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第5章 終わらない夜
悲しみの情景・6
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――――肌に吸い付くような霧雨が降っていた。
髪の先から滴り落ちる雫は、瞳から流れない涙の粒にも似ている。
雨に濡れた石畳の上を滑る、鮮やかな赤。細い糸のように幾つも流れて、止まらない。
腹の裂けた肉塊は、それが以前何であったのかを物語るには役不足だった。
足元に転がった白い左手の薬指に、サファイアの指輪が冷たく輝いていた。彼女の愛した色彩。その色を思わせる青年。
指輪を貰ったのだと嬉しそうに告げた彼女の顔を、今でもはっきりと憶えている。照れたように顔を逸らした初々しい青年を、今でもはっきりと憶えている。それなのに。
(……――――これがお前の死に様かっ。……アーシェっ)
胸を裂くほど切なく呟いて、カインは目の前に広がる惨劇の光景を打ち消すようにぎゅっときつく目を閉じた。
霧雨は動かない体を慈しむように、延々と降り続いていた。
ぱちん。
シェリルの夢が弾けた。ぐるぐるにかき回された水面のように、夢の世界がぐにゃりと歪む。カインもルーヴァも、血に濡れたおぞましい光景もすべてがひとつに混ざり合って、遠くはるか彼方へ吸い込まれていく。と同時に、別の光景がシェリルの脳裏に広がった。
そこには、ルーヴァがいた。隣で茶色の髪をひとつに纏めた女性が、嬉しそうに微笑んでいた。
「へぇー。お前らが結婚ねぇ」
意味ありげに笑みを浮かべた悪友を、ルーヴァがぎろりと睨みつける。
「何か言いたそうだな」
「別に。……ここんとこやけに勉強熱心だと思ったらそう言う事か」
「違う! 僕は純粋にアーシェから医術を学ぼうとっ」
「あら? それじゃあ、私はついでなの?」
カインの言葉を慌てて否定するルーヴァの隣で、その様子を面白そうに見ていたアーシェが追い打ちをかけるように軽い冗談を飛ばした。
「いやっ……それは、その」
困って言葉を詰まらせたルーヴァを見ながら、カインは堪えきれずに笑い出す。つられて笑うアーシェの隣で、ルーヴァだけがむうっと眉を顰めて二人を睨みつけていた。
居心地のいい空間だった。仲間と呼べる者たちとの他愛ない会話。交わす微笑み。本来の『自分』なら、決して手にする事の出来なかった時間。それらひとつひとつの感情は、確実にカインの中のルシエルを変えていった。
「お前、本当にアーシェにプロポーズしたのかよ? 疑わしいな」
「失礼ね。リリスや他の女の人たちと遊んでるカインよりはずっと誠実よ。ルーヴァはちゃんと言ってくれたもの」
「へぇ、何て?」
すいっと身を乗り出したカインに、アーシェが悪戯っぽく微笑んだ。
「聞きたい? 教えてあげましょうか?」
「アーシェっ!」
ぱちん。
夢が弾けた。
飛び交う談笑。優しく過ぎていく風景。屈託のないアーシェの無邪気な笑顔を歪ませて、夢はまた違う過去を映し出す。
そこには新たな命の誕生があった。
「今、何て……?」
窓の外では、枯れた風が散ってしまった木の葉を弄んでいた。アーシェの淹れた香りの良い紅茶を飲んでいたルーヴァは、思いもよらない彼女の告白に目を丸くする。
「確かにね、私もまだ早いかなって思ったのよ。二人でいるのも楽しいし、ルーヴァだって予想外だっただろうし、むしろそんなつもりもなかったかもしれないし。でもすごく喜んでる自分もいて、ルーヴァも同じように思ってくれたらいいなって思うんだけど……そういえば今日の夕飯なんだけど……」
「アーシェ。アーシェ、落ち着いて。肝心なところだけを、もう一度だけ言って?」
ルーヴァに両肩を捕まれて見つめられ、アーシェが恥かしそうに下を向く。
「……だから。その…………子供がね」
言い終わらないうちに、アーシェはルーヴァに抱き締められていた。大好きなルーヴァの、今ではもう当たり前のように傍にある温もりにゆっくりと目を閉じて、アーシェは体全部でルーヴァの鼓動を受け止める。
いつもより少し早い彼の鼓動には、喜びがたくさん詰まっているような気がした。
――――種を植え付けたのはお前だ。
夢を見ているシェリルの中に、不気味な声音が染み込んできた。
『お前は何も知らないまま、愛する女の腹に災いの種を植え付けた。種は呪い。お前に傷付けられた魔物が発した、最期の悲鳴』
シェリルの脳裏に浮かんでは消えていく光景。そこではルーヴァと、エセルの街を滅ぼした魔物が激しい死闘を繰り広げていた。決死の覚悟でルーヴァに体当たりした魔物が残した最期の呪い。それは誰にも気付かれる事なく、ルーヴァの中でひっそりと『その時』を待っていた。
『お前は生かされるべきではなかった。お前は交わるべきではなかった。お前は……』
――――お前はあの時、呪いと共に死ぬべきだったのだ。
