87 / 114
第5章 終わらない夜
悲しみの情景・5
しおりを挟む
『俺はカイン。お前は?』
――――前に出会った戦友は、俺を庇って戦死した。
『僕はルーヴァだ』
――――こいつはどんな死に様を、俺に見せてくれるだろう。
衝突する光と闇が多くの命を奪った天地大戦から数千年が経ち、悲しい傷跡は天界の記憶にのみ封印された。
長い年月をかけて穏やかな時間を再び手に入れた天界に、彼はたったひとりで存在していた。
誰も彼を知る者はいない。そして彼もまた自分について確かな事は何ひとつ憶えてはいなかった。
多くの時代を生きた。多くの名前を語った。望まない輪廻を繰り返すうちに、彼は自分の中にある小さな虚無に気付き始める。
何か大切なものを手放してしまったような喪失感。うわべだけの友情や仮初めの愛では決して埋める事の出来なかった胸の隙間。それが何であるのかを彼はずっと前から知っていた。けれど、思い出す事は出来なかった。
それを知るのは彼ではなく、運命の落し子を待つ『彼』だけなのだから。
彼女の名は、アーシェと言った。
月の宮殿に保護された数少ないエセルの生き残りだった彼女は、魔物襲撃によりすべてを失っていたにも関わらず、率先して他の怪我人の手当てを行っていた。
次々と運ばれてくる負傷者たち。片腕を無くした者や背中を深く抉られた者たちの中には、呼吸の浅い瀕死の者もいる。治癒魔法の追いつかない混乱に満ちた状況下で、アーシェの手伝いは大きな助けとなった。
魔道士としてではなく医者としてエセルの街に住んでいた彼女は、こういう時何をどうすればいいのか誰よりもよく知っている。帰る場所も家族も友も失ったが、今は悲しんでいる時ではない。傷付いた命を助ける為に、できる事をするだけだ。
呪文の詠唱と苦しみ呻く声が木霊する室内に、突然荒々しい音が響き渡った。外側から豪快に扉を蹴り開けてずかずかと中に入ってきた男に、一瞬誰もが目を奪われた。
珍しい紫銀の髪と冷たい輝きを宿す淡いブルーの瞳。あまりにも整いすぎた顔からは、神に似た高貴さすら感じられる。息をするのも忘れて男に魅入っていたアーシェは、彼の肩に担がれている血まみれの人物に気付いてはっと目を覚ました。
「おいっ! 急患だ、急患っ。出来ればこいつを先に診てやってくれ」
他者の言葉を通さない強い口調で叫んだ男が、壁際の空いた所に抱えていたルーヴァを静かに置いた。
「ルーヴァっ!」
血まみれの人物が自分の弟である事に気付いて、セシリアが唱えていた呪文を思わず中断した。取り乱したように駆け寄ってきたセシリアへ視線を向けて、カインが事の顛末を簡潔に話して聞かせる。
魔物を倒してここに戻ってくるまでの間、ルーヴァはずっと口を開かなかった。体温はみるみるうちに低下し、意識も不安定な状態が続いていた。時々怯えたように周囲を見回したかと思うと、今度はぶつぶつと聞き取れない言葉を呟く。月の宮殿が見える頃には、もう彼の意識は完全に途絶えていた。
「ルーヴァ? ルーヴァっ!」
弟の傍に座り込んで治癒魔法を施そうとしたセシリアを見て、カインが無駄だと言い放つ。戦いに長けた者でも治癒魔法の知識くらいは、多少なりとも身につけているのが普通だ。明らかに瀕死の状態であるルーヴァに対して、カインがそれを行わないはずがない。しかし、魔法はすべて拒否された。なぜだか理由は定かではないが、ルーヴァの体が魔法を避けてしまっているのだ。これでは手当てのしようがない。
「そんなっ」
目の前で拒絶された治癒魔法に愕然と肩を落したセシリアが、言葉を詰まらせて唇をきつく噛み締めた。魔法が効かないのならセシリアにルーヴァは治せない。魔法を拒絶する原因を調べている間に、ルーヴァは確実に死んでしまうだろう。時間はない。けれど、助ける方法も見つからない。
「私がやりますっ」
緊迫した雰囲気を破ってそう言ったのはアーシェだった。
「個室をひとつ貸して下さい。あと水と清潔なガーゼを出来るだけたくさん。なければ布でも構いませんっ。急いで!」
医者として、アーシェはルーヴァを助けなければと思った。しかしそれは、後に彼女自身をも巻き込む悲しい不幸を招き寄せる。ルーヴァを助けるという行為そのものが罪であるという事に、アーシェはまだ気付くはずもなかった。
――――前に出会った戦友は、俺を庇って戦死した。
『僕はルーヴァだ』
――――こいつはどんな死に様を、俺に見せてくれるだろう。
衝突する光と闇が多くの命を奪った天地大戦から数千年が経ち、悲しい傷跡は天界の記憶にのみ封印された。
