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第5章 終わらない夜
悲しみの情景・4
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彼は、そこにいた。
いつからそこにいるのか、何をしていたのかはまったく覚えていなかった。
気がつくと、視界の隅で見知らぬ男が魔物と戦っていた。
多くの時代を生き、幾多の名前を持つ彼が『カイン』として目覚めた瞬間だった。
高く響いた金属音と共に、サファイア色の短剣が円を描きながら宙を舞った。武器を失い一瞬躊躇したルーヴァの隙を逃さず、魔物が全力を振り絞って体当たりする。魔物の決死の攻撃にルーヴァは勢いよく吹き飛ばされ、真後ろの大木へ激突した。衝撃は重く、内臓や骨が粉々に砕け散ってしまったかのような耐え難い激痛がルーヴァの全神経を震わせ、彼は立ち上がる事も出来ずにそのままぐったりと木にもたれかかってしまった。
咳き込んだ拍子に吐き出された大量の血液が、衣服を真紅に染め上げていく。武器を失った左手を固く握り締めて、ルーヴァはゆっくりと近付いてくる魔物を鋭い目つきで睨みつけた。
(やっと追い詰めたんだっ。ここで負ける訳には……)
ぎりっと歯を食いしばって、ルーヴァは魔物を睨みつけたまま、残った魔力を左手に集中し始めた。神聖すぎて恐ろしくもあるその力は、命を削る聖魔力。ルーヴァの左手に宿ったそれが青い龍の姿を象って、敵を威嚇するように大きく口を開けたその瞬間。
「自分の命までかけて戦う相手か?」
真上から聞こえた突然の声に、ルーヴァがはっと目を見開いた。その視線の先、二人の間に音も立てずに降り立った声の主は、どことなく創世神を思わせる神々しさを身に纏っていた。
「き……君は一体」
「黙って見てな。こいつは俺が殺ってやる」
「戦うつもりか? 無茶だっ。負傷しているとはいえ、奴はエセルの街を壊滅させた魔物だぞ!」
ルーヴァの言葉に耳を貸す様子もなく、男は魔物と向かい合ったまま右の手のひらから銀色に輝く剣を召喚させる。本気で戦うつもりの男にぎょっとして、ルーヴァが更に大声を張り上げた。
「本気かっ? 死ぬぞ!」
「怪我人が良く吠える。俺が死ぬって言う根拠は、どこにあるんだ?」
うんざりしたように答えて、男がルーヴァへ視線を移す。
「大体、俺は死ぬ気がしない」
断言してにやりと笑みを浮かべた男に、ルーヴァは何か得体の知れないものを感じていた。
エセルは有能な魔道士たちを育てる為に造られた街のひとつで、天界の戦力の一片を担っていた。同じ目的で造られた他の街より小規模な運営ではあったが、そこに集う者たちは熟練した魔道の使い手ばかりで、魔物による多少の攻撃など心配の対象ではなかった。
それが、たった一夜にしてほぼ全滅。僅かな生き残りは月の宮殿へ保護された。
ルーヴァは戦士たちの中でも特に能力の高い者だけを集め、その精鋭部隊の隊長として魔物討伐に出向した。しかし魔物の圧倒的な力を前に、彼らはその攻撃を相殺するだけで精一杯だった。やっとの思いで魔物に致命傷を負わせる事が出来たが、それまでに失った仲間の数は予想をはるかに超えていた。
ルーヴァの右手を麻痺させたあの炎は、死に際の一撃だったはずだ。しかし死を目前にしてもなお、力の衰えない魔物にルーヴァは苦戦を強いられた。天界戦士一の実力を持つ彼でさえ倒せない魔物を、この男は簡単に倒してやると言ってのける。どうやって。
男の後ろ姿を困惑した表情で見つめていたルーヴァが瞬きをしたその一瞬に、魔物は男の剣によって頭部をはね飛ばされ、悲鳴を上げる事もなくあっけなく倒されていた。轟音を上げて崩れ落ちていく魔物をぽかんと見ていたルーヴァの前で、男は何事もなかったかのように大きく伸びをしてみせる。
