飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

壊れた夢・2

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 繰り返し紡がれる呪文と、魔物の咆哮を打ち消す剣戟に紛れて、緊迫した天界に新たな「音」が響き渡った。
 漆黒に色を変えた巨大な水晶が、数十本目の亀裂を走らせる。その僅かな隙間から染み出るように這い出した魔物が、目の前にいた獲物を見つけて歓喜の声をあげた。獲物は魔物の存在に気付かぬほど、水晶の結界維持魔法に全神経を集中させている。万が一気付いたとしても、そのたどたどしい唇から紡がれる呪文の速度では、己が身を守る魔法ひとつ発動する事は出来ない。
 魔物は知っていた。水晶の結界を守る魔道士たちの中で、この獲物が一番未熟で狩るに適した人物である事を。

 そろりと近付いて距離を縮めた魔物が、武器となる己の爪を黒い舌でべろりと舐める。
 首をはね飛ばそうか。それとも頭を叩き割ろうか。どう殺しても、獲物の体からは見惚れるくらい美しい鮮血が溢れ出すはずだ。その血を全身に浴びて、生温かい肉に早く喰らいつきたい。
 脳裏に描いた光景に興奮し、魔物が一気に標的へと飛びかかった。鋭い叫び声をあげて飛んでくる魔物にはっとして、新米魔道士が唱えていた呪文を喉に詰まらせて立ち尽くす。魔物の思惑通り、魔道士は防御魔法を発動する事はおろか、その場から逃げ出す事も出来ず、ただ迫り来る漆黒の影を怯えた目で凝視しているだけだった。
 格好の獲物。迸る鮮血と柔らかな人肉を想像し、涎を垂らしながら、魔物が漆黒に染まった鋭い爪を振り下ろした。

「退きなさいっ!」

 怒号と共に、硬直したままの魔道士が力任せに真横へと突き飛ばされた。容赦なく地面に叩きつけられた魔道士が反射的に顔を上げた先で、紅蓮の炎が激しく渦を巻きながら一匹の黒い魔物を粉々に吹き飛ばしていた。
 悲鳴すら上げる間もなくぼろぼろに崩れ落ちた魔物を、ただ呆然と見つめていた魔道士の前に、赤い服を着たひとりの女が現れる。座り込んだままの同士を見下ろす瞳は、怒りに冷たく燃えていた。

「あなた、死にたいのっ? 現状をもっとよく把握しなさい!」

「すっ……すみませんっ」

 今にも泣きそうな声で謝罪し立ち上がる魔道士に小さく溜息をついて、リリスが巨大水晶の周りを囲む他の魔道士たちにぐるりと視線を向ける。その先に捜していた人物を見つけて、リリスが大声を張り上げた。

「セシリアっ! 私は亀裂から這い出る魔物の始末をするわ! 結界維持の方は任せたわよ」

「リリス? ひとりで平気なの?」

 同じく大声で返って来るセシリアの言葉に勝気な笑みを浮かべて、リリスが背中に二枚の翼を具現化させた。

「これくらいどうって事ないわ」

 さらりと言い切って、翼を大きく羽ばたかせる。

「攻撃魔法は、私の得意分野よ」

 そう付け加えて、リリスは巨大水晶に向かって一直線に飛んで行った。






 廃墟に、止む事のない剣戟が木霊する。
 光と闇。この世界を創造する力と、そのすべてを破壊する力。ぶつかり合う度に地界は大きく揺れ動き、まるで世界の終わりを象徴するかのごとく瓦礫は塵となり消滅していく。
 哀れな地界神が望む廃墟と化した幻の天界で、色彩を纏い動く者はシェリルとルシエル以外に誰もいなかった。

 罅の入った石畳の上に、真紅の魔法陣が突如として浮かび上がる。
 空を駆け、ルシエルめがけて一直線に降下していたシェリルが、瞳に邪悪な魔法陣を捉え、本能的に向きを変えて上昇した。と同時に妖しく光った魔法陣からどす黒い巨大な片腕がずるりと這い出し、シェリルを叩き落そうと骨ばった大きな手のひらを闇雲に振り回し始めた。
 間一髪で難を逃れたものの、シェリルは振り回される手のひらによって生み出された衝撃波をまともにくらい、あっという間に遠くへ吹き飛ばされる。何とか体勢を整えようと空中で体を回転させたシェリルの真上に、ふっと影が落ちた。

「遅いっ!」

 咄嗟に剣を構えたシェリルだったが、重力を味方につけたルシエルの一撃に耐える事が出来ず、そのまま地上へ勢いよく落下した。
 轟音と共に、それまで辛うじて原形を保っていた月の宮殿があっけなく崩れ落ちる。宮殿を破壊しただけでは収まらず、そこから更に数十メートル先まで石畳を削りながら滑って行くシェリルの体は、その先に立ちはだかる傾いた石柱をなぎ倒してやっと止まった。
 戦いが始まってから常にシェリルを守っていた防御壁のおかげで辛うじてて死は免れたものの、その体に襲い掛かった負担はあまりにも大きく、シェリルはすぐに立ち上がる事が出来ずその場に小さく蹲る。

