飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

壊れた夢・3

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 ――――誰かが、遠くで戦っていた。
 止まない剣戟に紛れて、時折聞こえる切ない声があった。その声は、誰かをしきりに呼んでいた。

『すぐに帰ってくるって言ったじゃない』

 声は泣いた。

『忘れないで。私を思い出して』

 声は願った。そして。

『……カイン』

 声は、「私」をカインと呼んだ。

 意識の果てで、何かが弾けた。





「……――――シェ……リル?」

 凍った闇が紡ぐには、あまりにも切ない声音。
 ふいに零れ落ちた懐かしい響きを孕むその声に、シェリルが翡翠色の瞳を大きく見開いた。真下から食い入るように見上げたルシエルの表情、苦痛に歪むその瞳がゆらりと動いて色を変える。

「カ……っ、カイン?」

 驚いて伸ばされたシェリルの手を拒んで、ルシエルが片手で頭を押さえながら弾かれたように真後ろへと身を退いた。

「カインっ。……カインなんでしょう?」

「来……るなっ!!」

 自由になった体を起こして、すぐさま駆け寄ろうとしたシェリルを、カインの冷たい怒号が止めた。カインの声で発せられた音は、けれどまだ闇の面影を残したままでシェリルの耳に届く。その声にぎくりとして足を止めたシェリルの前で、カインはなお苦しそうに呻きながら体を小さく丸めて蹲る。黒いマントがぶわりとあおられ、カインの中から飛び出した瘴気が苦悶の表情を模って、再びカインの背中へ吸い込まれるように消えていった。

「……なんっ……だ、ここは。俺はどうしてここに……っ」

 生きながら四肢を引き裂かれるような激痛に耐え兼ねて、カインが右手に持った魔剣を自分の体に突き立てた。痛みを痛みで消すように何度も肉を裂き、溢れ出す鮮血に我を忘れようとする。自分が発する悲鳴の隅で、懐かしいシェリルの声を聞いたような気がした。

「カイン! やめてっ!」

 飛び散る鮮血に紛れて、金色の風がカインの視界に色を落とす。心のどこかで求め焦がれていた色彩に目を見開いたカインの体が、次の瞬間触れても消えない確かな熱に包まれた。
 懐かしい熱。
 懐かしい声。
 懐かしい匂い。
 そのどれもが夢のように曖昧で……けれど、決して消える事のない確かな思いと共にカインの心に触れてくる光は、奥底で蠢く闇を跡形もなく吹き飛ばし、愛に満ちた慈しみの腕でカインのすべてを抱き締めた。

 その光を、カインはシェリルと呼んだ。

「……――――――シェリル」

 吐息のように小さく呟いて、カインは自分を抱き締めるシェリルの体にそっと触れた。背中に腕を回し、金色の髪に顔を埋め、幾度となく嗅いだシェリルの香りを胸一杯に吸い込んで目を閉じる。触れ合った胸元にシェリルの鼓動を感じて、抱き締める腕に力を込めた。

「カイン……っ。良かった。戻ったのね!」

 首筋に顔を埋めた涙声のシェリルが、カインの存在を確かめるようにもっと強く抱きついた。泣いているのか、震えているシェリルの背中を優しく撫で下ろしながら、カインはゆっくりと目を開けて、シェリルの波打つ金髪にぼんやりと見入っている。

 意識はひどく曖昧だ。自分が今までどこにいたのか、何をしていたのかまったく覚えていない。分かっているのは「カイン」と言う意識が、闇を纏う者イヴェルスによって完全に押さえ込まれていた事。
 意識下で闇を纏う者イヴェルスと戦い、無様に負けた事は覚えている。そうして闇を纏う者イヴェルスは魔剣を手にし、闇の王として復活を果たしたのだ。カインはただ、その闇の中で眠り続けていただけ。そして気がつくと、まるで夢から醒めたようにカインは自分の体に戻り、懐かしいシェリルの体を腕に抱いていた。


 ――――否。


 ぎくんと体が震えた。意識のはるか奥底で、何かがゆらりと蠢いた。それはざわざわとカインの体を這い上がり、彼自身の影のように背後にべたりと張り付いてくる。
 カインの胸が、どくんと警報を打ち鳴らす。

 戻ったのではない。戻らされたのだ。

「カイン?」

 微妙な変化に気付いて、シェリルがカインの顔を覗き込んだ。その姿を目にした途端、カインの意識が音を立てて崩れ落ちた。

「……に……げっ……」

 体は既に自由を失い、カインは己の意思とは反対にシェリルの体を強くきつく抱き締める。その異様な力にかすかな異変を感じて、シェリルが少しだけ強引に体を離した。

「カイン、どうしたのっ?」



『馬鹿な女だ』

 カインの頭の中で、消えたはずの闇を纏う者イヴェルスの声がした。

『落し子はお前の手で殺してやる。我がそう言ったのを忘れたか?』



 ぎゅっときつく握りしめたカインの右手、凍り付いた魔剣が新たな熱を求めるように赤い石を煌かせた。

「駄目、だっ……シェリル!」

「カインっ?」

「…………俺から……離れてくれっ!」

「カイっ……――――」

 声の続きは、誰の耳にも届く事はなかった。

 愛しい者の腕に抱かれたシェリルの体。
 その華奢な背中を貫いて現れた魔剣の刃は、見惚れるくらいに鮮やかな赤に染め上げられていた。

『お前を守れるのは俺だけだ』

 遠い昔にカインが願った夢は、シェリルの体を貫いた魔剣と共に崩れ落ちた。
 そしてそれを壊したのは、他の誰でもないカイン自身であった。
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