「死んだのは俺か? それともあいつか?」
動かなくなった魔物の巨体を指差して尋ねた男に、ルーヴァが不自然な笑みを浮かべて緩く首を左右に振る。
「……君は……」
そこで言葉を切って、ルーヴァは今さっき目にした光景を頭の中で整理しようとする。けれど彼が見たのは魔物を切り裂く銀の軌跡の残像だけで、気がつくとすべてはあっという間に終わっていたのだ。
安堵したのか混乱しているのか、曖昧な表情のまま溜息をついたルーヴァの上に、ふっと影が落ちた。人の気配を感じて顔を上げたルーヴァの前に、男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「君のおかげで助かった。……ありがとう」
「お前、死ぬつもりだったのか?」
問われて、ルーヴァが男から視線を逸らす。
「……分からない。けれど、どうしても倒さなければと思っていた」
「どっちにしてもそのままじゃ確実に死ぬだろうな」
恐ろしい事をさらりと口にして、男がルーヴァに手を差し出した。
その手のひらには、男を変える希望があった。仲間を信じ、大切なものを守り、たったひとつの愛に気付く力を秘めていた。それが『カイン』である証。
「お前の帰る場所へ連れてってやるよ。どこかで野垂れ死にされても困るしな」
「……」
目の前に差し出された手を暫く見つめていたルーヴァだったが、思い直したように男へと視線を戻すと、疲れきった顔にかすかな笑みを浮かべた。
「……それじゃあ、悪いけどよろしく頼むよ。えぇと……」
「カインだ。お前は?」
「僕はルーヴァだ。……突然の出会いに救われたよ。実はもう、動く事も辛くてね」
苦笑しながらそう言って、ルーヴァはゆっくりと左手をカインへ伸ばす。お互いの手が重なり合った瞬間、二人の間には確かな友情が芽生え始めていた。
そしてこの時から、カインの時間も運命と共にゆっくりと動き出す。今はまだ『カイン』としての人格に、何の疑いも持たないまま。
いつからそこにいるのか、何をしていたのかはまったく覚えていなかった。
気がつくと、視界の隅で見知らぬ男が魔物と戦っていた。
多くの時代を生き、幾多の名前を持つ彼が『カイン』として目覚めた瞬間だった。
高く響いた金属音と共に、サファイア色の短剣が円を描きながら宙を舞った。武器を失い一瞬躊躇したルーヴァの隙を逃さず、魔物が全力を振り絞って体当たりする。魔物の決死の攻撃にルーヴァは勢いよく吹き飛ばされ、真後ろの大木へ激突した。衝撃は重く、内臓や骨が粉々に砕け散ってしまったかのような耐え難い激痛がルーヴァの全神経を震わせ、彼は立ち上がる事も出来ずにそのままぐったりと木にもたれかかってしまった。
咳き込んだ拍子に吐き出された大量の血液が、衣服を真紅に染め上げていく。武器を失った左手を固く握り締めて、ルーヴァはゆっくりと近付いてくる魔物を鋭い目つきで睨みつけた。
(やっと追い詰めたんだっ。ここで負ける訳には……)
ぎりっと歯を食いしばって、ルーヴァは魔物を睨みつけたまま、残った魔力を左手に集中し始めた。神聖すぎて恐ろしくもあるその力は、命を削る聖魔力。ルーヴァの左手に宿ったそれが青い龍の姿を象って、敵を威嚇するように大きく口を開けたその瞬間。
「自分の命までかけて戦う相手か?」
真上から聞こえた突然の声に、ルーヴァがはっと目を見開いた。その視線の先、二人の間に音も立てずに降り立った声の主は、どことなく創世神を思わせる神々しさを身に纏っていた。
「き……君は一体」
「黙って見てな。こいつは俺が殺ってやる」
「戦うつもりか? 無茶だっ。負傷しているとはいえ、奴はエセルの街を壊滅させた魔物だぞ!」
ルーヴァの言葉に耳を貸す様子もなく、男は魔物と向かい合ったまま右の手のひらから銀色に輝く剣を召喚させる。本気で戦うつもりの男にぎょっとして、ルーヴァが更に大声を張り上げた。
