に残る記憶が絶え間なく逆流していた。
脳内を侵す過去の残響。絡まり溶け合う多くの声はカインの中に留まる事を許されず、響いてはまた別の声にかき消され、言葉少なに消滅していく。
その中でたったひとつだけ、どんなに翻弄されても決して消える事のない静かな音があった。カインに語りかけるようにして響くその音は、いなくなってしまった乙女の声音でカインの名前を何度も呼んでいた。
カインに聞こえるのは、もうそれしかなかった。自分を呼ぶシェリルの声が体の奥に響くのを感じながら、カインは祭壇の前にがくりと膝を付いて蹲る。乾いた唇が、痙攣するように動いていた。
「……う……あぁ」
どこにもいない。ずっとそばにいると言った乙女は、もうこの世界のどこにもいない。
「…………ル。……シェ……ル」
名前を呼んだ。何度も何度もシェリルの名前を呼び続けた。それは相手に呼びかけるものではなく、自分の中にある何かを呼び覚ます為の呪文のようで、カインは自分でも理解していないその動作を狂ったように続けていた。
シェリルの名を呼ぶ。その度に、忘れていた思いがひとつひとつ色鮮やかに甦る。
『貴方、本当に天使なの?』
『いっつも人をからかって、誠実さのかけらもないんだからっ』
『離れているのはとても不安なの』
『……どうして……カインっ!』
『カインを解放して』
『……ずっと、そばにいるから』
――――だから、もう泣かないで。
「……――――こ……に」
蹲ったまま、カインはひとり震えて泣いていた。
「ど……に。どこ、に……いるんだ」
枯れた声音で呟いて、カインは緩く首を振る。返事がない事を知っていた。シェリルがもういない事を知っていた。
ぎゅっと強く握りしめた右手に、あの生々しい感触が甦ろうとしていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。高い位置に輝いていた太陽はいつのまにか西へ傾き、辺りは薄暗い夕闇に包まれていた。
祭壇の前に蹲っていたカインは、ふと自分の右隣の空気が急速に冷えていくのを感じてゆっくりと顔を上げた。曖昧に揺れる虚ろな瞳。その奥に、灰青の幻が陽炎のように映し出されていた。見覚えのある影をぼんやりと見つめていたカインの前で、揺らめく少年の残像が淡く儚げな笑みを浮かべる。少年にしてはやけに大人びたその微笑みに、カインの意識がざわりと動いた。
「……ディ……ラ……」
唇が勝手に動き、少年の名を紡ぎ落す。カインの声に嬉しそうに笑い返した少年が、静かに手を上げて村の外を指差した。つられて顔をそちらに向けたカインだったが、その方角に何かを見つける事は出来ず、諦めたように視線を元に戻す。
そこにいたはずの少年は、もうどこにもいなかった。
この村唯一の医者の家、その奥の埃にまみれた白い部屋にゆらりと流れ、村の命を繋いできた小さな井戸の側をゆらり通り過ぎて。血に汚れた赤黒い祭壇の前でぴたりと止まる。はるか昔に染み付いた血の匂いが、未だ生々しく鼻の奥を突き抜けていった。
『死ぬな。ルシエル』
『殺せっ。我を殺してくれ!』
届かない思いと。
『お前は要らない子』
『お母さん。僕を愛して』
残酷すぎる鮮血と。
『シェリルから離れろっ!』
『君がそれを望むの?』
交差する人格。
動かない意識の中で、この地に残る記憶が絶え間なく逆流していた。
脳内を侵す過去の残響。絡まり溶け合う多くの声はカインの中に留まる事を許されず、響いてはまた別の声にかき消され、言葉少なに消滅していく。
その中でたったひとつだけ、どんなに翻弄されても決して消える事のない静かな音があった。カインに語りかけるようにして響くその音は、いなくなってしまった乙女の声音でカインの名前を何度も呼んでいた。
カインに聞こえるのは、もうそれしかなかった。自分を呼ぶシェリルの声が体の奥に響くのを感じながら、カインは祭壇の前にがくりと膝を付いて蹲る。乾いた唇が、痙攣するように動いていた。
「……う……あぁ」
どこにもいない。ずっとそばにいると言った乙女は、もうこの世界のどこにもいない。
「…………ル。……シェ……ル」
名前を呼んだ。何度も何度もシェリルの名前を呼び続けた。それは相手に呼びかけるものではなく、自分の中にある何かを呼び覚ます為の呪文のようで、カインは自分でも理解していないその動作を狂ったように続けていた。
シェリルの名を呼ぶ。その度に、忘れていた思いがひとつひとつ色鮮やかに甦る。
『貴方、本当に天使なの?』
『いっつも人をからかって、誠実さのかけらもないんだからっ』
『離れているのはとても不安なの』
『……どうして……カインっ!』
『カインを解放して』
『……ずっと、そばにいるから』
――――だから、もう泣かないで。
「……――――こ……に」
蹲ったまま、カインはひとり震えて泣いていた。
「ど……に。どこ、に……いるんだ」
枯れた声音で呟いて、カインは緩く首を振る。返事がない事を知っていた。シェリルがもういない事を知っていた。
ぎゅっと強く握りしめた右手に、あの生々しい感触が甦ろうとしていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。高い位置に輝いていた太陽はいつのまにか西へ傾き、辺りは薄暗い夕闇に包まれていた。
祭壇の前に蹲っていたカインは、ふと自分の右隣の空気が急速に冷えていくのを感じてゆっくりと顔を上げた。曖昧に揺れる虚ろな瞳。その奥に、灰青の幻が陽炎のように映し出されていた。見覚えのある影をぼんやりと見つめていたカインの前で、揺らめく少年の残像が淡く儚げな笑みを浮かべる。少年にしてはやけに大人びたその微笑みに、カインの意識がざわりと動いた。
「……ディ……ラ……」
唇が勝手に動き、少年の名を紡ぎ落す。カインの声に嬉しそうに笑い返した少年が、静かに手を上げて村の外を指差した。つられて顔をそちらに向けたカインだったが、その方角に何かを見つける事は出来ず、諦めたように視線を元に戻す。
そこにいたはずの少年は、もうどこにもいなかった。
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