長い年月をかけて穏やかな時間を再び手に入れた天界に、彼はたったひとりで存在していた。
誰も彼を知る者はいない。そして彼もまた自分について確かな事は何ひとつ憶えてはいなかった。
多くの時代を生きた。多くの名前を語った。望まない輪廻を繰り返すうちに、彼は自分の中にある小さな虚無に気付き始める。
何か大切なものを手放してしまったような喪失感。うわべだけの友情や仮初めの愛では決して埋める事の出来なかった胸の隙間。それが何であるのかを彼はずっと前から知っていた。けれど、思い出す事は出来なかった。
それを知るのは彼ではなく、運命の落し子を待つ『彼』だけなのだから。
彼女の名は、アーシェと言った。
月の宮殿に保護された数少ないエセルの生き残りだった彼女は、魔物襲撃によりすべてを失っていたにも関わらず、率先して他の怪我人の手当てを行っていた。
次々と運ばれてくる負傷者たち。片腕を無くした者や背中を深く抉られた者たちの中には、呼吸の浅い瀕死の者もいる。治癒魔法の追いつかない混乱に満ちた状況下で、アーシェの手伝いは大きな助けとなった。
魔道士としてではなく医者としてエセルの街に住んでいた彼女は、こういう時何をどうすればいいのか誰よりもよく知っている。帰る場所も家族も友も失ったが、今は悲しんでいる時ではない。傷付いた命を助ける為に、できる事をするだけだ。
呪文の詠唱と苦しみ呻く声が木霊する室内に、突然荒々しい音が響き渡った。外側から豪快に扉を蹴り開けてずかずかと中に入ってきた男に、一瞬誰もが目を奪われた。
珍しい紫銀の髪と冷たい輝きを宿す淡いブルーの瞳。あまりにも整いすぎた顔からは、神に似た高貴さすら感じられる。息をするのも忘れて男に魅入っていたアーシェは、彼の肩に担がれている血まみれの人物に気付いてはっと目を覚ました。
「おいっ! 急患だ、急患っ。出来ればこいつを先に診てやってくれ」
他者の言葉を通さない強い口調で叫んだ男が、壁際の空いた所に抱えていたルーヴァを静かに置いた。
「ルーヴァっ!」
血まみれの人物が自分の弟である事に気付いて、セシリアが唱えていた呪文を思わず中断した。取り乱したように駆け寄ってきたセシリアへ視線を向けて、カインが事の顛末を簡潔に話して聞かせる。
魔物を倒してここに戻ってくるまでの間、ルーヴァはずっと口を開かなかった。体温はみるみるうちに低下し、意識も不安定な状態が続いていた。時々怯えたように周囲を見回したかと思うと、今度はぶつぶつと聞き取れない言葉を呟く。月の宮殿が見える頃には、もう彼の意識は完全に途絶えていた。
「ルーヴァ? ルーヴァっ!」
弟の傍に座り込んで治癒魔法を施そうとしたセシリアを見て、カインが無駄だと言い放つ。戦いに長けた者でも治癒魔法の知識くらいは、多少なりとも身につけているのが普通だ。明らかに瀕死の状態であるルーヴァに対して、カインがそれを行わないはずがない。しかし、魔法はすべて拒否された。なぜだか理由は定かではないが、ルーヴァの体が魔法を避けてしまっているのだ。これでは手当てのしようがない。
「そんなっ」
目の前で拒絶された治癒魔法に愕然と肩を落したセシリアが、言葉を詰まらせて唇をきつく噛み締めた。魔法が効かないのならセシリアにルーヴァは治せない。魔法を拒絶する原因を調べている間に、ルーヴァは確実に死んでしまうだろう。時間はない。けれど、助ける方法も見つからない。
「私がやりますっ」
緊迫した雰囲気を破ってそう言ったのはアーシェだった。
「個室をひとつ貸して下さい。あと水と清潔なガーゼを出来るだけたくさん。なければ布でも構いませんっ。急いで!」
医者として、アーシェはルーヴァを助けなければと思った。しかしそれは、後に彼女自身をも巻き込む悲しい不幸を招き寄せる。ルーヴァを助けるという行為そのものが罪であるという事に、アーシェはまだ気付くはずもなかった。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
旦那様には愛人がいますが気にしません。
りつ
恋愛
イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】
ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?


元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる