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第5章 終わらない夜
悲しみの情景・7
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エセルの街はその跡地だけを残して、被害者を弔う共同墓地となっていた。アーシェの家族もここに埋葬されており、ルーヴァは彼女と二人で墓参りに訪れていた。
アーシェを墓地に残し、何気なくエセルの街だった場所を歩いていたルーヴァは、未だ残る瓦礫の影でひとりの老婆と出会った。色褪せたぼろぼろの法衣に痩せ細った体を包んだ老婆の両目は、どちらも光を完全に失っているようで、一度も瞬きをしなかったように思う。けれど見開かれたままのその瞳は、すべてを見抜く鋭い光を放っていた。
「愚かしい事よの」
何も映さないはずの瞳にルーヴァをしっかりと捉えて、老婆がぼそぼそと呟く。
「魔を退治するはずのお主が、その闇によって他者の命を奪うとは……何とも愚かしい事じゃな。それを自ら望まずとも、お主の体は既に汚れきっておる。それに気付かないのも、また愚かと言う事じゃ」
初めて耳にする独特な喋り方は、まるで老婆がこの世の者ではないかのような錯覚をルーヴァに与える。背筋が、ぞくりと凍った気がした。
「お主は種をばら撒いた。そうとは知らずに」
「……一体、何の事を」
「種は呪いじゃ。呪いはお主を通じて、女の腹に宿った」
「……っ!」
老婆が何を言っているのかは分からなかったが、それが自分とアーシェを意味していると言う事は十分に理解できた。ルーヴァを通じてアーシェに宿った呪いの種。それは二人の間に出来た、新しい生命に違いない。
(僕が呪い? なぜ?)
「お主は何も知らぬ。じゃが、知らぬ方がお主にとっては良いのかも知れぬ」
「……」
「事実は変わらぬ。これから起こる悲劇も変わらぬ。違うのは、お主が知るか否かと言う事だけじゃ」
気がつくと駆け出していた。アーシェのいる共同墓地まで、飛ぶ事も忘れて全速力で走っていく。ルーヴァを突き動かしたものは焦り、不安、そして恐怖。老婆の言葉に思い当たる節があったからこそ、救いのない絶望を感じて理性を失う。ルーヴァの中で、幸せの残像が悲鳴を上げて砕け散った。
『エセルを滅ぼしたあの魔物は、お主に呪いをかけて死んでいった。それは汚れた命の復活。他者の命を奪いて甦る禁忌の邪法』
老婆の声は細胞の奥にまで木霊して、焦るルーヴァを更に追い立てていく。急げば急ぐほど目的地には辿り着けない。意思を持っているかのように、ルーヴァから遠く遠く離れていく。
『哀れよの。何も知らず、我が身を喰らう魔物を孕むとは』
老婆は言った。
ルーヴァから呪いを受け取ったアーシェの腹で、魔物が息づいているのだと。
そしてまた、老婆は言った。
魔物は内側から腹を喰い破り、母だったものを最初に喰らうのだと。その時は限りなく今に近いと言う事も。
(アーシェを失う? ……馬鹿なっ!)