「やめてっ」
シェリルがそう叫んだ瞬間、夢は霧雨の降る冷たい石畳を映し出した。
髪の先から滴り落ちる雫は、瞳から流れない涙の粒にも似ている。
雨に濡れた石畳の上を滑る、鮮やかな赤。細い糸のように幾つも流れて、止まらない。
腹の裂けた肉塊は、それが以前何であったのかを物語るには役不足だった。
足元に転がった白い左手の薬指に、サファイアの指輪が冷たく輝いていた。彼女の愛した色彩。その色を思わせる青年。
指輪を貰ったのだと嬉しそうに告げた彼女の顔を、今でもはっきりと憶えている。照れたように顔を逸らした初々しい青年を、今でもはっきりと憶えている。それなのに。
(……――――これがお前の死に様かっ。……アーシェっ)
胸を裂くほど切なく呟いて、カインは目の前に広がる惨劇の光景を打ち消すようにぎゅっときつく目を閉じた。
霧雨は動かない体を慈しむように、延々と降り続いていた。
ぱちん。
シェリルの夢が弾けた。ぐるぐるにかき回された水面のように、夢の世界がぐにゃりと歪む。カインもルーヴァも、血に濡れたおぞましい光景もすべてがひとつに混ざり合って、遠くはるか彼方へ吸い込まれていく。と同時に、別の光景がシェリルの脳裏に広がった。
そこには、ルーヴァがいた。隣で茶色の髪をひとつに纏めた女性が、嬉しそうに微笑んでいた。
「へぇー。お前らが結婚ねぇ」
意味ありげに笑みを浮かべた悪友を、ルーヴァがぎろりと睨みつける。
「何か言いたそうだな」
「別に。……ここんとこやけに勉強熱心だと思ったらそう言う事か」
「違う! 僕は純粋にアーシェから医術を学ぼうとっ」
「あら? それじゃあ、私はついでなの?」
カインの言葉を慌てて否定するルーヴァの隣で、その様子を面白そうに見ていたアーシェが追い打ちをかけるように軽い冗談を飛ばした。
「いやっ……それは、その」
困って言葉を詰まらせたルーヴァを見ながら、カインは堪えきれずに笑い出す。つられて笑うアーシェの隣で、ルーヴァだけがむうっと眉を顰めて二人を睨みつけていた。
居心地のいい空間だった。仲間と呼べる者たちとの他愛ない会話。交わす微笑み。本来の『自分』なら、決して手にする事の出来なかった時間。それらひとつひとつの感情は、確実にカインの中のルシエルを変えていった。
「お前、本当にアーシェにプロポーズしたのかよ? 疑わしいな」
「失礼ね。リリスや他の女の人たちと遊んでるカインよりはずっと誠実よ。ルーヴァはちゃんと言ってくれたもの」
「へぇ、何て?」
すいっと身を乗り出したカインに、アーシェが悪戯っぽく微笑んだ。
「聞きたい? 教えてあげましょうか?」
「アーシェっ!」
ぱちん。
夢が弾けた。
飛び交う談笑。優しく過ぎていく風景。屈託のないアーシェの無邪気な笑顔を歪ませて、夢はまた違う過去を映し出す。
そこには新たな命の誕生があった。
「今、何て……?」
窓の外では、枯れた風が散ってしまった木の葉を弄んでいた。アーシェの淹れた香りの良い紅茶を飲んでいたルーヴァは、思いもよらない彼女の告白に目を丸くする。
「確かにね、私もまだ早いかなって思ったのよ。二人でいるのも楽しいし、ルーヴァだって予想外だっただろうし、むしろそんなつもりもなかったかもしれないし。でもすごく喜んでる自分もいて、ルーヴァも同じように思ってくれたらいいなって思うんだけど……そういえば今日の夕飯なんだけど……」
「アーシェ。アーシェ、落ち着いて。肝心なところだけを、もう一度だけ言って?」
ルーヴァに両肩を捕まれて見つめられ、アーシェが恥かしそうに下を向く。
「……だから。その…………子供がね」
言い終わらないうちに、アーシェはルーヴァに抱き締められていた。大好きなルーヴァの、今ではもう当たり前のように傍にある温もりにゆっくりと目を閉じて、アーシェは体全部でルーヴァの鼓動を受け止める。
いつもより少し早い彼の鼓動には、喜びがたくさん詰まっているような気がした。
――――種を植え付けたのはお前だ。
夢を見ているシェリルの中に、不気味な声音が染み込んできた。
『お前は何も知らないまま、愛する女の腹に災いの種を植え付けた。種は呪い。お前に傷付けられた魔物が発した、最期の悲鳴』
シェリルの脳裏に浮かんでは消えていく光景。そこではルーヴァと、エセルの街を滅ぼした魔物が激しい死闘を繰り広げていた。決死の覚悟でルーヴァに体当たりした魔物が残した最期の呪い。それは誰にも気付かれる事なく、ルーヴァの中でひっそりと『その時』を待っていた。
『お前は生かされるべきではなかった。お前は交わるべきではなかった。お前は……』
――――お前はあの時、呪いと共に死ぬべきだったのだ。
「やめてっ」
シェリルがそう叫んだ瞬間、夢は霧雨の降る冷たい石畳を映し出した。
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