飛べない天使

紫月音湖(旧HN/月音)

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第5章 終わらない夜

壊れた夢・1

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 頬を濡らす熱が何なのか、シェリルには分からなかった。
 ひどく悲しい夢を見ていたような気がする。けれどその夢の一片さえ、思い出す事が出来なかった。
 重い瞼をゆっくりと開ける。目の前には一枚の大きな鏡。一度後ろを振り返って、シェリルは再び鏡の中の自分と向かい合った。鏡の先に、もう道はない。シェリルの立っているこの場所が、長い螺旋階段の終着点だった。

『君を、幸せに』

『お前が父親? へぇ』

『私、この幸せを守りたい。ずっと、貴方とこうしていたいわ』

『カイン、君は? 君は誰かを守りたいとか、失いたくないとか思わないのか? 目の前から消えてなくなると思うだけで、気が狂いそうになる。……そう言う存在は』

『そんな面倒臭い恋愛なんてごめんだね』

『……でも、いずれ君にも分かる時が来るよ。君はずっと何かを探している。それが見つかった時、君の何かが必ず変わる。――――僕はそう思う』

 湖面を揺らす波紋のように、鏡の表面がゆらりと震えた。歪んだ鏡面にぼんやりと映った人影が、シェリルに向かって何か小さく呟いたような気がする。

『目の前から消えてなくなると思うだけで、気が狂いそうになる』

 絶望的な喪失感。耐え難い孤独。
 
『そうだ。俺はその中で生きてきた。ひとりきりで永遠の闇を彷徨い続けてきた。手にする事の叶わない光に恋焦がれ、届かない思いに泣き叫び……そして、狂った。――狂ってまで欲したものは? 俺は何を失った? 誰を求めていたんだ?』

 ――――カイン。

『違う。『我』の名前はルシエルだ。闇に堕ち、孤独を彷徨う亡者の名前。愚かしく滅び逝く男の名前。我はルシエルで、それは俺だ。……けれど』

 ――――カイン。

 再び、声がした。小さな声音に共鳴して、鏡の表面が細い波紋を幾つも揺らす。その度に歪む紫銀の幻影が、鏡の向こうでシェリルをじっと見つめていた。

『そうだ。俺はそんな名前で呼ばれていたような気がする。すぐ側で俺を見つめ、俺を頼り、俺を受け入れてくれた存在が……確かにあった。光のように眩しく、汚れない白を纏った――そう、大切な存在が』

「カイン。……そばに、行ってもいい?」

 伸ばされた指先に、鏡の中のカインがびくんと震えた。鏡に映るカインの幻影を真っ直ぐに見つめながら、シェリルはその懐かしい温もりに触れるように、ゆっくりと白い指先を滑らせる。
 カインの頬から肩、腕へと滑り行く指先が、ふっとそこで止まった。
 止められていた。鏡から、ぬっと突き出した、男の左手によって。

「……お前は、誰だ?」

 鏡越しではなく、その声はシェリルの耳元で聞こえた。

「忘れないで、カイン。私を思い出して。ずっと、一緒にいたじゃない」

 右手を掴んだ男の手が、シェリルの体を自分の方へと引き寄せる。その力を感じながら、シェリルが意を決するように深く深く息を吸う。
 瞬間、目の前が真っ暗になった。





 皆、死んだ。
 セシリアと言う魔道士も、リリスと言う女も、ルーヴァと言う友も、そしてアルディナと言う姉も。皆、俺が殺した。
 天界は堕ち、闇に包まれる。下界もやがては我が闇に屠られ、生命あるものは皆死に絶える。
 誰も我を咎めない。我も、誰かを憎む事はない。世界を覆う漆黒の闇こそが、我の居場所。闇だけが我を受け入れてくれる。そう、闇だけが。

(違う。あなたはまだ帰る場所を持ってるわ。闇に……自分の弱さに負けないで。カイン!)

 意識のはるか遠くで、硝子が砕ける音を聞いた。





「我を、未だにそう呼ぶか」

 目の前の闇が、ゆらりと揺れた。揺れて、ぐにゃりと歪み、渦を巻く。声はその向こうから聞こえていた。

「今更何をしに来たのだ? お前の求めるあの男は、もうどこにもいないと言うのに。魔剣を手にし、我の復活を目にしたであろう? それでもお前は諦めぬと言うのか」

「諦めないわ。カインはまだ生きてる。私には分かる」

「……愚かな。では、その望み、かけらさえ抱けぬよう、我が粉々に打ち砕いてやる」

 途端シェリルの目の前で渦を巻いていた闇が、すべてを飲み込む勢いで更に大きく膨れ上がった。闇しかない空間。果て無き漆黒の渦の向こうに天界の姿を垣間見たような気がして、シェリルがぱっと手を伸ばす。その指先が、ずぷりと渦に飲み込まれた。

