飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第6章 新しい物語

彷徨う心・2

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「どういう事ですか? アルディナ様」

 白い壁に囲まれた冷たい空間に、セシリアの声が木霊する。
 壁に刻まれた神聖文字が未だ青白く光を放つここは、女神アルディナが深い眠りについていた場所だ。カインとシェリルをかけらの元へ導いた二つの魔法陣は消滅し、代わりに現れた金色の魔法陣が部屋の中央で淡い光を放っている。その中に横たわるシェリルの体は、けれどやっぱり少しも動く事はなかった。

「シェリルの魂がどこにもないと言ったのだ。転生の儀を行おうと魂の気配を探っても、何も感じない。天界は勿論、地界と下界そのどこにもシェリルの魂を見つけ出す事は出来なかった」

「魂の消滅? ……そんな事が」

 あるはずがないと呟いて、セシリアは口元に手を当てたまま難しい顔をして黙り込む。
 命ある者は例えそれがどんな存在であろうと、生と死の終わりなき輪廻に導かれている。朽ち果てた肉体を離れた魂は新しい器を得て、新しい時代を新しい存在で歩んでいくのだ。それは女神の手によって行われる転生の儀式によって繰り返されている。
 そう、人も天使も器は死ぬ。しかし魂は未来永劫生き続けるのだ。変わらない、変える事の出来ない自然の理。
 それがなぜ、シェリルの魂だけが消滅してしまったのか。それほどまでにルシエルの、闇の力は邪悪であったと言うのか。ルシエルの心に触れたシェリルの魂そのものを消し去ってしまうほどに。

「もうひとつ、消えたものがある」

 低い声音で静かに呟かれたアルディナの言葉に、セシリアが顔を上げて息を飲む。

「……魔剣フロスティア、ですね」

 怯えた口調で呟いて僅かに表情を曇らせたセシリアに、アルディナがこくりと静かに頷いた。

「フロスティアはルシエルの孤独が生み出した忌まわしき産物。ルシエルが闇の王として振るってきた暗黒の力の集合体なのだ。魔剣を得てルシエルは闇の王に成り代わり、そして闇を纏う者イヴェルスは魔剣に渦巻くルシエルの孤独を糧として力を増す」

「すべてを繋ぐ鍵……だったのですね」

「あれがある限り、ルシエルの心の闇は消えない。狡猾な奴等はそれを利用し、ルシエルを再び闇の王に仕立て上げるだろう」

 奴等と聞いて、セシリアがぎくんと体を震わせた。セシリアが何を言いたいのか、その表情だけですべてを悟ったアルディナが悲しげに目を伏せて、床に横たわるシェリルへと目を落とした。

闇を纏う者イヴェルスはまだカインの内に潜んでいる」

「そんな! あれほどの犠牲を出しておきながら、闇を纏う者イヴェルスはまだ消滅していないと仰るのですかっ」

 世界救済の代償として、セシリアたちはかけがえのないものを失った。だと言うのに、一番の敵である闇を纏う者イヴェルスが未だ存在していると言う事実に、セシリアは憤りを感じずにいられなかった。

闇を纏う者イヴェルスの排除には、魔剣の消滅が絶対条件だ。……ルシエルの孤独を癒せるのは、シェリルしかいないと思った。だがシェリルは死に、魔剣も行方知れず。残された我らに出来る事は少ない」

 シェリルからセシリアへ視線を戻して、アルディナが小さくけれどはっきりとした声で言った。

「魔剣をルシエルに渡してはならぬ」





 消えない残響。
 途切れない記憶。
 狂おしいほどに求めたはずの熱でさえ、彼の指を拒み逝くように冷めてしまった。
 木霊する声の向こうに、戻らない夢。犯した罪を償う前に、汚れた両手は血に染まる。繰り返し再生される魂の慟哭を無感情に聞きながら、男は色のない瞳を窓の外へ向けていた。壊れた硝子玉の瞳には、晴れ渡った青空を自由に飛んで行く二羽の白い鳥が……歪んで映っていた。

「……カイン。貴方はこれで終わりですか? もう戻っては来れないんですか?」

 月の宮殿の一室。窓辺に置かれた椅子に腰掛けたまま、カインはどこまでも続く青空をぼんやりと見上げていた。見つめると言うよりはただ顔をそちらに向けているだけで、実際にカインはただの一度も瞬きをしていない。まるで良く出来た人形のように、息すら殺してそこにいる。そんなカインを正面から見つめて、ルーヴァが再度優しさを含む静かな声音で語りかけた。

「シェリルの魂が消滅しました。……けれど、私はこう思うのですよ。シェリルは貴方の中にいるのだと」

 消えそうに儚い笑みを浮かべて、ルーヴァはそっと目を伏せる。そうあってほしいと願いながら。

「ルーヴァ」

 名を呼ばれ振り返った先に、セシリアが立っていた。転移魔法で来たのだろう、部屋の扉は閉じたままになっている。

「アルディナ様が待っているわ。行きましょう」

「……えぇ」

 小さく返事をして頷くと、ルーヴァは沈みかけていた気持ちを入れ替える為に深く息を吸い込んだ。

「カイン。……また来ます」

 そう言い残して部屋から出て行ったルーヴァとセシリアに、カインは最後まで目を向ける事はなかった。

「どこから探すんですか?」

 部屋を出て長い廊下を歩きながら、ルーヴァがセシリアへと尋ねた。

「可能性が一番高い地界ガルディオスは消滅してしまったわ。けれどその際に時空が歪み、一部が下界イルージュと繋がったらしいの。だから」

「まずは下界からと言う事ですね」

「イルージュは広いわ。貴方と私、そしてリリスで手分けして探した方がよさそうね」

 遠くなる二人の声が完全に消えてしまっても、カインは少しも動く事はなかった。人形のように椅子に座り、息をせずに空を見上げる。壊れた硝子玉を思わせる虚ろな瞳、そこに映る白い鳥の残像が……ゆらりと揺らめいた。

『シェリルの魂が消滅しました』

 ――――消……滅? 魂?

『けれど私はこう思うのですよ。シェリルは貴方の中にいるのだと』

 ――――シェリ、ル?

 歪んだ視界に捕われた、白く小さな二羽の鳥。

『忘れないで。カイン』

 小さな羽根だけを残して、カインの視界から遠く彼方へと飛び去っていく。

「……――――シェリル」

 かすかに色を取り戻した瞳の中には、小鳥を奪った青空が静かに映し出されていた。

 カインの身の回りの世話を任されたひとりの天使が異変に気付いたのは、それから暫く経った後の事である。
 時が止まった静寂の一室。そこに、カインの姿はどこにもなかった。
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