何を信じていいのか、ルーヴァにはもう何も分からなかった。自分があの時から既に呪われていた事。そうとは知らずに、アーシェを汚してしまった事。我が子だと思い愛していた胎児は、忌むべき魔物であった事。
信じてしまうにはあまりにも酷で、けれどルーヴァはそれを否定する言葉を知らない。唯一分かっているのは、魔物からの一撃を受けた時に激しい悪寒を感じた事。それは魔物から呪いを受けたと言う確信だった。
「アーシェっ!」
やっと辿り着いた墓地の入口にアーシェの姿を見つけたルーヴァが、走ってきた勢いに任せて彼女の体を強引に抱き寄せた。
「どうかしたの?」
「無事でよかったっ」
「ルーヴァ?」
痛いくらいに強く抱きしめられ、目を丸くしたアーシェだったが、ルーヴァの腕の中から抜け出そうとはしなかった。いつもとは違う怯えた様子のルーヴァを敏感に感じ取って、落ち着くようにとかすかに震える背中へそっと手を回す。
腕に抱いた温もりを、決して失いたくないと思った。その為ならどんな事でもする。アーシェを救う方法を必ず見つけてみせる。心に誓って、ルーヴァはアーシェへと視線を落とした。少し不安げに微笑むアーシェを瞳にしっかり焼き付けて、ルーヴァもふわりと優しく悲しい笑みを浮かべた。
「……家に帰ろう、アーシェ。冷えるのは体によくない」
「うん。……でも、ルーヴァがあったかいから平気」
にこりと笑って、アーシェがもう一度ルーヴァに抱きついた。ルーヴァの胸にぴったりと頬を寄せて、聞こえてくる確かな鼓動に目を閉じる。
「大好き」
そう呟いて腕に力を込めたアーシェの小さな体を、ルーヴァが大きな腕で包み込んだ。優しく、けれど強く抱き締めて、ルーヴァは手にした幸せを必死に守ろうとする。
「アーシェ」
その言葉は彼女にだけ伝える事を許された、ルーヴァのたったひとつの思いだった。深く息を吸い込んだルーヴァの胸が、アーシェの香りで満たされる。
「愛してる」
狂おしいほど切ない声で囁かれた思いは……肉を裂き、噴出した鮮血の絶叫によってあっけなくかき消された。
『哀れよの』
声も出せないほどの激痛と共に、ルーヴァの視界が一瞬にして色をなくした。ぎくんと震えた体から、一気に熱が奪われる。
『呪いの成就は近い。お主はそれを見届ける者となるであろう』
身も凍る断末魔の悲鳴が、冷たい灰色の墓地に響き渡る。視界を染めた赤が、寂れた墓地に不似合いなほど鮮やかな花を咲かせていた。生気のなかった辺りの空気が瞬く間に甦る。その空気は濃い血臭に彩られ、歓喜に打ち震えるようにふわりと舞い上がり、屠られた生贄をねっとりとした手で包み込んでいった。
『君に……似合うと思って。受け取ってくれると……その、僕としても嬉しいんだけど』
『指輪? 綺麗。……でも、いいの?』
『アーシェだから受け取って欲しいと思ったんだ。……アーシェ。――――僕と』
あの日、誓いの指輪に願った未来はこんなものではなかった。
目の前で行われる残酷な行為を凝視したまま、ルーヴァが震える両手に武器をしっかりと握りしめる。
アーシェの腹を裂いて飛び出した刃物に似た鋭い腕は、同時に彼女を抱き締めていたルーヴァの腹部にも大穴を開けていた。溢れ出す血液と一緒に力まで流れ出ていくようだったが、ルーヴァはここで倒れるわけにはいかなかった。
「うおおおっ!」
アーシェの腹から顔をのぞかせた魔物が、武器を構えて駆けて来るルーヴァをみてにやりと笑う。所詮相手は深手を負った男ひとり。新たに生まれ出ようとする力みなぎる魔物の相手ではない。それに魔物はアーシェの腹の中で成長しながら、高い知能をも得る事が出来た。それが何を意味するのか、ルーヴァはその身をもって体験する事となった。
アーシェの腹から外に這い出した魔物の体の一部をめがけて、ルーヴァが短剣を勢いよく振り下ろす。しかしその切っ先を寸前で避けた魔物が、しゅるしゅるっとアーシェの腹の中へ身を隠した。
「……っ!」
外に出た異物によって支えられていたアーシェの体が、糸の切れた人形のようにがくんと倒れ込む。