「くっ」

 耐え難い激痛は呼吸さえ奪うようで、シェリルは肩を大きく上下させながら、突きたてた剣を支えにゆっくりと立ち上がった。数回瞬きをして霞んだ視界を正常に戻し、シェリルが素早く周囲に視線をめぐらせる。と同時に、支えにしていた剣を引き抜いて、そのまま一気に真横へと薙いだ。
 細い糸にも似た銀の軌跡が、間近に迫っていた巨大な腕を真っ二つに切り裂いて走る。落下したシェリルを叩き潰そうと襲い掛かった腕は、けれどシェリルに触れる一歩手前で神聖なるルーテリーヴェの刃に切り裂かれ、まるで光に侵食され居場所を失った闇のようにざあっと音をたてて崩れ落ちた。
 その向こう、死んだ腕を吐き出したままで効力を失った魔法陣の上に、漆黒を纏った闇の王が冷たい笑みを浮かべたままゆらりと舞い降りた。

「力。憎悪。悲しみ。絶望。そのどれもがお前には足りぬ」

 足元に横たわる腕の残骸をぐしゃりと踏み潰し、ルシエルがシェリルへゆっくりと近付いた。ルシエルの中から放出される膨大な魔力に耐え切れず、彼の足元では硬い石畳がべこりと押し潰されていく。

「くだらぬ幻想を抱きながら死ぬがいい」

 間髪開けずに、ルシエルが剣で空を切りながらシェリルへと飛び掛った。それとほぼ同時に、シェリルもルシエルめがけて一気に空を駆け上がる。
 左右から空へ大きく弧を描いた白と黒の軌跡が、その中央でぶつかり合った瞬間。空をも激しく震わす光と闇の衝撃波が、剣の悲鳴を巻き込みながら地界全体に轟いた。
 交差する刃の向こうで、ルシエルを取り巻いていた闇が数倍大きく膨れ上がった。その闇が鉤爪のように鋭く尖った触手を振り下ろすより先に、シェリルがルシエルの剣を交わして素早く後ろに身を退いた。かと思うと、開いた左手を大きく回して宙に丸い円を描く。シェリルの手によって描かれた円は、まるでそこだけが空から切り取られたかのようにゆらりと波打ち、次第に不思議な古代文字を浮かび上がらせた白い魔法陣を作り上げた。
 はっと目を見開いたルシエルが剣を振りかざした時には既に遅く、白く光り輝いた魔法陣によって一頭の聖なる獣が召喚された。白い体に、深い藍色の瞳。その額に金色の角を持つ一角獣、それは聖地でシェリルたちが出会った、あの守護獣だった。

「ちっ」

 舌打ちして、ルシエルが背後の闇を正面へ呼び寄せたのも束の間、黄金の光を全身に纏った一角獣がそれ以上の隙を与えず一直線に駆け出した。
 目の前に立ちはだかる闇の壁を角で切り裂き、勢いに任せてルシエルの体さえ貫こうとしていた一角獣は、しかしルシエルの目の前で彼の闇に自ら進んで融合し、色を無くしながら消えていった。その意外な行動に目を見開く間もなく、闇に融合した一角獣が内側から目も眩むほどの激しい光を炸裂させた。

「ぐああっ!」

 この世界でもっとも忌み嫌う光を間近に見たルシエルが、目を潰されたような激痛に顔を覆いながら絶叫した。

「……カイン。ごめんなさい」

 悲鳴の合間を縫って聞こえたシェリルの声に、ルシエルが視力の戻らない目を開けて咄嗟に剣を構える。その真横を、銀の風が切り裂いた。

 闇でもなく夢でもなく、人の体を確かに切り裂いたのだと言う生々しい感触。剣を通して伝わった重い感触は、シェリルの細胞ひとつひとつを小刻みに震わせていく。
 見開いた翡翠色の瞳が、真紅に染まった。

「がはっ!」

 大量の血を吐き出して、ゆっくりと傾くルシエルの体。左の脇腹から右肩にかけて斜めに入った軌跡が、漆黒の影を彩るように真紅の血を滲ませている。
 一角獣の眩い光に目を眩ませたルシエルの隙をついて一気に近付いたシェリルは、剣を握りしめた手が躊躇いを見せる前に、そのまま勢いをつけてルシエルの体を下から上に切り上げた。寸前のところで体を避けたルシエルだったが、聖なる剣によって受けた傷は決して浅くはなく、ルシエルは鮮血の糸を引きながら瓦礫の山に落下した。
 がらがらと崩れ落ちる瓦礫を片腕で弾き飛ばしながら、ルシエルが赤い目をぎらつかせて素早く身構えたその背後。音もなく舞い降りたシェリルが、冷たい刃の切っ先をルシエルの首筋へとあてた。

「カインを解放して」

 真後ろから剣を突きつけられ、ルシエルがぴたりと止まった。辺りの空気も緊張したように凍り付く。

「もう一度言うわ。カインを戻して」

 剣を握る手に力が入る。かすかに震えた切っ先がルシエルの肌に食い込んで、白い首筋に赤い血の糸を滑らせた。

「私は本気よ」

 冷たいシェリルの声に、それまで前を向いたまま微動だにしなかったルシエルが、肩を震わせながら声を殺して笑った。

「我を殺すだと? たかが、人間のお前が」

 ぐっと強く押し当てたシェリルの剣、その刃を素手でがしりと掴んで、ルシエルがゆるりと後ろを振り返った。その顔に、もう笑みはない。

「図に乗るな」

 瞬間、シェリルの視界がぐらりと傾いた。傾いたかと思うと物凄い力に剣ごと体を引っ張られ、シェリルは瞬きする間もなくルシエルの目の前に倒れ込む。身を翻すには遅く、シェリルは首を捕まれ、そのままルシエルに押し倒されていた。

「死ぬのはお前だ」

 揺らめいた真紅の瞳。そこにあるのは、殺意だけだった。
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