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第6章 新しい物語
狂神・1
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『お前が俺を信じるなら、俺は決してルシエルなんかに負けやしない』
時が、止まっていた。
そこに居合わせたすべてのものが息を殺し、物音ひとつ立てずに、光と闇の運命を凝視していた。
かすかに震える純白の翼。その間から突き出した氷の刃が、生温かい鮮血の涙に酔いしれている。
魔剣を突き刺したのはカイン。愛しい者の手によって、無惨に命を狩られたのはシェリル。
はるか昔から廻り続けて来た光と闇の運命は、最も最悪な結末を迎えて終わりを告げようとしていた。
「……」
名前を呼んだつもりが、言葉は音にならなかった。自分の身に何が起こったのかを理解するより先に、シェリルの体から急速に熱が奪われる。流れ出ていく命を引き戻そうとしても、もはやシェリルの体に自由など少しも残されていなかった。
力を失った手から、ルーテリーヴェの剣が滑り落ちる。みるみるうちに青ざめていく唇は痙攣するように動くだけで、まともに言葉を紡ぐ事も出来ない。
胸を貫いた魔剣によって、シェリルの命は確実に奪われていく。出来る事は、揺らめく瞳にカインの姿を映す事だけだった。
「……カイ……ン」
吐息よりも小さな声に、瞳の中のカインが震える。死に逝くシェリルよりも驚愕した表情を浮かべたまま、カインは壊れた人形のように頭を何度も左右に振った。
「……う……そ、だ……っ」
瞳に映る現実を頭では否定し、拒絶していても、カインは未だ右手に握りしめた魔剣を放そうとはしなかった。体の中に闇を纏う者の意識がある限り、カインに完全な自由は訪れない。カインはただ操られるがままに剣を突き刺し、その目でシェリルの最期を見届けるしか出来ない。
「うっ……あ」
魔剣を握る右手に、ぐっと力が込められる。己の意思とは反対に体が何をしようとしているのかを知り、カインが哀願するように切ない声音で絶叫した。
「やめっ……止めてくれっ!」
カインの悲痛な叫びを嘲笑うかのように、彼の手に握られた魔剣がゆっくりとシェリルの中を移動した。その度にシェリルの小さな唇を割って、大量の血が吐き出される。
死に逝くシェリルと発狂するカインを楽しむかのように、魔剣は意地悪なほどゆっくりと引き抜かれていった。
魔剣が引き抜かれる度に、シェリルは自分の命が吸い取られていくのを感じていた。完全に引き抜かれた時に、シェリルの時は止まる。そして同時に、カインの意識も消滅してしまう。
カインがルシエルだった頃に望んだ光、それはシェリルと言う存在に他ならない。その希望を彼自身が壊すと言う事は、『ルシエル』の消滅を意味する。ルシエルは消え、カインも消え、地界神という器には闇を纏う者だけが残る。それだけは何としても阻止しなければならない。例え自分の運命がここで終わりを迎える事になったとしても、シェリルは落し子として……ひとりの女として、カインをこの絶望から救い出したいと思った。
『苦しみ、傷付いたままで逝かないでくれ』
遠い昔にアルディナがそう願ったように、シェリルもまた同じ思いを胸に抱いていた。
「……――カイン」
愛しい名前を小さく呼んで、シェリルが目の前のカインをじっと見つめ返した。
「カイン。私……そばに、いるから」
顔を寄せ、カインの耳元で小さく囁いたシェリルが、そのまま縋りつくようにカインの首に腕を回した。やっと捕まえたカインがもう二度と闇に連れて行かれないように、出せるだけの力を出して、シェリルはカインを両腕の中に閉じ込める。
カインの首筋に顔を埋め、震える指先で彼の髪に触れる。浅い呼吸でカインの匂いを胸にしまい、シェリルはそのすべてを体中に刻み込んで、ゆっくり静かに目を閉じた。
「ずっと……ずっと、そばにいるから。だから……もう泣かないで」
『私を女神に合わせて欲しいの』
『俺はお前を守るだけで精一杯だったよ』
『私がカインを守るんだからっ!』
『俺はルシエルなんかじゃないっ!』
『ひとりでいるのは不安なの……』
『お前を守るのは俺でありたかった』
――――お前は誰も守れない。
カインの奥底から、闇を纏う者の声音がざわざわと這い上がってくる。
――――守る者ではなく、すべてを壊す者なのだから。
カインを抱き締める両腕にぎゅっと力を入れて、シェリルが小さく彼の名前を呼んだ。
それが、最期だった。
「やめろおぉぉぉっ!」
何が過ちであったのか、今ではもう何も分からない。
背負うべき罪が多すぎて、その身ひとつでは決して償えるものではなかった。終わらない懺悔を許し、彼のすべてを無償の愛で包んでくれる存在を待ちながら、男は血に汚れた体を生温かい鮮血で洗い始める。望む事自体が、罪だと言う事に気付かないまま。
『我を愛してくれ』
そして男は、また罪を犯す。
『ずっとそばにいるわ』
その声を耳にした瞬間。
見開いたままのカインの視界が、シェリルの赤に染まった。
完全に引き抜かれた氷の魔剣。なおも卑しく血を啜る刃に、シェリルの影が揺らめいて映る。シェリルの背で、力なくしおれてしまった二枚の翼が宿主を失い、存在する術を奪われて一気に弾け飛んだ。