「アーシェっ!」
慌てて抱き起こしたルーヴァの腕の中で、既に虫の息となっていたアーシェが薄く目を開いた。瞼を開けて、その瞳の奥にルーヴァの姿を確認する。
「ルー……。にっ…………に、げて」
「駄目だっ、アーシェ! 君を置いてはいけない!」
「……だ、め。……――にげ……。ルー……」
「アーシェっ! アー……――――」
ぐちゅり。
嫌な音がした。
次の瞬間、ルーヴァの視界が飛び散った鮮血によって埋め尽くされた。大きく見開いた瞳。体の左側に走った、鋭い爪跡。真紅に染め上げられた視界が、左目だけ完全に闇に包まれる。
叫んで呼んだ彼女の名前は、魔物の咆哮によってかき消されていった。
『ルーヴァ。大好き』
求めて伸ばした指先に、彼が望んだ幸せはもう二度と戻る事はなかった。
冷たい雨と血液を思う存分に吸い込んだ石畳は響くはずの足音さえ飲み込んで、そこに一切の音を許さない汚れた静寂を漂わせていた。
鮮血に彩られた墓地に、動くものは何ひとつなかった。
喰い荒らされた肉塊。散らばった肉片のひとつに輝くサファイアの指輪。足元に転がったその白い左手を拾い上げて、カインは静かに唇を動かした。
言葉は誰にも届かなかった。髪の先から滴り落ちた雨粒に溶かされて、音を得る間もなく砕け散る。
血を失い雨にさらされてすっかり熱を奪われた左手は、カインの手の中で残酷な瞬間のまま時を止めていた。
凝視できない、血塗られた光景。生贄の生死は考えるまでもない。
戦士として天界に身を置くようになってから、カインは今までにもこういう光景は嫌と言うほど目にしてきた。数秒前に言葉を交わした戦友が自分の真横で破裂する瞬間も、助けようと手を伸ばした先で子供の首が転がり落ちた瞬間も、カインはいつもそれを冷静に受け止めていた。例えそれが見知った人物だったとしても、動揺などしなかったはずだ。激しい怒りや込み上げてくる悲しみを感じた事は、一度もなかった。
それがなぜ、今この光景を前にして、心はこんなにもざわめくのだろう。
幸せの絶頂にいたアーシェは死んだ。戦友ルーヴァも体の左半分に激しい損傷を受け虫の息だ。危険と隣り合わせにある戦士にとって、死は限りなく身近にある。自分もルーヴァもいつかは死ぬのだと言う事に関して、特別恐怖を感じる事もなかった。
しかし今まさに息絶えようとしている戦友を前にして、カインの中に生まれたものは救いようのない喪失感……ただそれだけ。
なぜなのか、今でもよく分からない。ただ友と呼べる者を、死なせたくないと思った。もうひとりには戻りたくないと、カインは漠然とそう思ったのだ。
それは『カイン』が変わった瞬間だった。
ルシエルでもなくカインでもなく、『カイン』としての人格が生まれた瞬間だった。
アーシェを墓地に残し、何気なくエセルの街だった場所を歩いていたルーヴァは、未だ残る瓦礫の影でひとりの老婆と出会った。色褪せたぼろぼろの法衣に痩せ細った体を包んだ老婆の両目は、どちらも光を完全に失っているようで、一度も瞬きをしなかったように思う。けれど見開かれたままのその瞳は、すべてを見抜く鋭い光を放っていた。
「愚かしい事よの」
何も映さないはずの瞳にルーヴァをしっかりと捉えて、老婆がぼそぼそと呟く。
「魔を退治するはずのお主が、その闇によって他者の命を奪うとは……何とも愚かしい事じゃな。それを自ら望まずとも、お主の体は既に汚れきっておる。それに気付かないのも、また愚かと言う事じゃ」
初めて耳にする独特な喋り方は、まるで老婆がこの世の者ではないかのような錯覚をルーヴァに与える。背筋が、ぞくりと凍った気がした。
「お主は種をばら撒いた。そうとは知らずに」
「……一体、何の事を」
「種は呪いじゃ。呪いはお主を通じて、女の腹に宿った」
「……っ!」
老婆が何を言っているのかは分からなかったが、それが自分とアーシェを意味していると言う事は十分に理解できた。ルーヴァを通じてアーシェに宿った呪いの種。それは二人の間に出来た、新しい生命に違いない。
(僕が呪い? なぜ?)