「本気かっ? 死ぬぞ!」
「怪我人が良く吠える。俺が死ぬって言う根拠は、どこにあるんだ?」
うんざりしたように答えて、男がルーヴァへ視線を移す。
「大体、俺は死ぬ気がしない」
断言してにやりと笑みを浮かべた男に、ルーヴァは何か得体の知れないものを感じていた。
エセルは有能な魔道士たちを育てる為に造られた街のひとつで、天界の戦力の一片を担っていた。同じ目的で造られた他の街より小規模な運営ではあったが、そこに集う者たちは熟練した魔道の使い手ばかりで、魔物による多少の攻撃など心配の対象ではなかった。
それが、たった一夜にしてほぼ全滅。僅かな生き残りは月の宮殿へ保護された。
ルーヴァは戦士たちの中でも特に能力の高い者だけを集め、その精鋭部隊の隊長として魔物討伐に出向した。しかし魔物の圧倒的な力を前に、彼らはその攻撃を相殺するだけで精一杯だった。やっとの思いで魔物に致命傷を負わせる事が出来たが、それまでに失った仲間の数は予想をはるかに超えていた。
ルーヴァの右手を麻痺させたあの炎は、死に際の一撃だったはずだ。しかし死を目前にしてもなお、力の衰えない魔物にルーヴァは苦戦を強いられた。天界戦士一の実力を持つ彼でさえ倒せない魔物を、この男は簡単に倒してやると言ってのける。どうやって。
男の後ろ姿を困惑した表情で見つめていたルーヴァが瞬きをしたその一瞬に、魔物は男の剣によって頭部をはね飛ばされ、悲鳴を上げる事もなくあっけなく倒されていた。轟音を上げて崩れ落ちていく魔物をぽかんと見ていたルーヴァの前で、男は何事もなかったかのように大きく伸びをしてみせる。
「死んだのは俺か? それともあいつか?」
動かなくなった魔物の巨体を指差して尋ねた男に、ルーヴァが不自然な笑みを浮かべて緩く首を左右に振る。
「……君は……」
そこで言葉を切って、ルーヴァは今さっき目にした光景を頭の中で整理しようとする。けれど彼が見たのは魔物を切り裂く銀の軌跡の残像だけで、気がつくとすべてはあっという間に終わっていたのだ。
安堵したのか混乱しているのか、曖昧な表情のまま溜息をついたルーヴァの上に、ふっと影が落ちた。人の気配を感じて顔を上げたルーヴァの前に、男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「君のおかげで助かった。……ありがとう」
「お前、死ぬつもりだったのか?」
問われて、ルーヴァが男から視線を逸らす。
「……分からない。けれど、どうしても倒さなければと思っていた」
「どっちにしてもそのままじゃ確実に死ぬだろうな」
恐ろしい事をさらりと口にして、男がルーヴァに手を差し出した。
その手のひらには、男を変える希望があった。仲間を信じ、大切なものを守り、たったひとつの愛に気付く力を秘めていた。それが『カイン』である証。
「お前の帰る場所へ連れてってやるよ。どこかで野垂れ死にされても困るしな」
「……」
目の前に差し出された手を暫く見つめていたルーヴァだったが、思い直したように男へと視線を戻すと、疲れきった顔にかすかな笑みを浮かべた。
「……それじゃあ、悪いけどよろしく頼むよ。えぇと……」
「カインだ。お前は?」
「僕はルーヴァだ。……突然の出会いに救われたよ。実はもう、動く事も辛くてね」
苦笑しながらそう言って、ルーヴァはゆっくりと左手をカインへ伸ばす。お互いの手が重なり合った瞬間、二人の間には確かな友情が芽生え始めていた。
そしてこの時から、カインの時間も運命と共にゆっくりと動き出す。今はまだ『カイン』としての人格に、何の疑いも持たないまま。
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