「……っ!」

 悲鳴すら出せず、あっという間に渦の中へ飲み込まれたシェリルは、闇が肌から内側へ侵入してくるのを感じて、ぎくんと体を震わせた。このままでは地界へ辿り着く前に、精神が壊されてしまうだろう。闇の狡猾さ、恐ろしさを嫌と言うほど知っていたシェリルは、その渦から抜け出そうと手にした剣を高く振り上げた。
 何をすればいいのか、体の中に眠っていた女神の力が知っている。シェリルはその声に耳を傾け、体を委ねるだけでいい。

「やあっ!」

 勢いよく振り下ろした剣によって、闇の黒に細い銀の軌跡が走る。次いで、どこからともなく鳴り響いた鋭い亀裂音にシェリルが顔を向けたその先で、彼女を取り巻いていた闇が粉々に砕け散った。



 闇に落ちてから一度も感じる事のなかった風が、シェリルの肌を舐めるように通り過ぎていった。閉じた瞼の向こうに光を感じて、シェリルが慌てて目を開く。と同時に、重力に従って、体ががくんと落下した。

「きゃっ!」

 事態を把握するより先に背中から飛び出した二枚の翼が、シェリルの体をふわりと持ち上げた。上下に激しく揺れる視界を何とかまともに確保して、シェリルは真下に広がる街並みに目を落とす。そして、はっと息を飲んだ。
 眼下に広がる光景は、豊かな色彩を失い灰色に崩れ落ちた廃墟――変わり果てた天界の姿だった。

「……どうして」

 呟いて、シェリルは自分が降り立ったその場所を、驚きの眼差しで見回した。
 何か、とてつもなく強大な力によって分厚い壁を無惨に削り取られた宮殿の残骸。かつては緩やかに自転し、自然の調和を保っていたはずの球体は、地面に落ち粉々に砕け散ってしまっている。
 ぐるりと見回した視界に映る、ごみ同然に散乱した幾つもの死体。その中に見知った人物を発見して、シェリルが短い悲鳴を上げながら死体の側に駆け寄った。

「セシリアさんっ!」

 シェリルが呼んでも、セシリアは目を開かなかった。瓦礫の山に体を預けたまま、眠るように死んでいた。
 白すぎる肌は作り物のようにも見えて、シェリルは完全に熱を失ったその肌にまだ希望は残されていないかと、震える指先を伸ばしてみる。指先が冷たい頬に触れた瞬間、セシリアの体はまるで何百年も放置されていたかのようにぼろぼろに崩れ、あっという間に風化していった。

「これが我の望む夢だ」

 はっとして振り返った先、崩れかけた石柱の上に、彼がいた。灰色の髪と、血のように赤い瞳。その左頬に闇の王の証である漆黒の刻印をあらわにし、カインによく似た姿でシェリルを見下ろしていた。

「憐れなものだ」

 周囲に散乱する数々の死体を見やり、ルシエルがぽつりと呟いた。その言葉とは裏腹に、嘲笑めいた表情を浮かべるルシエルに、シェリルの背筋がぞくりと震える。

「ルシエルは世界の為に犠牲となった。地界で我ら闇を纏う者イヴェルスを監視し、同時に我らと共にある事を運命付けられた哀れな男だ。そんな奴を愚かな天使は忌み嫌い、恐れた。――我を生み出したのは、憎しみあう事に長けた人間たち。そして闇の王を生み出したのは、愚かな天使たちだ」

 言って、にやりと笑った。その笑みに異様なほどの寒気を感じて、シェリルが縋るように剣をぎゅっと握りしめる。

「無論、我は感謝している。愚かなお前たちのおかげで、こうして強い体を手に入れる事が出来たのだからな。これであの女に奪われた世界を取り戻す事が出来る」

 恍惚とした表情を浮かべるも、恐ろしいまでの殺気は少しも衰える事なく、ルシエルは一瞬の隙さえ与えないままシェリルを冷たく見下ろしていた。

 愚かな女。一縷の望みを支えに、地界ガルディオスまで降りてきた、呆れるくらい馬鹿な女。その望みを粉々に打ち砕く行為は、どんなに心地良いだろう。
 シェリルを見ていたルシエルの体に、ぞくりと快感の波が押し寄せる。

「我が望みは、一切の破壊。混沌と続く、永遠の闇」

「どうして。そんな世界に、何の意味があるの!」

「理由などない。そこが我の居場所であるだけだ」

 言葉が終わった。同時に、辺りの空気がぴたりと止まる。
 凍った静寂の中では、瞬きひとつさえ時を動かす合図となる。それを本能的に感じ取り、唇をぎゅっと噛み締めたシェリルの前で、ルシエルが右手に魔剣を握りしめた。

「覚悟はいいな? ここから先は光と闇……お前と我との、真の殺し合いだ」
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