「お主は何も知らぬ。じゃが、知らぬ方がお主にとっては良いのかも知れぬ」
「……」
「事実は変わらぬ。これから起こる悲劇も変わらぬ。違うのは、お主が知るか否かと言う事だけじゃ」
気がつくと駆け出していた。アーシェのいる共同墓地まで、飛ぶ事も忘れて全速力で走っていく。ルーヴァを突き動かしたものは焦り、不安、そして恐怖。老婆の言葉に思い当たる節があったからこそ、救いのない絶望を感じて理性を失う。ルーヴァの中で、幸せの残像が悲鳴を上げて砕け散った。
『エセルを滅ぼしたあの魔物は、お主に呪いをかけて死んでいった。それは汚れた命の復活。他者の命を奪いて甦る禁忌の邪法』
老婆の声は細胞の奥にまで木霊して、焦るルーヴァを更に追い立てていく。急げば急ぐほど目的地には辿り着けない。意思を持っているかのように、ルーヴァから遠く遠く離れていく。
『哀れよの。何も知らず、我が身を喰らう魔物を孕むとは』
老婆は言った。
ルーヴァから呪いを受け取ったアーシェの腹で、魔物が息づいているのだと。
そしてまた、老婆は言った。
魔物は内側から腹を喰い破り、母だったものを最初に喰らうのだと。その時は限りなく今に近いと言う事も。
(アーシェを失う? ……馬鹿なっ!)
何を信じていいのか、ルーヴァにはもう何も分からなかった。自分があの時から既に呪われていた事。そうとは知らずに、アーシェを汚してしまった事。我が子だと思い愛していた胎児は、忌むべき魔物であった事。
信じてしまうにはあまりにも酷で、けれどルーヴァはそれを否定する言葉を知らない。唯一分かっているのは、魔物からの一撃を受けた時に激しい悪寒を感じた事。それは魔物から呪いを受けたと言う確信だった。
「アーシェっ!」
やっと辿り着いた墓地の入口にアーシェの姿を見つけたルーヴァが、走ってきた勢いに任せて彼女の体を強引に抱き寄せた。
「どうかしたの?」
「無事でよかったっ」
「ルーヴァ?」
痛いくらいに強く抱きしめられ、目を丸くしたアーシェだったが、ルーヴァの腕の中から抜け出そうとはしなかった。いつもとは違う怯えた様子のルーヴァを敏感に感じ取って、落ち着くようにとかすかに震える背中へそっと手を回す。
腕に抱いた温もりを、決して失いたくないと思った。その為ならどんな事でもする。アーシェを救う方法を必ず見つけてみせる。心に誓って、ルーヴァはアーシェへと視線を落とした。少し不安げに微笑むアーシェを瞳にしっかり焼き付けて、ルーヴァもふわりと優しく悲しい笑みを浮かべた。
「……家に帰ろう、アーシェ。冷えるのは体によくない」
「うん。……でも、ルーヴァがあったかいから平気」
にこりと笑って、アーシェがもう一度ルーヴァに抱きついた。ルーヴァの胸にぴったりと頬を寄せて、聞こえてくる確かな鼓動に目を閉じる。
「大好き」
そう呟いて腕に力を込めたアーシェの小さな体を、ルーヴァが大きな腕で包み込んだ。優しく、けれど強く抱き締めて、ルーヴァは手にした幸せを必死に守ろうとする。
「アーシェ」
その言葉は彼女にだけ伝える事を許された、ルーヴァのたったひとつの思いだった。深く息を吸い込んだルーヴァの胸が、アーシェの香りで満たされる。
「愛してる」
狂おしいほど切ない声で囁かれた思いは……肉を裂き、噴出した鮮血の絶叫によってあっけなくかき消された。
『哀れよの』
声も出せないほどの激痛と共に、ルーヴァの視界が一瞬にして色をなくした。ぎくんと震えた体から、一気に熱が奪われる。
『呪いの成就は近い。お主はそれを見届ける者となるであろう』
身も凍る断末魔の悲鳴が、冷たい灰色の墓地に響き渡る。視界を染めた赤が、寂れた墓地に不似合いなほど鮮やかな花を咲かせていた。生気のなかった辺りの空気が瞬く間に甦る。その空気は濃い血臭に彩られ、歓喜に打ち震えるようにふわりと舞い上がり、屠られた生贄をねっとりとした手で包み込んでいった。
『君に……似合うと思って。受け取ってくれると……その、僕としても嬉しいんだけど』
『指輪? 綺麗。……でも、いいの?』
『アーシェだから受け取って欲しいと思ったんだ。……アーシェ。――――僕と』