涙で歪んだ視界にカインが最後に見た光景は、鮮血に染まった動かないシェリルの体と、それを覆い隠し弔うように舞い散った純白の羽根の嵐だった。
時が、止まっていた。
そこに居合わせたすべてのものが息を殺し、物音ひとつ立てずに、光と闇の運命を凝視していた。
かすかに震える純白の翼。その間から突き出した氷の刃が、生温かい鮮血の涙に酔いしれている。
魔剣を突き刺したのはカイン。愛しい者の手によって、無惨に命を狩られたのはシェリル。
はるか昔から廻り続けて来た光と闇の運命は、最も最悪な結末を迎えて終わりを告げようとしていた。
「……」
名前を呼んだつもりが、言葉は音にならなかった。自分の身に何が起こったのかを理解するより先に、シェリルの体から急速に熱が奪われる。流れ出ていく命を引き戻そうとしても、もはやシェリルの体に自由など少しも残されていなかった。
力を失った手から、ルーテリーヴェの剣が滑り落ちる。みるみるうちに青ざめていく唇は痙攣するように動くだけで、まともに言葉を紡ぐ事も出来ない。
胸を貫いた魔剣によって、シェリルの命は確実に奪われていく。出来る事は、揺らめく瞳にカインの姿を映す事だけだった。
「……カイ……ン」
吐息よりも小さな声に、瞳の中のカインが震える。死に逝くシェリルよりも驚愕した表情を浮かべたまま、カインは壊れた人形のように頭を何度も左右に振った。
「……う……そ、だ……っ」
瞳に映る現実を頭では否定し、拒絶していても、カインは未だ右手に握りしめた魔剣を放そうとはしなかった。体の中に闇を纏う者の意識がある限り、カインに完全な自由は訪れない。カインはただ操られるがままに剣を突き刺し、その目でシェリルの最期を見届けるしか出来ない。
「うっ……あ」
魔剣を握る右手に、ぐっと力が込められる。己の意思とは反対に体が何をしようとしているのかを知り、カインが哀願するように切ない声音で絶叫した。
「やめっ……止めてくれっ!」
カインの悲痛な叫びを嘲笑うかのように、彼の手に握られた魔剣がゆっくりとシェリルの中を移動した。その度にシェリルの小さな唇を割って、大量の血が吐き出される。
死に逝くシェリルと発狂するカインを楽しむかのように、魔剣は意地悪なほどゆっくりと引き抜かれていった。
魔剣が引き抜かれる度に、シェリルは自分の命が吸い取られていくのを感じていた。完全に引き抜かれた時に、シェリルの時は止まる。そして同時に、カインの意識も消滅してしまう。
カインがルシエルだった頃に望んだ光、それはシェリルと言う存在に他ならない。その希望を彼自身が壊すと言う事は、『ルシエル』の消滅を意味する。ルシエルは消え、カインも消え、地界神という器には闇を纏う者だけが残る。それだけは何としても阻止しなければならない。例え自分の運命がここで終わりを迎える事になったとしても、シェリルは落し子として……ひとりの女として、カインをこの絶望から救い出したいと思った。
『苦しみ、傷付いたままで逝かないでくれ』
遠い昔にアルディナがそう願ったように、シェリルもまた同じ思いを胸に抱いていた。
「……――カイン」
愛しい名前を小さく呼んで、シェリルが目の前のカインをじっと見つめ返した。
「カイン。私……そばに、いるから」
顔を寄せ、カインの耳元で小さく囁いたシェリルが、そのまま縋りつくようにカインの首に腕を回した。やっと捕まえたカインがもう二度と闇に連れて行かれないように、出せるだけの力を出して、シェリルはカインを両腕の中に閉じ込める。
カインの首筋に顔を埋め、震える指先で彼の髪に触れる。浅い呼吸でカインの匂いを胸にしまい、シェリルはそのすべてを体中に刻み込んで、ゆっくり静かに目を閉じた。
「ずっと……ずっと、そばにいるから。だから……もう泣かないで」
『私を女神に合わせて欲しいの』
『俺はお前を守るだけで精一杯だったよ』
『私がカインを守るんだからっ!』
『俺はルシエルなんかじゃないっ!』
『ひとりでいるのは不安なの……』
『お前を守るのは俺でありたかった』
――――お前は誰も守れない。
カインの奥底から、闇を纏う者の声音がざわざわと這い上がってくる。
――――守る者ではなく、すべてを壊す者なのだから。
カインを抱き締める両腕にぎゅっと力を入れて、シェリルが小さく彼の名前を呼んだ。
それが、最期だった。
「やめろおぉぉぉっ!」
何が過ちであったのか、今ではもう何も分からない。
背負うべき罪が多すぎて、その身ひとつでは決して償えるものではなかった。終わらない懺悔を許し、彼のすべてを無償の愛で包んでくれる存在を待ちながら、男は血に汚れた体を生温かい鮮血で洗い始める。望む事自体が、罪だと言う事に気付かないまま。
『我を愛してくれ』
そして男は、また罪を犯す。
『ずっとそばにいるわ』
その声を耳にした瞬間。
見開いたままのカインの視界が、シェリルの赤に染まった。
完全に引き抜かれた氷の魔剣。なおも卑しく血を啜る刃に、シェリルの影が揺らめいて映る。シェリルの背で、力なくしおれてしまった二枚の翼が宿主を失い、存在する術を奪われて一気に弾け飛んだ。
涙で歪んだ視界にカインが最後に見た光景は、鮮血に染まった動かないシェリルの体と、それを覆い隠し弔うように舞い散った純白の羽根の嵐だった。
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