あの日、誓いの指輪に願った未来はこんなものではなかった。
目の前で行われる残酷な行為を凝視したまま、ルーヴァが震える両手に武器をしっかりと握りしめる。
アーシェの腹を裂いて飛び出した刃物に似た鋭い腕は、同時に彼女を抱き締めていたルーヴァの腹部にも大穴を開けていた。溢れ出す血液と一緒に力まで流れ出ていくようだったが、ルーヴァはここで倒れるわけにはいかなかった。
「うおおおっ!」
アーシェの腹から顔をのぞかせた魔物が、武器を構えて駆けて来るルーヴァをみてにやりと笑う。所詮相手は深手を負った男ひとり。新たに生まれ出ようとする力みなぎる魔物の相手ではない。それに魔物はアーシェの腹の中で成長しながら、高い知能をも得る事が出来た。それが何を意味するのか、ルーヴァはその身をもって体験する事となった。
アーシェの腹から外に這い出した魔物の体の一部をめがけて、ルーヴァが短剣を勢いよく振り下ろす。しかしその切っ先を寸前で避けた魔物が、しゅるしゅるっとアーシェの腹の中へ身を隠した。
「……っ!」
外に出た異物によって支えられていたアーシェの体が、糸の切れた人形のようにがくんと倒れ込む。
「アーシェっ!」
慌てて抱き起こしたルーヴァの腕の中で、既に虫の息となっていたアーシェが薄く目を開いた。瞼を開けて、その瞳の奥にルーヴァの姿を確認する。
「ルー……。にっ…………に、げて」
「駄目だっ、アーシェ! 君を置いてはいけない!」
「……だ、め。……――にげ……。ルー……」
「アーシェっ! アー……――――」
ぐちゅり。
嫌な音がした。
次の瞬間、ルーヴァの視界が飛び散った鮮血によって埋め尽くされた。大きく見開いた瞳。体の左側に走った、鋭い爪跡。真紅に染め上げられた視界が、左目だけ完全に闇に包まれる。
叫んで呼んだ彼女の名前は、魔物の咆哮によってかき消されていった。
『ルーヴァ。大好き』
求めて伸ばした指先に、彼が望んだ幸せはもう二度と戻る事はなかった。
冷たい雨と血液を思う存分に吸い込んだ石畳は響くはずの足音さえ飲み込んで、そこに一切の音を許さない汚れた静寂を漂わせていた。
鮮血に彩られた墓地に、動くものは何ひとつなかった。
喰い荒らされた肉塊。散らばった肉片のひとつに輝くサファイアの指輪。足元に転がったその白い左手を拾い上げて、カインは静かに唇を動かした。
言葉は誰にも届かなかった。髪の先から滴り落ちた雨粒に溶かされて、音を得る間もなく砕け散る。
血を失い雨にさらされてすっかり熱を奪われた左手は、カインの手の中で残酷な瞬間のまま時を止めていた。
凝視できない、血塗られた光景。生贄の生死は考えるまでもない。
戦士として天界に身を置くようになってから、カインは今までにもこういう光景は嫌と言うほど目にしてきた。数秒前に言葉を交わした戦友が自分の真横で破裂する瞬間も、助けようと手を伸ばした先で子供の首が転がり落ちた瞬間も、カインはいつもそれを冷静に受け止めていた。例えそれが見知った人物だったとしても、動揺などしなかったはずだ。激しい怒りや込み上げてくる悲しみを感じた事は、一度もなかった。
それがなぜ、今この光景を前にして、心はこんなにもざわめくのだろう。
幸せの絶頂にいたアーシェは死んだ。戦友ルーヴァも体の左半分に激しい損傷を受け虫の息だ。危険と隣り合わせにある戦士にとって、死は限りなく身近にある。自分もルーヴァもいつかは死ぬのだと言う事に関して、特別恐怖を感じる事もなかった。
しかし今まさに息絶えようとしている戦友を前にして、カインの中に生まれたものは救いようのない喪失感……ただそれだけ。
なぜなのか、今でもよく分からない。ただ友と呼べる者を、死なせたくないと思った。もうひとりには戻りたくないと、カインは漠然とそう思ったのだ。
それは『カイン』が変わった瞬間だった。
ルシエルでもなくカインでもなく、『カイン』としての人格が生まれた瞬間だった。
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